第46話 綾野

「こすずは……しばらく生きててくれた」


 綾野と弟妹きょうだいに囲まれて笑っていた。似絵にせえを描くともっと美人に描けと笑う。だから綾野は何枚も描いた。


「それだけ、わたしに囲まれたら、寂しいことあらへんやろ」


 最期まで痛いとも辛いとも言わず、こすずは笑って逝った。


「あれが攘夷の終わりだったな。あれから世の中は倒幕へ向かったんだ」


 綾野はひと回りも年が離れた有美に縋るように言った。


有美ゆうび、お前は死なねえよな」

「なに言うてはるんやろね、この兄弟子は」


 薨去こうきょされた孝明帝を追うように半年ほど前、永岳も逝った。

 自分の周りで人が死にすぎる。そんなことを気にする自分ではなかったはずなのに、綾野は誰かを送るたびに自分が死神にでもなったようで気が重くなった。


「あの動乱の中やったら誰がどこで死んでもおかしくない。皆それまで必死に生きてきたはずやし、それを自分のせいなんて言わはるんは傲慢や」

「わかってる。それでも……なんとかできたかもしれねえ」

「わかってへんやろ。師匠の死に方でそう思わはるんは仕方しゃあないよ。けどやっぱりそれはちゃう。そんな綾野はん見たら、こすずはんも怒ってはるわ。僕らは思いを受け継いで先に繋げなあかんやろ」


 永祥えいしょうもがんばっているだろうと有美が言う。

 京狩野を継いだ養子の永祥は真面目だが小粒すぎる男だった。だが青い顔をしながらも顧客の間を走り回っているという。


「思うのは悪いことやあらへんけどね」


 綾野は頬杖をついて外を見たきり黙ってしまった。

 広がる空が高い。秋の日に紅葉が映える。

 そういえばと綾野は思い出した。為恭は火事が嫌いで、赤は紅葉だけでたくさんだと愚痴ったことがあった。子どものように唇を突き出して文句を言っていた、あの日ももう遠い。


「綾野はん」


 しばらくそれにつき合っていた有美が遠慮がちに綾野を呼んだ。


「僕の絵、手伝てつどうてくれへんやろか」


 綾野は有美に目を向ける。


「黒船が来たのも、和宮かずのみや様が降嫁したのも、京の騒乱も描いて絵巻にしたい。実万さねつむ様や実美さねとみ様のことも描きたい。この時代を絵に残したい」

「有美……」


 それはこすずと並んで絵を描いていた、あの時の自分が思っていたことと同じだ。

 羽織に染みる血、鉄の鉢金はちがね、階段から転げ落ちる浪士、闇に光る白刃。蹴鞠けまりに興じる公卿の姿、阿弥陀の慈悲。物語の世界さえも自分たちが生きたこの時のものだ。


 花鳥も景色も人の生き様も、もっと描けるようになりたい。そう思っていたのは確かに綾野自身だったではないか。

 ようやく綾野の目に光が戻ってきた。


「……自分がこんなに引きずる性格だとは思ってなかったよ。描かねえとな」

「手伝うてくれはるんやね」

「ああ、けど一日待ってくれ」


 言ったきり本当に丸一日、綾野は姿を消した。そして有美の前に戻ってくると二条城へ行くと言った。


「将軍の動きが慌ただしい。十万石以上の大名に上洛するように沙汰さたも出たそうだ。なにか起こる」

「綾野はん? なんでそんなこと知ってはるんや」

「ほら行くぞ、描かねえのか」


 人が変わったように綾野は有美を急かして立ち上がった。


「描きます! って描くの誘ったのは僕や……ちょお待って。入れるん? ああもう、待てって言うとるやろ。どうやって入るんや!」


 追い立てられるように二条城へ走る。


「将軍が正式に大名と対面するのは大広間だ。そこは狩野かのう探幽たんゆうの描いたとこだろ。修復の時はあまりよく見られなかったから、ちゃんと見てみたい」

「修復?」

「永岳様と襖絵の修復に行ったんだ。あの時は初めてああいう場所で襖絵とか見ただろ、緊張しててよく覚えてねえんだよ」


 有美が目に入っているのかいないのか。綾野は熱に浮かされたようにべらべらと喋り続ける。


「見ただろって僕は行ってないんやけど。弟子って師匠に似るんやね。為恭様といるようやわ」


 有美は綾野を追いかけながらため息をついた。

 大広間の片隅で綾野と有美は筆を動かす。居並ぶ大名の不安や疑念の顔、平伏するかみしも姿。複雑な思いをはらんだ将軍慶喜よしのぶの顔。一の間の襖や壁に広がる常緑の松は不老不死の象徴であり、二の間には『松孔雀図』が描かれている。


 慶応三年十月十四日、二条城において江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜は明治天皇への政権返上を奏上した。

 七百年近く続いた武家政権は終わりを告げる。


 これにより各藩のお抱え絵師としての狩野派も終焉を迎えた。殊に江戸狩野は幕府や大名のお抱え絵師であり一様に職を失うことになった。


 京狩野は大名よりも御所や寺社の依頼を受けることが多かったため、受けた打撃は多少なりとも軽かったといえる。だがやはり永祥の名を聞くことは少なくなった。


「有美、小御所こごしょに行ってくる」

「前も言ったような気がするんやけど入れるんです?」


 絵所えどころの絵師として行けばいいと言いながら綾野は悪そうな顔をした。

 小御所北庇きたびさしの障壁画の前に立つ。『十月更衣じゅうがつのころもがえ』と『鷹狩』にも描かれた群青のすやり霞が小御所の中まで広がっている。


「為恭様、久しぶりですね。今、ここの中でなにが起こってると思います? 江戸幕府のお取り潰しですよ。将軍の領地や身分を取り上げようっていうことらしいです。そんなに徳川が嫌いなんですかね」


 綾野は目の前で為恭が笑ったように思った。


「ここで絵を描いてた頃は国中がこんな風になるなんて思ってもみませんでした」


 襖を外し、下絵を写し絵具を溶く。それぞれの割り当ての場所で絵師は皆、真剣にその筆を走らせた。

 綾野は、自分が描いたところを眺め、拙いところに色が重ねられていたのを見つける。これでいいと言ったではないかと苦笑が浮かんだ。


「有美はこの時代を描きたいんだそうです。実万さねつむ様や実美さねとみ様の物語も描くって言ってました」


 お前はどうなんだ、描いているかと為恭の顔がのぞき込んできた。その横にこすずが並んで笑っている。


「そうやってふたり並んで笑ってると狐か狸に化かされてるみたいじゃないですか。やめてくださいよ、そんな顔しなくてもちゃんと描きます。俺たちは絵描きですからね」


 為恭のあの笑い声が聞こえてきそうだ。


「有美の絵を手伝うことになりました。それも描きますけど、俺、為恭様の物語を描いてみたいです。ほら『伴大納言絵巻ばんだいなごんえまき』の宮廷絵師もきっとその場を見て、その思いを描いたのでしょう? だからもう一度ここを見たくて来ました」


 出会いも別れも描こう。この群青の雲の中で描き続ける為恭の物語、それを絵に描きたい。

 綾野はもう一度、為恭の艶やかなやまと絵を心に刻みこんだ。

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群青の雲 kiri @kirisyu

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