第44話 冷泉為恭
数刻後、綾野は大きな荷物を背負って鍵屋の辻に近づいていた。
人だかりができている。
「なんだ?」
鉄臭い匂いが鼻を掠めた。一瞬、足を止めた綾野は妙な予感に急かされ、そこへ近づいていった。
「失礼、なにかありましたか」
「人斬りじゃ」
「人、斬り……?」
不審そうに向けたその目が見開かれた。
「……為恭様?」
血だまりに倒れた人の手が朱に
綾野は膝から崩れ落ちた。
「これ、は……なんでだ? なんでここにいる。おい、お前、誰が外に出ていいっつったよ。俺が帰るまで外に出るなって言っただろう」
呆けたように呟く。
ちょうどそこへ代官所の役人が到着した。なにしろ昼間の街道筋のこと。目撃者もひとりではない。あれこれと聞き回っていた役人に綾野も声を掛けられた。
「この
「俺の師……永久寺にお世話になっている僧です。
役人が、ふむ、と顎をさすり、あれこれの話をまとめ始めた。
「儂は遠目でしたが、だいぶ血が飛んだのは見えましたわい」
「途中の池で着物を洗っていたようでしたが、血を落としてたんじゃろうなあ」
村人の話は綾野にも想像できた。
だが、どこだ。辺りを見回してもない。どこにある?
「どこです」
「ん?」
「首は……心蓮の首はどこですか」
おそらく三人の侍が持ち帰ったのだろうと役人が言った。
「持って行った先まではわかりかねる」
「あ、あのう……もしかしたら大坂かもしれません」
女がおそるおそる手を上げた。
「あんたは……」
綾野の視線の先にいたのは駕籠の後ろで腰を抜かしていた女だった。
「すんません、すんません。多分ですけどそう聞こえたんです。なにしろ、あっという間のことだったんで。こう、刀を差し入れて出てきたところをすぱっと。それで
「晒す、だと」
いつの間にか女に掴みかかっていた。怯えている女に気がついて綾野はその手を離す。
「すまない、ありがとう」
「いえ……」
事態は綾野に容赦がない。女の代わりに今度は役人が前に立った。
「もうひとつ問題がある。この場所は三つの村の境に当たり、ご領主もそれぞれ違う。このままでは
「そんな……」
それが規則なのだと役人が首を振る。
ならば仕方がない。自分にできることはひとつだ。綾野は大坂へ走った。永岳にも知らせなくてはならないが、心中に謝りつつ綾野は走った。
襲撃の翌日、為恭の首は大坂
綾野が憔悴しきった顔で永岳の元に現れたのは、為恭の受け入れ先が決まった三日後のことだった。
結局、話し合いがまとまるまでの三日間、為恭の体は
「死んだ?」
訃報を伝えられた永岳にいつもの穏やかさは
「あれだけ気ぃつけえ言うたやろ! なんで死ななあかんかったんや」
「すみません」
綾衣が会いに来た時に浪士に跡をつけられたから。大徳が隠れた先を漏らし、あまつさえ為恭を
「為恭様を守るなんて大きな口を叩いておいて、こんなことになってしまって……」
「もう……ええわ」
言ったきり永岳の視線が外へ向かった。口を開けば
為恭から離れずにいた綾野はなにか用事でもあって離れざるを得なかったのだろう。それは永岳にも想像がつく。
綾野もそんな永岳の心をわかっている。黙って
ふたりの間には、しとしとと降る雨の音だけが落ちていた。
しばらくそうしていたが、これだけは言わねばと綾野は口を開く。
「今、葬式を出すのは止めましょう。
言われてから思い出したように永岳が綾野の横にある風呂敷包みに目を向けた。不思議そうな顔をした為恭が、悪意によって無造作に開けられた耳の穴が痛々しかった。見ていられないと視線がまた外へ向く。
「ほんまに、なんで外に出たんや」
呟いた永岳の目に悲しみがふくれ上がり
「……綾野、浪士に襲われた時のこと聞いてきたんやろ」
理不尽な死だったのだ。納得することは難しい。それでも為恭の死を腹に納めようと、話してくれと永岳が言った。
綾野は唇を噛む。
寺に大徳が来ていた。話をして一緒に出かけた。これは寺に帰ってから聞いた話だ。
悔しさが声に滲む。
それを黙って聞いていた永岳が顔を覆って大きく吐息を漏らす。
