第7話 お遊戯会

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「聡志、起きて! 保育園行くよ!」


 母の声が聴こえたと思った次の瞬間、鈍痛に襲われた。二段ベッドの下段で布団に包まっていたところを、無理やり引きずり出されたらしい。木製の柵に肩をぶつけ、反射で「いてっ」と零す。子供の体には大ダメージだ。


 しかし母は止まらず、さっさと俺に朝食を摂取させ、てきぱき着替えを促してきた。俺が通っていた保育園では、帽子と鞄と名札は指定の物があったものの、制服はなかったので、近所の公園へ遊びに行く時と変わらない普段着である。


 肝心の俺はと言えば、やっぱり何となく気が進まず、自主的に動こうという意思は持てずにいた。今さらだが、確かに、実際に保育園児だった頃も、意味もなく毎日「保育園に行きたくない」とぐずっていたような気がしないでもない。登園してしまえば何と言うことはなく、友だちと遊んで楽しく過ごしていたのだけれども。登園すること自体が、何故だか嫌だったのだ。


「まだ寝惚けているの? しっかりしなさい。今日はお遊戯会でしょう」

「……!」


 母の言葉に目を見開く。


 今日が、お遊戯会? 俺は昨日、保育園でお遊戯会の練習をさせられていたはず。日にちが進んだようだ。事前に聞いた美女の説明では、間違いを見つけられなかった場合、同じ日を延々と繰り返すことになるらしいから、つまり昨日の時点では間違いが無かった、ということだろうか?


 間違いとやらが潜んでいる当日だけでなく、その前後の時間軸まで再現されてしまうとなると、難易度がさらに上昇する。しかも、スタートが保育園時代からって、かなり長期戦になるのでは? ほんと、何でこんなことに……。


 眉間に皺を寄せてぐるぐる考えていたら、その皺の寄った眉間を、指でぐりぐり押し込まれた。無論、母の指である。


「どういう顔なの、それ? ほら、もう行くよ」

「や、やだ」

「駄目。行くの」

「うぅ~……」


 結局、昨日とほぼ同じ流れで、俺は保育園まで連行されてしまった。




 今日は午前中の保育スケジュールを全て潰し、朝から昼までかけてお遊戯会が開催される。今回のようなイベント時に活躍する遊戯室で、園児たちが保護者へ向けて練習の成果を披露するのだ。


 室内は、ちょっとした段差を隔ててステージとフロアに分かれており、フロア側には保護者用のパイプ椅子がずらりと並んでいる。座っていらっしゃるのは専らお母様方で、ガタイの良いお父様方は壁際で立ち見を余儀なくされていた。ビデオカメラを片手に我が子の成長を見守る眼差しが、どれもこれも温かい。


 年齢の低いクラスから順番に出し物をしてゆくため、俺が在籍している年長組の出番は最後になる。年中組の出番の間、年長組の皆が舞台裏でそわそわしていた。台本を読み上げるだけで良いはずの俺も、やたらと心臓が高鳴っている。これは「今」の俺自身の感覚ではなく、当時の俺の感覚が再現されたものなのだろう。


 やがて年中組の出し物が終わり、年長組の出番となった。先生たちお手製の大道具が、俺たちの演目である「オズの魔法使い」用の物へと差し替えられてゆく。登場人物に扮した子供たちが所定の位置につき、ナレーターの俺も舞台の端に立った。先生がマイクで演目を読み上げ、いよいよ幕が上がる。


 「オズの魔法使い」は、アメリカのカンザス州で暮らしていた少女ドロシーが、家ごと竜巻に飲まれたのをきっかけに、オズ王国へと飛ばされる話である。今思うと、なかなか突飛なスタートだ。小説なんかでよく見かけるようになった、異世界転移とやらの走りなのかもしれない。


 それからドロシーは、元の世界へ帰るため、道中で出会ったカカシ、ブリキのきこり、ライオンらと共に旅へ出る。様々な困難を乗り越えた仲間たちは、最終的に自分の自信を取り戻し、ドロシーも無事に帰還。旅を通じてそれぞれが成長してゆく姿に胸を打たれる物語だ。保育園児には少し難しい気もするけれど、幼いうちから上質な作品に触れておくのは良いことなのだと思う。


 そんな上質な作品を、小さな子供たちが精一杯に表現する。俺が語り、登場人物が会話し、動き回り、ストーリーを進行させてゆく。先生たちも、大道具を移動させながら補助してくれた。そうして何とか、年長組の演目も問題なく閉幕まで走り切ることができたのだった。




 お遊戯会が終わると、園児たちはそのまま見学に来ていた保護者に引き取られ、帰宅する流れになる。もちろん、仕事で保護者が来られなかった園児たちは、普段通りに保育園預かりとなるらしいが。俺は両親が揃って見学に来てくれていたので、迷わず二人の元へ駆け寄った。


「聡志、お疲れさん! 頑張ったなあ!」

「ほんと、よく頑張ったね……。いつの間にか大きくなって、子供の成長って早いなあ……」


 父と母が、感極まった様子で、交互に頭を撫でてくる。大人になると、人に頭を撫でられる機会なんてほぼほぼないから、少し変な感じだ。


 ふと周りを見渡せば、他の園児たちも軒並み同じように、両親との触れ合いを楽しんでいた。自分がいて、父親がいて、母親がいて、場合によっては祖父母や親戚なんかもいて。ごくありふれた家庭の形が、そこかしこに溢れている。今は俺たちも、その中の一つ。


 その事実が、何故だか薄気味悪く感じた。




 保育園の帰りにファミレスで昼食を摂り、その日はそのまま家で過ごした。父も母も、仕事は終日休みにしてもらったらしい。頑張った俺を労うように、美味しいものを食べ、笑顔で褒めちぎり、遊び相手をしてくれた。心地好い疲労と達成感に満たされた俺は、いつもより早く就寝した。一瞬、頭がズキリと痛んだ気がした。




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「聡志、起きて! 保育園行くよ!」


 母の声が聴こえたと思った次の瞬間、鈍痛に襲われた。二段ベッドの下段で布団に包まっていたところを、無理やり引きずり出されたらしい。木製の柵に肩をぶつけ、反射で「いてっ」と零す。子供の体には大ダメージだ。


 しかし母は止まらず、さっさと俺に朝食を摂取させ、てきぱき着替えを促してきた。俺が通っていた保育園では……あれ?


 背筋に冷たい汗が流れるのを感じつつ、母の様子を窺う。母は着替えも化粧も済ませて、いかにも外出前の装いをしていた。


「まだ寝惚けているの? しっかりしなさい。今日はお遊戯会でしょう」

「……!」


 母の言葉に目を見開く。


 日にちが、進んでいない。

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