第45話 綾野とこすず

 為恭の天誅騒ぎからもう数ヶ月が経った。

 あの時、京へ戻った綾野はふらふらと紙屋の娘の元を訪れた。風呂敷包みを抱え部屋の隅で丸まっていた綾野は娘の前で初めて泣いた。それ以来、娘の元から永岳のところへ通い、為恭の絵を整理している。


 讃岐さぬきから帰ってから、綾野はやっと笑顔を見せるようになった。

 鴨川のへりに腰を下ろした綾野の隣をちょんちょんと雀が歩く。ぴちゅん、と鳴いた雀に笑いかけ綾野は画帖をめくった。


「模写ばかりじゃなくて写生もしろってさ。言ってたのは金刀比羅宮で応挙おうきょ若冲じゃくちゅうを見た時だったな」


 綾野は雀相手に呟いた。聞いているかのように首をかしげた雀にまた笑う。


「もっと描けるようになりてえなあ」


 綾野は為恭の下絵をいくつかもらった。繰り返し見ていると為恭のあの笑い声が聞こえてくる。これはこうしたら美しい、こっちはもっと優雅に描こう。妙な声で笑い、筆が走る。

 思い出して、ふと言葉が漏れた。


「その笑い方、気持ち悪いんでやめてもらえますかね」

「綾野はん、誰と話してはるん?」


 紙屋の娘がひょいと顔をのぞかせる。雀がぱたぱたと飛び立った。代わりに娘が座り込む。


「なんでもねえよ。それよりどうした」

「変な空気やね。木屋町きやまちで斬り合いがあった時もやったけど、なんや胸のあたりがざわざわしてん」


 長州の過激浪士が池田屋で新選組と斬り合いになった事件のことだ。京に火を掛け、松平まつだいら容保かたもり一橋ひとつばし慶喜よしのぶを殺害し、孝明帝を遷座せんざさせるつもりだったという。


「ああ、どうも焦臭きなくせえな。またひと荒れするかもしれねえ」


 不安を滲ませる娘の肩を抱いたその日のことだ。夜半から金属の触れ合う音が聞こえ始めた。日が昇りはじめてもそれは止まず、発砲音まで聞こえてくる。


「音が止まねえ、ここを離れるぞ」


 娘が青い顔をしながらも気丈にうなずく。綾野は娘の手を引き駆け出した。

 走り回る足音が不安を誘う。乱戦の声、戸が破られる音。大筒の音まで聞こえ始めた。

 走り始めた娘の足が止まる。


「あの子あかん! あないなとこいたら危ない」

「あ! 待て」


 止める間もなく娘は道の真ん中で泣いている子どもに駆け寄った。瞬間、のけぞるように娘の体が跳ねる。


「こすず!」


 流れ弾が腹を貫いていた。綾野は駆け寄って娘を抱き起こす。

「こすず!」

「……やっと、名前、呼んでくれはった」

「黙ってろ、弾は抜けてる。今、医者に診てもらうからな」


 苦痛に顔を歪ませるこすずに押さえていろと手拭いを渡して背に負う。綾野は転んで呆然としたままの子どもの手を引き上げ、半ば引きずるように走り出した。


「くそぅ! なんでこうなるんだ」


 辻を曲がる。ひとつ、ふたつ、みっつ。息を切らせて子どもがへたり込んだ。


「おい、小僧。お前の家族はどうした。帰れるのか」


 子どもが何度も首を縦に振る。


「……そうか、走れるな? 行け!」


 厳しい目の綾野を見上げた子どもは、ごしごしと顔をこすってうなずいた。


「綾野、はん」

「黙ってろ。血が止まれば大丈夫だ」

「どこも、行かんでほし……」

「わかってる」


 開かれていた救護所に飛び込む。


「撃たれたんだ。頼む!」


 こすずの手が懐から見えていた綾野の画帖に伸びる。


「いっつも、これ、離さへんのやな」

「しゃべんなよ」

「行って、ええよ……描きたいの、あるやろ」

「行かねえ。さっき行くなって言っただろ」

「うそ、や。困らせよ、思うた、だけ。行って」


 それを言ったところで、こすずは医者の手に攫われていった。


 長州勢は藩邸に火を放って逃走する。会津勢が攻撃した中立売なかだちうり御門付近の家屋からも出火した。戦闘は一日で終わったものの、京の町は一条通から七条の東本願寺に至るまで三日間燃え続けた。

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