荻田⑤

 暗闇の中で誰かの声が響いている。それが誰の声なのか、荻田にはさっぱり分からなかった。1人の声だと思えば、2人、3人の声のようにも思える。ただその声は、紛れもなく助けを求めていた。

 だんだんと声が大きくなってきた。分かってる。今助けてやる。ただ、体がどうも動かない。目の前に、誰かの後ろ姿がぼんやりと見えた。まるで蜃気楼のように、微かに存在している。そしてその背が、だんだんと遠くへ行ってしまう。待ってくれ、待ってくれ。

 誰かが肩を強く掴んだ。

 荻田は目を覚ます。左頬を朝日が照らし、右を見れば岩下が肩を掴んで荻田を揺らしていた。

 「荻田さん。通報です。起きてください」

 砂嵐の中に人の声が混ざるように、車に取り付けてある無線から音がしていた。

 荻田と岩下は、東中野区で捜査をするよう配置されていた。本膳倉庫からは5キロほど離れたこの区には、住宅街や、学校などの普通の光景が並んでいた。

「南区3条5丁目の住宅街で怪しい人物発見との通報。落ち着きがなくウロウロしている。近くに配置された警官は直ちに向かうように」

 そう言い終わると無線が切れた。

「南区か。真反対ですね」

  岩下が安心するように一息つく。

 時計を見ると時刻は7時。荻田は身体の限界を迎えて寝てしまっていた。2時半ごろ東中野区に着いて、1時間ほど車走らせながら街の様子を見ていた時からの記憶がない。

「すまんな岩下。寝てしまって」

「逆に今寝てもらわないと、犯人を捕まえる時に倒れちゃいますよ。通報が来たら起こそうと思ってましたから。大丈夫です」

 車は停車していて、目の前には住宅とそこに近接する公園が見えた。

「朝ですけど、あの事件の影響なのか外出する人が極端に少ない気がしますね」

「そうだろうな。俺でも絶対に家族を家から出さない」

 荻田は家族を思い出す。荻田の家は、赤い丸の範囲からとても遠くに位置していた。ただそれでも万が一の事を考えてしまうので、ここらの人は相当用心深くなっているだろう。

「あと30分で移動しますね。あそうだ、近くのコンビニ行って朝ごはん買いましょう」

「そうだな」

 もう一度無線が反応する。

「南区での通報は事件とは関係なし。引き続き捜査に当たるように」

 横で岩下ががっかりそうに肩を落とすのが分かった。犯人を捕まえられたどうこうよりも、自分たちの区域に入ってくる可能性があることに対しての懸念だろう。

 眠気が尾を引きながら、荻田は前を見続けた。


 30分が経ち、岩下が車を運転し始めた。

 時刻は7時半、車内から周りを見ると、スーツを着た社会人。制服を着て自転車に乗る学生などがちらほら見えるようになった。荻田はこんな事件が起きようと、社会の歯車は止まることなく回っていると実感する。

「ありましたね。コンビニです」

 そう言ってコンビニの駐車場に車を停めた。

 駐車場には2台ほど車が停まっており、コンビニの外から棚に置いてある週刊誌を立ち読みしている人と、そそくさと働く店員が確認できた。

「何か買ってきましょうか」

「ああ、牛乳とあんぱんを頼む」

「ベタっすね」

 岩下が微笑みながら車を出て、コンビニに向かって行った。牛乳とあんぱんなど別に食べたくもないのだが、普段と様子が違う岩下の気持ちが少し楽になればそれでいい。

 岩下が店に入って、奥の方に進んでいくのが見える。飲み物やパン類のコーナーに向かったのだろう。荻田は続けて、立ち読みしている人の方に目線を移す。グレーのロングコートを着ていて、身長はだいぶ高い。大の大人が、立ち読みなんてせずに金を払えと思った。

 荻田は窓を開けた。心地よい朝の風が車内に入ってくる。犯人なんて本当はいなくて、これまでのことは全て夢だと思わせるような平穏さを感じた。無線機が喋り出すまでは。

「通報があった。血のようなものを付着させたシャツを着ている男が路地裏に入っていった。

場所は東中野区6条6丁目3の4。繰り返す東中野区6条6丁目3の4だ。犯人と思われる可能性が高い。近くに配備しているものは全員迎え」

 荻田の体の筋肉が一斉に引き締まるのを感じた。コンビニを見ると、まだ岩下が買い物している様子が見えた。

 荻田はすぐに車を降りて、コンビニに向かって走っていく。急いでドアに手をかけ、開いて中に入ろうとすると、出ようとしている誰かにぶつかった。パッと確認すると、それは立ち読みをしていた男だった。

 顔を見て、目が合う。とてつもない黒さを纏った瞳に一瞬思考が止まった。我に帰って目を逸らす。

 その男を押しのけ、奥の方でパンを物色していた岩下に向かって叫んだ。

「犯人が近くに現れた!行くぞ!」

 鬼の形相でそう言う荻田を見て、岩下は焦るようにパンを元あった場所に戻した。

「分かりました!」

 荻田はコンビニを出ようと後ろを振り返る。

 もうあの男はいなかった。

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