(9)
静かな教室には先ほど出て行った時と変わらず、冬川さんがブランケットに包まれるように机に突っ伏していた。
「冬川さん」
机の前に目線を合わせるように腰を屈め、声をかけた。腕の中から頭を上げ、しんどそうな顔をこちらに向ける。
「こういう時どっちがいいか分からなかったから、よかったら好きな方で水分補給してみて」
両手に持っていたココアの缶とお茶のペットボトルを机に置く。ホットの飲み物が自販機に入れられ始めていたため、この2つを選んだ。本当ならポカリなどがいいのだろうが、恐らく熱のせいで震えているところに冷たい飲み物は辛いだろう。
少し驚いたように目を見開いて、こちらを真っ直ぐ見てからしんどい中で口角を少し上げて、「ありがと……」と微笑んでくれた。ココアの缶を両手で持ち、一息ついていた。
「谷岡先生に声かけたら、もう少ししたら顔見にきてくれるって」
「そっか……、ありがとうね、五十嵐くん」
熱のせいか、いつもよりかなり虚ろな視線でこちらとココアを見て返事が返ってくる。こういう時に常備薬とかを持ち歩くような中学生なんているはずもなく、今思い返してもこれ以上できることなんてなかった。会話をするのもしんどいだろうと思い、少しの沈黙の後に声をかけた。
「じゃあ、俺も部活行くね、本当に気をつけて」
屈めていた腰を上げて、シューズ袋を手に扉の方に向かおうとした。その瞬間、右手首を冬川さんに掴まれていた。驚いて視線を向けると、こちらを見上げながら、遠くを見るような目の冬川さんがいた。
「ごめん、本当にわがままなんだけど……先生が来るまで、もう少しここにいて」
こちらの右手首を掴んだまま、冬川さんは空いた方の腕に顔を埋めた。少しだけ逡巡したが、もう一度机の前に屈んだ。掴まれたままの手が不意に額に軽く触れてしまった。
「……あっつ」
ふと声が漏れ出てしまった。相当の熱があるのだろう。
「……しんどいよ」
掴んでいた手を離して、机の上に置いていたこちらの手に重ねてくる。手だけでもかなり熱い。
時期的には少し早い気もするが、インフルエンザだろうか。自分は中体連最後の大会前という真夏にこの年はかかってしまったが。
すごく不謹慎なことではあるが、相手が体調不良の状態の中でも、どうしても思春期のこの時期にこのシチュエーションはドキドキしてしまったのをよく覚えている。まして当時の自分が好意を寄せていた相手が目の前にいる状況だったから尚更だった。
「冷たいものの方がよかった?」
緊張で喉の奥が痛い。重ねられた手を見つめ、少し掠れながら声をかけた。首を軽く横に振って、「寒かったから……ココアが嬉しかった。ありがと」と続けた冬川さん。
「朝から調子悪かったの?」
「いや……昼休み終わったくらいから、かな」
「喉痛い?」
「うん、少しね」
腕に口元を当てて咳をして、「感染ったらごめんね」と続ける。
それに対して首を振って返事をした。
「インフルエンザだったら夏にかかったから、多分大丈夫」
そう答えると隠れていた顔が上がり、目が合った。先ほどよりも柔らかい笑顔を見せてくれた。
「優しいね」
少しマシになってきていた胸の高鳴りが、またぶり返した。何気ないひと言、特に意識もしていないのだろうが、こちらの情緒を殴りつけるには十分である。
「ひとりでは結構しんどかったけど、誰かがいてくれると、少し楽になった」
頭痛もあるのだろう、すぐに顔をさげて、今度は重ねられていた手の甲に額をつけた。少し毛先に癖のあるショートカットに整えられた髪がこちらの腕に触れる。何が何だか訳が分からなくなってくる。静かな教室としんどそうな息遣い、2人だけの空間がそこにはあった。
時間にしては恐らく10分もなかったと思う。その後、谷岡先生が、「大丈夫か?」と駆けて教室に入ってきて、お願いをして立ち上がった。家族から連絡も来ており、あと10分程度で迎えが来てくれるとのことだった。
部活に遅れた理由は腹痛でトイレに駆け込んでいたことにした。
このことは、中高時代には誰にも話していない。幸いにも本当に誰にも見られていなかった。卒業してからは、成人式の時に話したことがあった。
この時に思ったことは、当時自分は何かできた訳でもなく無力であったはずなのに、近くにいる、少しだけ寄り添うということが、誰かのためになる時もあるのだ、ということだった。治療をしたり薬を考えたりするといったことではなく、少し話をしただけ。ただそれだけのことだったのに、少しだけ身体の負担を軽くしてあげられたような気がした。
もともと漠然と医者になりたいな、とは思っていたけれど、これもきっかけに尚更強く思うようにもなった。浅い考え方なのかもしれないが、当時はそう思っていた。
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