荻田⑥

 どれくらいの時間が経ったのかまるでわからない。長く感じるような気もするし、短く感じるような気もする。ゆっくりと空を流れていく雲を見ながら、荻田はそう考えた。顔を手のひらで拭うと、すぐ真っ赤に染まっていく。

 下を見ると、犯人の頭が先ほどよりも大きくなった血溜まりに浸かっていた。近くに転がっているナイフには、赤い雫が垂れている。

 犯人がナイフを取り出した時には、もうどうすることもできなかった。まさか自死の選択肢を選ぶなんて、考えもしなかった。

 荻田の胸がキュッと苦しくなる。いくら残虐な殺人を犯した犯人とはいえど、若者が自らの前で命を絶った。本当にどうすることもできなかったのだろうか。何か1つでもできることはなかったのか。岩下の言う通り応援を待っていれば、こうはならずに済んだのか。いや、どの選択肢を選んだとしても、この未来は変えられなかったのかもしれない。そう思い込まないと、荻田はその場に倒れ込みそうになってしまうように感じた。

「くそ……くそ……ちくしょう!」

荻田の大声が一帯に響き渡る。

 後方から足音が聞こえてきた。段々と近づいて来るその足音は、やがて荻田のすぐ後ろで止まるのが分かった。

「荻田……さん」

岩下の声だと分かりながらも、荻田は振り返ることができなかった。

「荻田さん……何が……あったんですか」

 こちらに近づいてきて、岩下が荻田の肩に手をかけ、自分の方に向かせた。血で染まった上半身と顔が露わになって、岩下が悍ましげな表情を浮かべる。

 口を開こうとしない荻田に、岩下が両肩を持って揺らしながら強く詰め寄る。

「教えて下さいよ荻田さん!どうしてこんなことになってるんですか!」

 荻田はか細く答える。

「俺の前で、犯人が自分で喉を掻っ切った」

 岩下の両腕が、荻田の肩から滑り落ちた。そのまま岩下は下唇を噛み締めながら、自分の腰に手をついて後ろを向いた。

 荻田と岩下の周りに、上空を鳥がはためく音だけが聞こえる。なにか行動を起こさないといけないのは分かっているが、荻田の体は動かなかった。

 大勢がここへ近づいて来る音が聞こえてきた。「そっちを探せ!」などという声が裏路地に広がって、足音が四方に散らばった。

 荻田と岩下と死体の下に2人の刑事が到着する。同じ係に所属している先輩の白石しろいし坂内さかうちだ。2人は揃って絶句した。そして、少し間をおいて、白石が無線を取り出した。

「犯人発見。血だらけで倒れています。近くにはナイフが転がってる。至急救急車をお願いします」

 白石が無線で喋り終わると同時に、坂内が近づいてきて、岩下の肩をポンと叩くと、荻田の前に立った。

「話は後で聞く。まずは最善を尽くすことだ」

荻田は何も答えられず、片手で自分の顔を覆った。坂内はしゃがむと、すでに冷たくなっている犯人の顔に手をやった。

 次に白石が近づいてきて、荻田の顔を見ながら肩を掴んだ。その手の温かさを荻田は感じる。

 じきに、救急車のサイレンが聞こえてきた。

荻田にはそれがとても遠くのように感じる。

「荻田さん、顔拭いて下さい」

岩下がハンカチを手渡してきた。純白なそのハンカチを見て、荻田は拒む。

「使えなくなっちまうよ」

「いいんです。使ってください」

 そう言って無理に手に渡されたハンカチで、顔についた血を拭き取る。鮫島は、自分のものではない血を拭き取る行為に強烈な違和感を感じ、血で塗られた白のハンカチを見て思う。

 騙された。確か彼は最後にそう言ってた。あの言葉にはどんな意味があったのだろう。

「避けてください。運び出します」

 救急隊員が数人到着して、持ってきた担架に犯人を乗せた。3、2、1と声をかけ合って、2人がかりで担架を持ち上げる。先ほどとは違い、真っ白になった犯人の顔が荻田の前を移動していった。

