白い冬と赤い頬
鴻上ヒロ
思い描けない10年後を今に描く
進路希望表が、出せなかった。ボクにはわからなかった。中学1年生になってまだ1年も経っていないのに、これからどうしたいかなんて、わかるわけがない。太宰をめくってみても、ドストエフスキーを開いてみても、ましてやフィリップ・K・ディックを開いても答えはなかった。当たり前だ。教科書にもないのに。
インターネットにはあったけど、どのみち、人の答えなんだから得たところで意味なんかなかった。AIが教えてくれた概要によると、進路を決める時期はどんどん早まっているらしいけれど、早ければいいというわけでもないと思う。
なんでかは、ボクにはわからない。
ふう、と息を吐くと白くなる。街灯の光が、足元を照らしている。目に見えている景色の輪郭が、夏よりもハッキリとしているのに、どこかぼやけて見える。人を待つ時間は嫌いじゃないけれど、冬のこの肌を刺すような感じと妙な白さとぼやぼやとした感覚は好きになれそうにない。
街灯の薄明かりの下で、白紙の進路希望表とにらめっこしていると、待ち人・唯華姉が来た。
彼女は赤いマフラーを巻いて、赤い手袋をして、手袋ごしに手をすりすりと擦りながら屋根付きの丸いベンチに座っているボクに歩み寄っている。目が合うとニタァとした笑みが顔にじんわりと広がって、ゆっくりとした歩みが駆け足になった。
「ごめん、待った?」
「ううん、そんなに待ってないよ」
「それ、進路希望調査票?」
唯華姉がボクから進路希望表を取り上げて、じろじろと見て、ボクの肩に肩を寄せた。ドキリ、と心臓が跳ねる。この音と鼓動が、伝わらないといいけど。覗き込んで見てみた彼女の顔は、どこか不安げだった。
「こんなの適当でいいんだよ」
「適当って?」
「ん~……専業主夫?」
「そ、それって進路なの?」
聞くと、唯華姉はコロコロと笑っている。きっと、ボクの心の内など全てお見通しなんだろう。一足も二足も先に社会に入った彼女からしてみれば、ボクはあまりにも子どもだから。これも本気で言っているわけじゃなくて、ただからかっているだけだろう。それでも、思わず吃ってしまった自分に、冷たい空気がより冷気と鋭さを増したような気がした。
「それくらい適当でいいってことだよ、将来なんてさあ、わかんないでしょ?」
「唯華姉でもそうなの?」
「そだよー、というか私の場合……子供の頃思い描いてた将来が今なの! もう来ちゃってるんだよ、将来!」
「あー……」
夜に似つかわしくないほどの大声が、屋根に響いた。唯華姉は手をわたわたと忙しく動かしている。肩と肩が触れ合う距離でそう動かれると、結構当たって痛い。それに、強く握るもんだからボクの進路希望表がくしゃくしゃになってしまった。
ただ、なぜだか、ほっとしている自分がいる。
「将来ってなんだ! 私は知らない! もうさぁっ! 無理だよ! ここから10年後なんて思い描けないんだからさぁ!」
唯華姉が勢いよく立ち上がって、頭を抱えだした。口調が誰かのエッセイ漫画で見たことのある感じになっちゃっている。
「唯華姉? 落ち着いて? ね? ご近所迷惑だよっ」
言いながら彼女のコートの裾を引っ張ると、唯華姉の瞳には涙が滲んでいた。慌てて手で隠そうとするけれど、風が拭いて涙が横に流れていってしまって、隠しきれなくなった。彼女はまたボクの隣に座り、肩を寄せて、息を吐いている。
「そういうわけで、お姉ちゃんみたいに大人になっても将来なんてわからない人がいるんだから、君がわからなくても当たり前なんだよ」
「うん、随分取り乱してたけどね?」
「だってぇ……10年後、私34だよ? 不安にもなるよ」
ボクはそのとき、23歳になっているのか……。そのとき、唯華姉はボクの隣にまだいるだろうか。ボクはまだ、彼女の隣に居られているだろうか。途端に不安になってくる。2年後のことを思い浮かべても不安なのに、10年後のことなんて考えるものじゃないと思うけれど、どうしても考えてしまった。
唯華姉は、こんな情緒不安定な人だけれど、とてもいい人で、モテるのをボクは知っている。大学時代も何人かに言い寄られたと、いつも迷惑そうに笑いながら語っていた。
「んー? どうしたの? 考え込んじゃって」
「ああいや、な、なんでもないっ」
言いながら顔を背ける自分が、嫌だ。自分自身が、どうしようもなく、たまらなく子どもなんだと実感する。どれだけ小難しく考えても、背伸びをして難しい本を読んでみても、きっと無駄なんだろう。
そんなことをしても、早く大人になれるわけじゃない。それに気づいているのに、やめられないのは、やっぱりボクが子どもだからなんだろうか。
「君はねえ難しく考えすぎなんだよ」
「えっ」
思わず、変な声が出た。
「子どもは子どもらしくしてたほうが、大人だと思うな、私は」
言いながら頭を撫でてくる唯華姉。彼女の言葉を、頭の中で何度も反芻するけれど、彼女の温かな手に全てかき消されてしまう。
「わかんない」
「ま、素直に思うがまま書けばいいんだよー、どうせ1年したらまた変わるんだから、子どもの内の将来の展望なんてものはさぁ」
「……そうかも」
「私もねー、あんまり難しく考えてないんだよ? えと、君とずっとこうやって過ごせたらいいなと思う……くらいだから、さ」
なんだか、またほっとした。涙が出そうなくらいに。
頭から温かな手が除かれ、代わりにくしゃくしゃの進路希望表が差し出された。受け取ったその紙をなんとかして広げて、唯華姉とは反対側のベンチに置く。唯華姉からペンを借りて、紙に向き合った。
素直な気持ち、やりたいこと、なりたい自分。思い浮かべたけれど、今浮かぶのは一つだけだった。それを書く勇気がない自分を、肩に密着しながらボクの手元を覗き込んでくる彼女の温もりでなんとかねじ伏せて、ペンを紙にとん、と置く。
ここで素直になれなかったら、ボクは底なしに自分を嫌いになるだろうから。
「じゃあ、唯華姉の旦那さんって書こうかな」
「あはは、貰ってくれるの?」
「うん」
彼女は冗談半分と思っているかもしれない。それでもいい。ボクは、進路希望表に思うがままのことを書いた。くしゃくしゃの紙に書かれた自分の文字と、年相応より幼い言葉を見て、なんだかお腹の底が震える。笑いが込み上げてきて、止められない。
お姉さんも、ボクの肩を抱きながら笑っているのか、声を震わせている。
「大好きだよ、唯華姉」
将来のことなんて、わからない。まだ中学1年生になって1年も経っていないのに、1年先や2年先、ましてや10年先のことなんてもっとわからない。何をどうしたところで、早く大人になれるわけでもない。
だけど、今、少しだけ大人に近づいたような気がする。肌を撫でる冷たい風と、ボクの唯一人の好きな人の温もりに挟まれながら、なんだか胸がじんと温かくなった。
「ありがとうっ」
振り返ってお姉さんの笑顔と瞳に浮かぶ涙を見た瞬間、足元に差し込んでいた街灯の光が、ボクの目にかかった。
終わり。
白い冬と赤い頬 鴻上ヒロ @asamesikaijumedamayaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます