「それでは、出立させていただきます」
そんな声が聞こえてから間もなく、夕霧を乗せた乗合馬車が動き始めた。最初にガタン! と大きく揺れ、その後はガタゴト小さな揺れを繰り返しながら徐々に速度を上げてゆく。
両足を揃え、背筋を伸ばして座席に腰掛けた夕霧は、静かに手元の地図を見つめる。屋敷を出る前、元気な女中に渡されたものだ。朝比奈邸から源蔵診療所までの道のりが手書きで記されている。紙の上を自由に跳ね回る文字や図の筆跡が、本人の気性を表しているようで微笑ましい。
馬車にも様々な型があるらしく、そのうち夕霧が乗り込んだのは屋根がないものだった。風に髪を乱され、時には砂礫も流れて来るが、我慢できないほどではない。客室が豪奢な馬車は価格も高くなってしまうため、自分にはこのくらいが似合いだと言い聞かせた。
客室の広さもそこそこで、詰めればおよそ六人は入れるという程度。現在は夕霧の他に二人の見知らぬ男が乗っている。手持ち無沙汰を誤魔化すためか、それぞれが流れゆく景色に目をやっていた。夕霧も彼らに倣って顔を上げてみる。
夕霧は、生家の周りと遊郭街以外の土地をほとんど知らない。鉄に連れ出される前、最後に外を出歩いたのは、果たしていつのことだったか。少なくともまだ鎖国が続いていた頃だったように思う。大きな変革を迎えた時代の町並みは、もはや異国情緒すら感じてしまう様相を呈している。身なりは整えてもらったけれど、自分がこの風景に溶け込めているとは思えなかった。
乗客の抱える感慨になど構わず馬車は進む。数えて二つ目の停留所に到着すると、共に乗っていた男のうちの一人が馬車を降りて行った。新たな客が乗り込んで来ることもなく、客室には夕霧ともう一人の男が取り残されている。
すると、何を思ったか、突然残った男が立ち上がり、夕霧のほうへ近付いて来た。いくらかゆとりのある客室で、わざわざ夕霧の傍を選んで腰を下ろしてくる。怪訝な目を向けた矢先、男の視線とぶつかってしまった。
「やあ、お嬢さん。良い日和だねぇ。一人でどこへ行くんだい?」
よく観察してみれば、男の顔は薄っすら赤く、吐き出す息も酒気を帯びている。昼間から酒を浴びて上機嫌のようだ。酔っぱらいの面倒臭さを人一倍知っている夕霧は、呆れを込めて視線を逸らした。
「お構いなく。話すほどの用ではございませぬ」
「つれねぇなあ。せっかく綺麗な顔してんだ、媚の一つでも売ってみせろよ。買ってやってもいいぜ? ひゃはははは!」
そう言うなり、男は不躾にも夕霧の頬を掴んできた。地図が手を離れてハラリと落下する。無理やり視線を合わせられ、不快な熱の籠った目を向けられた。
【遊郭街へ行く金も手間も省けたぜ。こんなイイ女を拾えるなんてなァ……。着物を剥いで、奉仕させて、奥まで犯して……後はどうしてやろうか?】
(……っ!)
頭の中に、包み隠さない男の欲望が流れ込んでくる。激しい嫌悪が頭痛へ変わり、ズキズキと夕霧を蝕んだ。遊女時代の失敗経験までもが蘇り、呼吸がしづらくなってゆく。
【体が疼いて仕方ねえ……。少しくらいならここで始めちまってもいいよなァ!】
男の荒い息が肌にかかる。不快極まりないその感触で、夕霧は我に返った。遊女が客に手を上げることなどご法度であったが、今の自分は遊女ではない。正当防衛の名の元に抵抗しても許されるはずだ。
襲い掛かってきた男に対し、夕霧は渾身の力で相手の体を突き飛ばすと、迷わず急所を蹴り上げた。男が体を「く」の字に折って倒れ込む。大きな物音につられて馬車が急停車した。地図を回収してから御者台へ駆け寄る。
「乗り合わせていた殿方の具合が悪くなってしまったようにございます。私めのことはここで降ろしてくださって構いませんので、お医者様の元へ運んであげてはいただけないでしょうか?」
「さ、左様で……! 承知致しました。ご婦人、申し訳ございません」
「いえ、お構いなく。それでは失礼致しまする」
か弱い淑女を演じながら、真実を伏せたまま夕霧は乗合馬車を降りた。すぐに再発進した馬車を見送り、ふぅと溜め息を吐く。人生初の乗合馬車での旅は、おかしな形で幕を下ろすこととなってしまった。だが、悲観している暇ない。道行く人に声をかけ、目的地を目指して歩き始める。
こめかみの痛みは時間経過と共に和らいできた。しかし、見知らぬ男に触れられた不快感が、僅かに頬へ居座っている。振り払いたくて軽く首を振った。今さら男に触れられた程度で心を乱す自分が情けない。
その時、ふと、夕霧の脳裏に別の男の顔が浮かんだ。ここ最近で一番夕霧に触れている男の顔だ。
夕霧を相手に夫婦の真似事を嬉々として遂行している酔狂な彼は、人並み以上に触れ合いを好んでいるように思う。手を繋ぐだとか、抱き締めてくるだとか、抱き上げてくるだとか。加えて口を開けば──否、口を開かずとも不埒な欲を垂れ流してくる人間でもある。それは先の男の行いとも近い気がしたが、どういうわけか彼に対してはそれほど強い嫌悪を感じたことがない。からかわれているだけだと分かるからだろうか。
穏やか且つ爽やかに下世話な冗談を放ってくる彼が、今朝は珍しくその表情を曇らせていた。薬物に命を奪われた身内を思い遣ってのことである。そして夕霧は、何故だか彼を放っておけなかった。
結局、何もしてやれなかったのだけれど、せめて彼からの依頼は全うしたいと思う。彼の笑顔を曇らせる原因を取り除くための情報を求めて、地図を握る手に力を込めた。
終
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