 純白の上に、自分のものではない血が上塗りされていたとしたら。

 荻田の脳内に、犯人の最後の姿がずっと映し出されていた。



 荻田と岩下は、そのまま署に戻った。ひとまず別の服に着替えるために、そして何があったのかを1通り報告するためだ。

 ジロジロと多くの視線を感じながら署の中を歩いていくと、備え付けのシャワーに入って荻田は服を着替えた。犯人の血がべっとりとついている服は、捜査品として押収された。

 捜査一課の看板をくぐり、部屋に入る。その部屋はどこか懐かしいように思えた。ここを飛び出して本膳倉庫に向かったのが遠くの昔のように。

「荻田」

 部屋の奥から呼ばれる。これも懐かしいなと荻田は思う。机の間をすり抜けながら奥に向かう間周りを見渡したが、岩下はまだいないようだった。奥のテーブルで待っていたのは当然のように澤柳だ。

「まずは、お疲れ様だ」

 そう言う澤柳に対して、荻田は一礼をする。

「これから報告書は書いてもらうが、大体のことは聞いた。しょうがなかった。お前にできることは何もなかった」

 同じことは荻田も考えた。ただ、人に言われると、自分の無力さが浮き彫りになったようで、えも言われぬ感情が奥底から湧き上がってきた。

「すいませんでした。自分の判断ミスです。応援を待っていれば」

「応援を待つ間に何かが起こっていたかもしれない。判断は間違ってないぞ、荻田。民間人の被害者が1人も出なかったことが重要なんだ」

 荻田は、澤柳に同情とも取れるような発言をさせる自分が心底憎かった。犯人を逮捕できなかったのは、自分の力不足のほかない。

「これでこの事件は終わりだ。報告書を書いて、家に帰れ」

 本当に終わりでいいのか、と荻田は思う。色々と腑に落ちない点がある。

「新しい情報入ってきました」

 急に声が聞こえ、岩下が部屋に入ってきた。荻田と澤柳を見ると、急いでそこに向かう。

「どうした岩下」

「シャツについていた血が、本膳倉庫の被害者のものと一致したので、本膳倉庫殺人事件の犯人に間違えないそうです」

 分かりきっていたことではあるが、荻田がなんとも言えない気持ちになった。

「そうか、報告ありがとう」

 澤柳が会話を終わらせようとすると、岩下がまだ続けた。

「あと、犯人死亡のニュースを見て、もしかしたら息子かもしれない、と犯人の母親が病院にやってきました」

「それで?」

「昨日の夜中に、息子が突然家を飛び出して行ったのでものすごく不審に思ったと。どこ行くのと尋ねたら、電話がかかってきて友達に呼ばれたと言っていたらしいです」

「電話?」

 荻田が岩下の方を向いて言う。

「はい。電話です。それで、朝まで息子が帰ってこない母親は心配に思い、逃げている犯人の特徴と息子が一致するので、病院に問いかけて駆けつけたそうです」

 荻田は考える。誰かに呼ばれたとなると、話は全く変わってくる。

「電話は?携帯電話はあるのか?」

「それが、どこにも見当たらないようで」

2人の会話を制するように澤柳が言った。

「その電話の相手は被害者なんじゃないのか。

友達と嘘をついて本膳倉庫に向かったんだろ」

「澤柳さん。犯人は自殺をする前、俺の目の前で、騙されたと言っていました。なにか関係があるんではないでしょうか」

 荻田が言うと、澤柳が少し黙って口を開いた。

「被害者の血と犯人のシャツの血が一致したんだ。これ以上何を考えることがある。死ぬ前の言動などになんの信用性もないことはわかるだろ。荻田、この事件の捜査は終わりだ」

「もし、まだ判明していない真相があったらどうするんですか。犯人が言った言葉がどうして引っ掛かります。捜査を続けるべきです」

「もう犯人が分かっている事件に時間と人員を割けないんだよ。お前が言う、判明していない真相は犯人が知っていたんじゃないのか。その犯人はもうこの世にはいない。あきらめろ」

澤柳の目は、荻田が自分自身の手で、わかるかもしれなかった真相を葬り去ったんじゃないかとでも言いたげだった。

 これ以上、何を言っても澤柳は動かない。そう思った荻田は、何も言わずに部屋から出た。

 自分でも分かってる。自分でチャンスを手放したことくらい。でも、捜査を続けて何かに近づけば、これまでに疑問に思ってきたことが、線になって繋がるような気がする。本膳倉庫に落ちていたあの金髪、死ぬ前の言葉、犯人が誰かに呼ばれていたこと。

「ちょっと荻田さん何やってるんですか」

 岩下が走って追いついてくる。

 荻田は言った。

「岩下、俺は捜査を続けるぞ。この事件には、まだ何かある」

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紛い者 杉本 @saichi43567

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