第5話 懐かしい朝
「な、んだ、これ……!?」
上手く言い表せないけれど、体の感覚がいつもと全く違う気がして、即座に視線を落とす。グー、パー、と緩慢に動かしてみた両手が、明らかに小さい。握力も弱い。その向こうに映った足も同じく小さいし、水色の布地に赤い消防車が描かれた靴下なんて履いている。どう見ても子供向けのデザインだ。
辺りを見回したところ、そこは屋内ではあったものの、俺が一人暮らしをしているマンションではないようだった。でも、全く知らない場所というわけでもない気がする。郷愁にも似た不思議な既視感を覚え、キョロキョロしながら歩き回った。
六帖くらいのこぢんまりとしたダイニングキッチンと、和室が三つ。キッチンと隣接した狭い区画に、それぞれ独立したトイレ、洗面台、風呂場が並んでいる。洗濯機はあるが専用の脱衣所はない。誰かが風呂に入る時は、間仕切り用のカーテンを閉めてキッチン側から見えないようにするらしい。
三つの和室は、一つが居間、もう一つが同居している母方の祖父の専用部屋、残りが俺たち親子世帯の部屋だ。俺には二つ違いの兄がおり、子供は二段ベッドで、親はその横に年季の入った煎餅布団を敷いて眠る。二人分の勉強机と、全員分の服を収納するタンスや衣装ケースを置いたら、六畳の部屋はぎゅうぎゅう詰めになった。
思い出した。ここ、俺の実家だ。物心がついた頃から就職して家を出るまで、俺が育った家だ。お世辞にも綺麗とは言えないような、ボロい二階建ての木造アパート。駅まで徒歩十分くらい、トイレも洗面台も独立している3DKで、家賃は確か五万だったと親から聞いた。都心ではあり得ない価格設定だが、田舎では珍しくも何ともない。
「ちょっと、聡志! 何してるの!?」
「!」
キッチンと繋がった玄関の付近から、ひどく耳に馴染んだ声が俺を呼んだ。耳に馴染んではいるが、かなり久しぶりに聴いた気がする、女性の声。思わず硬直していると、玄関が開く音がした後、件の声の持ち主がズカズカと俺のほうへ歩いて来た。
「いつまでもそんな所にいないで、ほら、行くよ!」
呆れたような声音で急かしてくるその女性は、俺の母親だった。数年前、最後に顔を合わせた時よりもだいぶ若い印象だが、さすがに見間違えるはずもない。
量販店で揃えたと思われる服を綺麗に着こなし、ばっちり化粧を施した姿は、見るからに外出前の装いである。今しがたの発言から察するに、どうやら母は俺を連れてどこかへ出掛けようとしているみたいだ。
詳しい行き先は知らない。しかし、俺は何故だか、その誘いに乗るのが猛烈に嫌だった。理由なんて、それこそ知らないけれども、体が強く拒絶している気がして、無意識のうちに首を横に振っていた。
「や……やだ。行きたくない……」
口からも、勝手にそんな言葉が
「あんたは本当に、毎日毎日ぐずるんだから! 何がそんなに嫌なの? お友達も先生も待ってるでしょう?」
「やだ!」
「ああもう、仕方ないなあ! ほら、行くよ!」
「うわあ!?」
痺れを切らした母が、俺の体を持ち上げ、抱きかかえた状態で玄関へ進んだ。自分の靴を
「はぁ、はぁ……もう五歳になったんだから、お母さんいつまでも抱っこできないよ。自分で歩いて」
「やだ、行かない!」
「こら、暴れないの! 落ちて怪我するよ!」
そんな攻防を繰り広げつつ、とうとう駐車場まで運搬され、車の後部座席に放り込まれてしまった。中古の四人乗り軽自動車が、ギシッと不安な音を立てて揺れる。身軽になった母が颯爽と運転席へ乗り込み、シートベルトを締めた。それからキーを回してエンジンをかけ、お気に入りのJ-POPを録音したカセットテープを再生し、鼻歌交じりに車を発進させる。ここまで来たら、もう逃げようがない。
よろよろと体を起こせば、座席には見覚えのある帽子と鞄が準備されていた。幼い頃に使っていた登園グッズだ。帽子のサイズも、肩掛け鞄の紐の長さも、俺にピッタリだった。
車道を走ること、およそ十分。これまた見覚えのある建物の前で、母の車は停まった。専用の駐車場がないのか、道路の端に申し訳なさそうに停車させている。長居は無用とばかりに、母は俺の手を強く引いて車から降ろした。
建物の入り口に看板や表札のようなものはないが、建物を囲うフェンスの部分に文字入りのパネルが設置されていた。当時は読めなかったものの、社会人としての知識がある今なら難なく読める。
そこには、白いパネルに黒い字で、「
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