第6話 保育園

 懐かしいな。間違いなく、俺が子供の頃に通っていた保育園だ。


 幼稚園は教育機関の仲間だから、三歳にならないと入園できないけれど、児童福祉施設である保育園は、乳児でも入園できる。確か、厚生労働省が認可している託児所のような扱いなんだったかな。園児にとっては、そんな違いなど知ったことではないのだけれど。


 俺がこの保育園に通い始めたのは、記憶している限りだと五歳からだったはず。さっき、母が「五歳になった」と言っていたから、ちょうど入園した年なのだろう。それ以前はどうしていたんだっけ? ……思い出せないや。


 母に手を引かれ、正門を通過して園内へ入った。俺と同じく登園して来たばかりの子供たちと、その保護者たち、そして挨拶をする保育士たちが、わちゃわちゃと入り乱れている。雑踏の中を潜り抜け、母が年長組を担当している保育士の元へと進んだ。


「先生、おはようございます」

「八木沼さん、おはようございます! 聡志君も、おはようございます」

「ほら、先生にご挨拶は?」

「お、おはようございます……」


 社会人としての習性か、反射的に会釈をしてしまった。首だけではなく腰から曲げて深々と頭を下げた園児の姿に、保育士が笑い声を上げる。母は目を丸くしているようだ。


「あらあら、聡志君はお辞儀が上手ね~」

「そんなの、いつ覚えたの……? あ、そろそろ行かないと! すみません、今日もよろしくお願いします」

「はい、責任を持ってお預かりしますね」


 母が慌ただしく駆けて行く。俺が保育園に通っていた頃、母は弁当屋でパートをしていた。車を運転できるから、デリバリーの配送スタッフとして日中に働いていたんだ。あと、夜は内職もやっていた気がする。今思えば、結構な仕事量だな。


「それじゃあ、中へ入りましょうか。お友達も皆、来ているわよ」

「は、はい」


 今度は先生に手を引かれ、靴を脱いで園舎へ入った。




 保育室の中は、見覚えがないようで少しある、不思議な感じだった。俺の記憶に薄っすら残っている部分があったのかも知れない。部屋の真ん中辺りに、同じ年長組の子供たちが集まっている。なんとなくその輪の端に並ぶと、先生が両手を合わせて号令をかけた。


「はい、皆揃ったね~。おはようございま~す!」

「「おはようございます!」」


 舌ったらずな挨拶が、一斉に部屋を飛び交った。完全に乗り遅れてしまい、また小さく頭を下げるだけで誤魔化す。帽子のひさしが隣の子にコツ、と当たった。そう言えば被ったままだったなと気付き、手早く取って鞄と一緒に部屋の隅に並べて置いた。その間にも、先生の話は続く。


「明日はいよいよ、お遊戯会です。頑張って練習してきた劇を、お父さんやお母さんに観てもらいます。上手にできるかな~?」


 お遊戯会か。そんなのあったな。皆と一緒に何かをすることや、「表現」を楽しむことなんかを目的として、クラスごとに出し物をするイベント。俺が初めて参加した保育園行事だ。懐かしい響きにむず痒くなってくる。


 二歳以下の子供たちは、手遊びや歌をやるらしい。そして、上の年齢の子供たちは、劇を披露しなければならない。俺の記憶が正しければ、この年の年長組の演目は「オズの魔法使い」だ。配役までは流石に覚えていないが。俺、何やらされるんだろう……。


「それじゃあ、今日も頑張って練習しようね~!」

「「は~い!」」

「……はい」


 タイミングはバッチリだったものの、気持ちが乗り遅れている返事を、ぼそっと呟いた。




 劇の練習、散歩、昼食、昼寝、また練習。慣れない体に悪戦苦闘していたら、あっという間に夕方になっていた。園舎が西日に照らされて、橙色に輝いている。


 例の劇では、俺はナレーター係だったらしく、舞台の端に出づっぱりとなるものの、手に持った台本を読み上げるだけで良かった。これまでの練習を覚えていなくてもできる役割で助かる。キャラクターに寄せた気恥ずかしい衣装も着なくて良いし。


 保育室で台詞や動きの確認をしていると、見知らぬ大人が部屋の入口をノックしてきた。先生が愛想良く対応し、子供たちの輪に向かって名前を呼ぶ。呼ばれた子供が手を挙げ、自分の鞄と帽子を回収して見知らぬ大人へ駆け寄った。保護者が迎えに来たようだ。


 それから次々に保護者が現れては、自分の子供を連れて帰って行った。もう劇の練習ができるほどの人数も残っていない。あと数人にまでなった頃、俺の母も顔を出した。


「聡志、お待たせ。帰ろう」

「うん」


 自分の鞄と帽子を持ち、母と手を繋いで園舎を出た。先生が「また明日ね~!」と手を振っている。顔だけ振り向いて小さく頭を下げれば、「だから、そんなのどこで覚えたの……?」と母が訝しがった。




 それから家に帰って、テレビを観て、家族で夕食を摂って、風呂に入って、早々に寝かしつけられた。まだ二十一時だぞ……と思ったのも束の間、幼い体は一瞬で睡魔に負けて舟を漕ぎ始める。


 なんだか、未就学児としてあまりにも普通の一日を過ごしてしまった。何でこんなことになっているんだっけ。……そうだ、俺は間違い探しとやらをしなければならないのではなかったか。美女の姿は見えないが、もう始まっていると思って良いんだよな? でも、特におかしい所なんて……。


 状況を振り返ろうとしたけれど、それからすぐに意識が途切れてしまった。

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