第8話 ありふれた形

 いくら事前に説明されていても、同じ時間を繰り返す亜空間に閉じ込められるというのは、心臓に悪い。驚きとか、恐怖とか、混乱とか、いろいろな感情が押し寄せてきて、一瞬だけ情緒がぐちゃっとなる感じがする。


 日にちが進まなかったということはつまり、さっき体験した一日のどこかに、実際の時間軸とは異なる部分があったということ。でも、保育園に通っていた頃の記憶なんて、曖昧もいいところだ。いくら特殊なイベントがあった日とは言え、たとえば「園児の数がおかしい」とか、「誰かが劇の台詞を間違えるはずだった」とか、そんな些事を持ち出されたら、どうしようもない。


 唖然と立ち尽くす俺を、母はいつも通り保育園へと連行した。お遊戯会が開催される今日は、園児を送り届けた保護者たちの多くがそのまま園舎に残るため、敷地内が賑やかである。保護者同士で挨拶を交わす声が、あちらこちらで乱れ飛んでいた。




 出番直前の舞台袖、他の園児たちがそわそわしている中、俺も一人で額に汗を滲ませている。妙な緊張感に脅されながら、とりあえず注意深く周囲の様子を観察してみたけれど、それらしい「間違い」とやらは見つけられなかった。何かがあるのはこの先なのだと、そう信じるしかない。


 かくして、年長組の演目「オズの魔法使い」が幕を開けた。全て平仮名で記載された、大人にとっては逆に読みづらい台本を、淡々と読み上げる。正直、全然集中できてはいないのだけれど。


 舞台の中央では、主人公の少女ドロシーの家が竜巻に飲み込まれ、ドロシーがオズ王国へと飛ばされる場面が演じられている。ドロシーは竜巻というきっかけがあって別世界へ移動しているが、そう言えば俺は、どうしてこんな亜空間へやってきてしまったのだろう。何か明確なきっかけがあったのだろうか。……いや、どんな災難に見舞われたら、こんな状況に着地するって言うんだ。


 最終的に、ドロシーは魔法の靴の踵を三回鳴らすことで元の世界へ帰還する。俺の場合、それは「間違い探しの完遂」だ。目の前の光景からおかしな部分を見つけてゆけば、元の世界へ戻れるはず。だから、何としてでも見つけ出さなければならない。元の世界がどんなだったか、上手く思い出せないけれども、こんな亜空間よりはマシだろう。




 しかし、結局おかしな部分を見つけられないまま、俺たちの劇は閉幕を迎えてしまった。子供たちがステージからけ、先生たちが舞台セットを片付けて、保護者の人たちに挨拶し始める。緊張感から解き放たれた子供たちは、皆一様に晴れやかな表情だ。俺という異分子を除いて、皆。


 お遊戯会が終了し、園児も保護者も解散となった後、俺は前回と同じく両親の元へ向かった。二人も、前回と同じく感極まった様子で俺を迎えてくれた。


「聡志、お疲れさん! 頑張ったなあ!」

「ほんと、よく頑張ったね……。いつの間にか大きくなって、子供の成長って早いなあ……」


 そう言って、二人が俺の頭を交互に撫でる。育児と家事を分担しながら、共働きで一生懸命に俺を育ててくれた、父と母。可愛い子供の成長を心底喜ぶのも、当然のことなのだろうと思う。そう、父と母が、俺の成長を、一緒に……。


 ――何かが、心に引っ掛かった気がした。


 得体の知れない薄気味悪さを感じて、背筋がぶるりと震える。両親の笑顔はこんなにも温かいのに、どうして。


 恐る恐る、周囲を見回した。知っている子も、知らない子も、ほとんどが両親の元で弾けるような笑顔を浮かべている。子供がいて、父親がいて、母親がいて、場合によっては祖父母や親戚なんかもいて。ごくありふれた家庭の形が、そこかしこに溢れている。今は俺たちも、その中の一つ。……俺たちも? 本当に?


 ありふれた家庭の形を目に焼き付けてから、もう一度、頭上を見上げた。父は穏やかに笑っていて、涙もろい母はハンカチを目元に当てている。俺は両親を凝視した。他所のご家庭の形と、頭の中で比較する。薄気味悪さに拍車が掛かった気がした。息が苦しくなってくる。


 そうして過呼吸を起こしかけた、その時。俺はようやく、薄気味悪さの正体に気が付いた。穏やかに笑う父の顔を見詰めて、ポツリと呟く。


「……思い出した。俺は母子家庭で育ったから、両親が揃っているところなんて、見たことないよ。そもそも、父親の顔すら知らない」


 言い終えた瞬間、俺を取り巻く時間の流れが止まった。ザザッ、とスノーノイズが走り、何時ぞやのように、世界がセピア一色に染まる。間もなく、俺の頭の中で、聞き覚えがあるような、ないような声が、「正解」と囁いてきた。

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