青年

「急げ。6条6丁目3の4だ」

 車に乗り込むと、岩下が必死で位置情報をスマホに打ち込んだ。荻田はなんとか焦る気持ちを抑えようとする。貧乏ゆすりが地面を伝って車を小刻みに揺らした。

「こっから5分ですね。急ぎます」

 そう言って岩下は窓を開けた。取り付け式のサイレンを車の屋根につけるためだ。荻田はそれを制するように止めた。

「ダメだ、犯人に聞こえたら逃げられる。静かに現場に近づくんだ」

「はい。分かりました」

 岩下はサイレンを元の位置に戻してハンドルに手をかけた。アクセルを思い切り踏んで、2人の後方に力がかかる。岩下からは、恐怖心を感じられるほどの余裕がないように見えた。これから何が起こるかわからない。初めて殺人事件に向き合う刑事を連れて、安全に全て上手くできるだろうかと言う気持ちが荻田の脳裏を掠めた。いや、上手くやるしかない。澤柳も、若い俺を連れて幾度となく事件を解決したじゃないか。俺にもできる。できる。やる。やるしかない。荻田はそう心の中で反芻しながら、右の腰辺りに手をやった。手のひらに拳銃の質感が伝わる。それが、いつも以上に冷たく感じた。

 目的地に近づくにつれて、岩下の顔色が悪くなっていくのが分かった。前方の信号が黄色から赤に変わり、車がゆっくりと停車する。

「岩下、現場に着いたらお前は近くにいる民間人を避難させろ」

「はい。じゃあ応援がきてから犯人を追いつめるということですか?」

「いや、俺1人で行く。犯人は路地裏にいるそうだ。1人で追い詰める」

岩下がこちらを向いて、荻田に迫る。

「1人じゃ危険すぎます」

「応援を待ってる時間はない」

「なら僕も行きますよ」

 そう言う岩下の手が震えているのを荻田は気づく。やっぱりダメだな。この状態の岩下は連れてけねえ。

「路地裏に誰かが入ってきたらどうする。いいか?まず優先するのは民間人の命だ。俺みたいな刑事じゃねえ」

「いやでも……」

「あと岩下、俺のこと舐めすぎなんだよ。俺に任せとけばいい」

 岩下は口を紡いだ。荻田と岩下が見つめ合う。荻田はその目から、様々な感情が読み取れるような気がした。犯人に迫らなくていいことへの安心や、俺に対しての心配。

「青になった。行け」

 岩下は前を向いてアクセルを踏みながら言った。

「信じます。気をつけて下さい荻田さん」

「ああ」


 現場に着いて、歩道横に静かに車を停めた。

少し遠くの方で、3人の女性が身を寄せ合って話をしている光景を見ると、慌てて車から出て駆け寄った。

「警察です。危ないのでここから離れて下さい」

 荻田がそう言うと、中年の女性3人組の中の1人が返した。

「やっと来てくれた。私が通報したのよ」

「そうですか。それで、どこで犯人を見ましたか?」

「あそこに入っていくのを見たの。血だらけのシャツを着てた」

 女性は指を指す。その先には建物と建物の間にある一本の小道があった。

「ありがとうございます。それでは早くここから離れて下さい」

 そう言って荻田は岩下の方を見る。岩下がこくりと頷き、「こちらへ」と言って女性3人を連れて行った。幸運なことに、今は誰もこの付近にいない。

 荻田は、女性が指を指した小道に駆け寄った。小道の前に立つと、50メートルほど続いていて、その間何本か枝分かれしているのが分かった。普段はどうとも思わないこの風景が、今はまるで澱んでいるように見える。

 荻田は息をつき、覚悟を決めた。1歩1歩確実に進んでいく。建物の壁に反響して、いつも以上に足音が大きく聞こえるような気がした。

 左手に分かれる道に差し掛かると、歩を緩めて、静かに道を覗いた。人気はない。さらに前へ進んでいく。心臓の鼓動が、邪魔になる程脈打ってるのを感じた。5メートル先の右手に新たな分かれ道があることに気づく。腰を屈めながらそっと寄って行って、覗く。

