しおりは怖かった。

 圭人が犯人ではない事を知りながら黙っている事も、架純たちの攻撃の対象が逸れる事も。


 いじめは巧妙だった。

 鉛筆がなくなった事を、架純は先生に言わなかった。それを盾に、圭人の反抗を封じたのだ。


 架純のグループが圭人の取り巻きの男子を取り込み、彼は孤立した。

 ……そしてしおりも、いつしか架純の仲間に入っていた。


 無視され、持ち物を隠され、机を汚され、冷たい目を向けられる。

 「圭人は泥棒をした悪人である」という大義名分で、何をしても許されるという空気が、教室に蔓延した。

 その矛先が自分に向いたらと思うと、恐怖で喉が詰まり、しおりもその行為に加担するしかなかった。


 ――もしかしたら、これが「バチ」なのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせながら。


 ところが、紛失事件はまなかった。

 ある時は定規が、ある時は下敷きが、そしてある時、クラス全員分の算数の教科書が消えて、さすがに先生も問題にせざるを得なくなった。


 学級会。

「机に顔を伏せて、手を上げなさい。……みんなの教科書がどこにあるのか、知ってる人?」


 しおりは知っていた。

 なぜなら、しおりの教科書だけが、なくなっていなかったから。


 ――『友達』の仕業だ。


 けれど、そんな事、言える訳がない。それを認めれば、しおりがその行為の原因だと明かさなくてはならない。 

 しおりは自分の教科書を、誰にも見られないよう隠して、知らないフリをした。


 すると、誰かが言った。

「犯人は圭人君だと思います」

「どうしてそう思うの?」

「彼は泥棒だからです」


 その言葉を掻き消すように、圭人がドンと机を叩いた。

「ふざけんな!」

 椅子を蹴り倒して立ち上がり、彼は声を荒げた。

「俺は何も知らない! 泥棒なんかじゃない! なのに、なのに……!」


 言葉を詰まらせた圭人は、そのまま教室を出て行った。

 そして翌日から、教室に来なくなった。



 ***



「……怖かったんです」

 しおりは俯き、ニッキ水の瓶を握り締めた。

「あんな空気の中で、本当の事なんて言えません……それに、そんな大それた事をする『友達』の存在も、恐ろしくて」

 獄楽は静かに頷いた。

「約束もありますからな、の存在を秘密にするという、約束が」


 獄楽は緩慢な動きで姿勢を正した。

 薄笑いで細めた目の色は窺えず、感情が見えない。


 柱時計が、ボーンボーンと時を知らせる。

 急かす意図を全く見せない緩やかな鐘の音に、だがしおりは顔を上げた。


「鉛筆の事件があってから、あの小屋に行くのを止めていました。その頃、架純のグループにいて、変な動きを見せれば、あの場所がバレてしまうと思ったし……あの場所にきっと、盗まれたものが全部あると思うと、その原因が私にあると思うと……」

 しおりは唇を噛んだ。それからすっかり温くなったハッカ水を一気に喉に流し込み、言葉を続けた。

「でも、圭人が学校に来られなくなって、さすがにこのままではいけないと思いました……ものすごく怖かったけど……」



 ***



 架純の目を盗み、しおりは体育館の裏へと向かった。

 何週間かのうちに草は背を伸ばし、草いきれの中を、小さな虫が飛び交っている。

 何度か深呼吸をした後、しおりはガタガタとひび割れた側溝を踏んで奥へと向かった。


 薄暗い隙間にある小屋は、相変わらず苔むし、汚れて、陰気だった。


 足が震えるのが分かった。

 情けないほど時間をかけて、重い足を無理矢理押し出し、ようやく扉の前に立つ。

 でも、ささくれ立った扉を押す勇気が出ない。


 じわりとぬるい風が頬を撫でる。葉の尖った草が膝の裏に当たる。


 チクチクした木肌に触れたまま、時間が止まった気がした。


 呼吸が喉を鳴らす。

 粘度の高い嫌な汗が額を伝う。

 意識しないと、震える膝から崩れ落ちそうだった。

 空間が歪んで、体が飲み込まれそうな気がした。


 どれくらいそうしていただろう。

 不意に膝の裏に違和感を覚えた。見ると、草の葉を伝った蟻が一匹、モゾモゾと張り付いている。


「キャッ!」

 慌てて振り払い、しおりは我に返った。

 ……いつまでこうしてはいられない。


 意を決し、扉に向き合う。

 そして息を止め、扉を押す。


 キーと小さく、蝶番の擦れる音。

 そして……。



 竹箕に敷かれた、カリカリに乾いた木蓮の葉の上に、丁寧に教科書が並べられていた。

 その隙間から、定規や下敷きが見える。



 分かっていたはずなのに、現実を目の前にすると血の気が引いた。

「あぁ……」

 口を押さえて崩れ落ちる。

 冷たい床にへたり込んだしおりに、ペンキの剥がれた扉の向こうの声は言った。



「待ってたのに。ずっと、待ってたのに」

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奇談屋『獄楽堂』 山岸マロニィ @maroney

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