ありふれた診療録 ある外科医の日常
@tomoshi6452
第1章 外科の日常
(1)
頭が痛い。
先ほど見た時計が示していた時刻は午後11時45分。
通常であれば街は静寂に包まれている時間なのだろうが、ここは違う。大画面のモニターにいくつも映る緑や水色の波線と数字、そのうちのどれかの上部にはアラートの文字と耳に残る音。
デスクトップパソコンが置かれている机の横で突っ伏していたが、隣に現れた人物に肩を叩かれたことで頭を上げた。
「先生、86歳女性、トイレに行こうとして廊下で転倒。左の股関節辺りを痛がって歩行不可能。バイタル安定、受け入れていいですか?」
エンジ色のスクラブを着た肩につかない程度に揃えられたミディアムボブの看護師に尋ねられる。端的に的確にまとめられた内容を頭で判断しておおよその診断を浮かべる。
「……断っていいんでしたっけ。恐らく整形外科の待機呼ばないとダメなんですけど」
目を閉じていたため、部屋の光が眩しくさらに頭痛が酷くなる。
「あそこにクソみたいな理念掲げてます。それにこの時間だと、二次救急やってるところ、ここくらいしかないので、結局また回り回ってやってきますよ」
看護師は片手に持ったままの子機で、今座っている後ろのホワイトボードが掛かった壁の上部に貼られてある張り紙を指し示した。
“どんな時でも断らない救急を”
あぁ……と思い、ため息を吐き出しながら天井を見上げた。
「いいっすよ……ファーストタッチ、研修医のどっちかにお願いします」
「了解」
保留にしていた子機を耳に当て、収容可能であることを返事した。電話を切ってから、ため息を吐き出した看護師がこちらと視線を合わせる。
「ベッドどこにしますか? 傷の処置とかはなさそうですし、8番とかでいいですかね?」
ぐるっと辺りを見回して今いる場所の右側にあるストレッチャーが置かれているスペースを指さす。その質問に対して頷きながら欠伸が出てしまった。
「藤田先生、5分後に転倒後の左股関節痛が来ます。8番ベッドに入れますよ」
机の上で手元の紙に簡単な情報を書きながら、正面の5番と書かれたスペースにいる研修医に呼びかけていた。
「えぇ…」という声を漏らしながら、藤田と呼ばれた研修医の1人は「分かりましたー」と返事を続けた。
書き終えた情報シートを後ろのホワイトボードの8番とシールの貼られている部分の下に磁石で止め、ネームプレートに'服部'と書かれた看護師は再度こちらに視線を向けた。
「服部さん夜勤の時、いっつも忙しくないですか……」
「んー、今日はまだマシかな。五十嵐先生降りてくるまでの方が忙しかったよ」
「マジっすか……よかったー、その時間手術してて」
「今日は何のオペだったんですか?」
「PD執刀です。なんで今日の僕は何もやる気起きません」
そう返事をして視線を電子カルテが開かれているパソコンのモニターに向けた。ICUに入室している自分の担当患者のカルテを開く。経過表のアプリを立ち上げ、ICU入札後の患者のバイタルサインや尿量、ドレーンの色調などの記載をチェックする。
PD(膵頭十二指腸切除術)は市中病院で行う定型消化器外科手術の中では最も神経を使う。術中の操作もそうだが、切除後の消化管再建、術後の合併症など、気にしなければならないことが多々ある。
まだ医師として9年の期間しか経験していないが、ある程度の消化器外科手術はこなしてきている。そんな中でもこの術式は特に体力も使えば神経をすり減らされるのだ。
「え、PDやったのに今日当直なの? 外科ブラックすぎない?」
げっ、というように顔をしかめた服部さんは後ろのホワイトボードの方を再度向きながらこちらに声をかけた。
「外科がブラックというより、ここがブラックなのが日常茶飯事じゃないですか」
「違いないわね」
こちらの言葉に苦笑いしながら、ホワイトボードに貼られている情報シートを服部さんは整理していた。
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