 いた。

 道の少し先の方に、背中を向けて、辿々しい足取りで歩いていく。グレーシャツにジーパン。その背中には少なからずとも、血痕のようなものが付いていた。

 荻田は腰に手をやって拳銃を静かに取り出した。指を少しずつ拳銃に馴染ませていく。気配を消しながら道に入ると、極限まで足音に気を払い、進んだ。ドクドクと身体中が脈打つ。

 ゆっくりゆっくり進みながら、徐々にスピードを上げる。獲物を狙う肉食動物のように。歩幅が段々と広くなっていき、足の回転も早まる。背中が近づいてきた。荻田はここで一気にスピードを上げた。足元の砂利と、荻田の靴が絡みつくように音を出す。前に見えていた背中が赤黒く染まった胸元に変わる。こちらを振り向いた。犯人と目が合う。本当に幼い顔をしている驚きをかき消すように、荻田は銃を前に構えて声を出した。

「大人しくしろ!」

 そう言うと、犯人が一気に前へ駆け出した。

舌打ちをして、それに続くように荻田もスピードを上げた。枝分かれしている道を、右へ左へ犯人が走って進んでいく。荻田も必死でそれに着いていく。足がもつれそうになりながら必死で。犯人が左の道に入って行った。その数秒後に荻田もその道へ入る。妙に暗がりのその道に、入った瞬間犯人が止まっているのが分かった。前の壁に手をついている。行き止まりだった。

 「両手を上に上げて、地面に伏せろ。お前はもう終わりだ」

 荻田の声が反響する。もう一度銃を構えた。

 ゆっくりと犯人がこちらに振り向く。体が震えているのが分かった。

「僕、猫を探してただけなんです。信じて下さい猫を探してたんです」

 犯人は震える声でそう言った。この姿からは、あのような残虐な方法で人を殺すようには全く見えなかった。その辺にいる、ただの純朴な青年そのもの。ただ、シャツに付いている血が犯行を物語っている。

「ふざけたことを言うな。何が猫だ。お前は人を殺したんだ。いいから黙って地面に伏せろ!」

 頼むから余計なことをしないでくれ。荻田はそう心の中で思う。こちらに向かってこようものなら、引き金を引かざるを得なくなる。

 荻田はそっと親指で撃鉄を下ろす。人差し指を引き金にかけると、右手全体が小刻みに震え出した。その震えを止めるように、左手で銃を支えた。

「殺してない。僕は殺してないんだ」

 しきりに犯人はそう呟いた。段々と息遣いが荒くなっていくのがわかる。頼む、頼むからじっとしてくれよ。そう思いながらも、荻田は人差し指に少しだけ力を込めた。

「騙されたんだよ。僕は騙されて呼び出されたんだ。僕は悪くない。悪くないんだ」

その言葉に、一瞬荻田が反応した。

 騙されたってなんなんだよ。

 その一瞬の気の緩みのせいで、荻田は犯人の微かな動作に気づかなかった。

 犯人は右ポケットに手を伸ばして、何かを素早く取り出した。それを見て荻田の全身の毛が逆立つ。赤く染まったナイフが右手に持たれていた。犯人は右腕を折りたたみ、そのナイフを自分の顔へ近づける。

「やめろ!」

 荻田の声と共に、犯人はナイフを素早く横に移動させた。その瞬間、荻田の顔に生温かい血しぶきが吹き付けた。ナイフが手から滑り落ちて、地面に金属音を響かせる。首元から、真っ赤な血を吹き出しながら、犯人は膝から崩れ落ちた。鈍い音がして顔と地面がぶつかる。じわじわと真っ赤な血溜まりが荻田の足元に広がっていった。

 荻田の銃を構えていた両腕が、力を失うように、下にだらんとぶら下がった。

地面に広がる赤い血を見ていられずに荻田は上を見る。そこには、青い空がただただ広がっていた。

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