「あほか、そないな話があるか」
悲しげに呟き、また沈黙が落ちる。
「それと……綾衣様と大坂でお会いしました」
綾衣は自分で為恭を取り戻そうとしたらしい。
あれは女の細腕でどうにかできるようなものではない。あんな状態のところなぞ見るものではない。綾野はそう言ったのだが、それでも綾衣はどうしても自分で取り戻したかったと怒った。
「俺のほうが一足早く着いて為恭様を取り返しました。幸い、夜は見張りもいなかったので。その場では騒ぎになるので綾衣様とは離れたところで話をさせてもらったんです。しばらく泣いておられましたが、ご親戚のところへ行かれるとのことでした」
「儂は少し苦手やったが、思えば
「……そう、ですね」
為恭と綾衣、この夫婦は人が思うより情が濃かった。
「為恭様の描かれた絵や手持ちの粉本はどのようにしましょう」
綾衣が戻らないとなると、ふたりが暮らした屋敷も放置しておくわけにはいかない。あの屋敷には絵や模本の
「どこぞ寺社に納めよう。儂のところで引き取ってもええぞ。お前も好きなもんを選べ」
その方が為恭も喜ぶと永岳が言う。
投げやりにも聞こえるがそうではない。単純に数が多いのだ。為恭は十代ですでに絵巻八十九巻を模写していた。その筆の速さに任せ精力的に描き続け、内山永久寺でも最後まで古画古書の研究に余念がなかった。
「やはり寺にお願いするのがいいのでしょうね」
「そうやな……懇意にしていたとこは多い。それがええやろ」
綾野はそれをやらせてくれと頼み込んだ。
「もう少し為恭様と関わらせてください」
長い時間を共に過ごしてきた綾野にとって為恭は隣にいるのが当たり前のことだった。
それは周りにいる者にとっても同様で、初めて気づいたように永岳が言った。
「綾野、お前には長いこと世話をかけた。もう独立してもええくらいの腕やったのに、あいつに縛りつけてしもたな」
言われて綾野は戸惑った。束縛されていたわけではないのだ。為恭はいつでも巣立ってかまわないと言っていたのだから。
「それは、違います。俺が為恭様に甘えていたんです」
本当は自分が楽しかったのだ。綾野は楽しさに甘えて為恭と絵を描くこと自体が人生になっていた。
「儂にとっても家族みたいなもんや。あいつもお前もな」
綾野はそう言ってくれた永岳へ礼を口にし頭を下げる。もう少し時間がほしい。
「独立と言っても俺の中の為恭様の存在が大きすぎて、まだ何をどう描いていいかわからないんです。もう一度為恭様の絵と向き合って、それから決めたいと思います」
「そうか、それもええやろ」
それからは永岳とふたり為恭の絵の整理をしている。
人気があった為恭の絵はすぐに買い手がついたものもある。それでも作品のうち多くは金刀比羅宮に持っていくつもりで準備をしていた。そろそろ為恭の四十九日が来る。
「では、いってきます」
「別当の
頼むと言った後、不意に永岳が怖い顔を向けてきた。
「綾野、お前あいつの絵ぇを納めたら帰ってくるんやろな」
「帰ってきますよ」
「仇討ちなんてするんやないぞ」
「大丈夫ですよ」
なにが大丈夫なのか綾野は曖昧な笑顔を見せた。
「本当に攘夷浪士を追うたりせえへんやろな」
懇願するような永岳の問いに綾野は首を横に振る。
「……しませんよ。必ず永岳様のところに戻ってきますから。まだ為恭様の作品は多く残っているじゃないですか。それよりまだ京は騒がしいんです。永岳様こそ気をつけてくださいね」
長く息を吐き出した永岳の姿が急に小さくなったような気がした。
「瀬戸内の渦潮を描いてきます。帰ったら見てもらえますか」
「そうか、そら楽しみや」
「いってきます」
「ああ、気ぃつけてな」
待っていると手を振る永岳に背を向け、綾野は歩き出した。
為恭の絵は春日神社や讃岐の金刀比羅宮など多くの寺社に納められた。
特に金刀比羅宮は百八十点を超える作品を受け入れ、今でも数多くの所蔵品を有する。
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