第46話 綾野
「こすずは……しばらく生きててくれた」
綾野と
「それだけ、わたしに囲まれたら、寂しいことあらへんやろ」
最期まで痛いとも辛いとも言わず、こすずは笑って逝った。
「あれが攘夷の終わりだったな。あれから世の中は倒幕へ向かったんだ」
綾野はひと回りも年が離れた有美に縋るように言った。
「
「なに言うてはるんやろね、この兄弟子は」
自分の周りで人が死にすぎる。そんなことを気にする自分ではなかったはずなのに、綾野は誰かを送るたびに自分が死神にでもなったようで気が重くなった。
「あの動乱の中やったら誰がどこで死んでもおかしくない。皆それまで必死に生きてきたはずやし、それを自分のせいなんて言わはるんは傲慢や」
「わかってる。それでも……なんとかできたかもしれねえ」
「わかってへんやろ。師匠の死に方でそう思わはるんは
京狩野を継いだ養子の永祥は真面目だが小粒すぎる男だった。だが青い顔をしながらも顧客の間を走り回っているという。
「思うのは悪いことやあらへんけどね」
綾野は頬杖をついて外を見たきり黙ってしまった。
広がる空が高い。秋の日に紅葉が映える。
そういえばと綾野は思い出した。為恭は火事が嫌いで、赤は紅葉だけでたくさんだと愚痴ったことがあった。子どものように唇を突き出して文句を言っていた、あの日ももう遠い。
「綾野はん」
しばらくそれにつき合っていた有美が遠慮がちに綾野を呼んだ。
「僕の絵、
綾野は有美に目を向ける。
「黒船が来たのも、
「有美……」
それはこすずと並んで絵を描いていた、あの時の自分が思っていたことと同じだ。
羽織に染みる血、鉄の
花鳥も景色も人の生き様も、もっと描けるようになりたい。そう思っていたのは確かに綾野自身だったではないか。
ようやく綾野の目に光が戻ってきた。
「……自分がこんなに引きずる性格だとは思ってなかったよ。描かねえとな」
「手伝うてくれはるんやね」
「ああ、けど一日待ってくれ」
言ったきり本当に丸一日、綾野は姿を消した。そして有美の前に戻ってくると二条城へ行くと言った。
「将軍の動きが慌ただしい。十万石以上の大名に上洛するように
「綾野はん? なんでそんなこと知ってはるんや」
「ほら行くぞ、描かねえのか」
人が変わったように綾野は有美を急かして立ち上がった。
「描きます! って描くの誘ったのは僕や……ちょお待って。入れるん? ああもう、待てって言うとるやろ。どうやって入るんや!」
追い立てられるように二条城へ走る。
「将軍が正式に大名と対面するのは大広間だ。そこは
「修復?」
「永岳様と襖絵の修復に行ったんだ。あの時は初めてああいう場所で襖絵とか見ただろ、緊張しててよく覚えてねえんだよ」
有美が目に入っているのかいないのか。綾野は熱に浮かされたようにべらべらと喋り続ける。
「見ただろって僕は行ってないんやけど。弟子って師匠に似るんやね。為恭様といるようやわ」
有美は綾野を追いかけながらため息をついた。
大広間の片隅で綾野と有美は筆を動かす。居並ぶ大名の不安や疑念の顔、平伏する
慶応三年十月十四日、二条城において江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜は明治天皇への政権返上を奏上した。
七百年近く続いた武家政権は終わりを告げる。
これにより各藩のお抱え絵師としての狩野派も終焉を迎えた。殊に江戸狩野は幕府や大名のお抱え絵師であり一様に職を失うことになった。
京狩野は大名よりも御所や寺社の依頼を受けることが多かったため、受けた打撃は多少なりとも軽かったといえる。だがやはり永祥の名を聞くことは少なくなった。
「有美、
「前も言ったような気がするんやけど入れるんです?」
小御所
「為恭様、久しぶりですね。今、ここの中でなにが起こってると思います? 江戸幕府のお取り潰しですよ。将軍の領地や身分を取り上げようっていうことらしいです。そんなに徳川が嫌いなんですかね」
綾野は目の前で為恭が笑ったように思った。
「ここで絵を描いてた頃は国中がこんな風になるなんて思ってもみませんでした」
襖を外し、下絵を写し絵具を溶く。それぞれの割り当ての場所で絵師は皆、真剣にその筆を走らせた。
綾野は、自分が描いたところを眺め、拙いところに色が重ねられていたのを見つける。これでいいと言ったではないかと苦笑が浮かんだ。
「有美はこの時代を描きたいんだそうです。
お前はどうなんだ、描いているかと為恭の顔がのぞき込んできた。その横にこすずが並んで笑っている。
「そうやってふたり並んで笑ってると狐か狸に化かされてるみたいじゃないですか。やめてくださいよ、そんな顔しなくてもちゃんと描きます。俺たちは絵描きですからね」
為恭のあの笑い声が聞こえてきそうだ。
「有美の絵を手伝うことになりました。それも描きますけど、俺、為恭様の物語を描いてみたいです。ほら『
出会いも別れも描こう。この群青の雲の中で描き続ける為恭の物語、それを絵に描きたい。
綾野はもう一度、為恭の艶やかなやまと絵を心に刻みこんだ。
群青の雲 kiri @kirisyu
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