【第七章】歩き出す世界(2)
ママの会社に行くのかなと思ったら、着いたのは病院だった。
忙しそうに行き交う看護師さんと消毒液の匂いに、ほんの少しだけ心がざわついた。
ママと一緒に入った個室には、眠ったままの男の子――ハチと、ハチのお父さんがいた。
「可琳ちゃん、いらっしゃい」
ハチのお父さんの声は穏やかで、とても優しい雰囲気だった。緊張していた気持ちも、その笑顔に触れるとそっと和らいだ。
簡単に挨拶をすませたあと、私は目の前の男の子に視線を戻す。ずっと気になって仕方がなかった。
「この子、どうしたの? 病気なの?」
あの頃の私は、ハチのお父さんの気持ちなんてわかるはずもなく、素直な疑問を次々と口にしてしまった。
「事故で頭を打ってね。もうずっと眠ったままなんだ」
「いつ起きるの?」
「――ずっと、起きないんだよ」
そう呟くと、口元に浮かんでいた笑顔がふっと消えた。まぶたの奥に重い影が見えたような気がしたけれど、私はその重さをまだよく理解できなかった。
「でも、これから可琳ちゃんが行く世界では、元気いっぱいなんだ。その世界で、この子とお友達になってくれるかな」
ずっと眠ったままの男の子が、元気でいる世界。私はまだうまく想像できず、男の子を見る。腕には医療用リストバンドがはめられていて、名前が書かれていた。でも、私に読めたのは「八」の字だけ。
「ハチと仲良くすればいいの?」
私の言葉に、ハチのお父さんとママは、一瞬ぽかんとした。私は慌てて続ける。
「これ、お名前よね。漢字が難しくて八しか読めなかったから……」
その瞬間、二人はふっと笑顔になった。
「ハチか。良いあだ名だ」
ハチのお父さんは静かに頷き、私の目を見つめた。
「可琳ちゃん、ハチをよろしくね」
その時、ハチのお父さんの微笑みの奥に潜む悲しみと、わずかな希望の輝きが、私の心のどこかにそっと触れた気がした。
私が頼まれたのは、まだ作りかけのこの世界を自由に歩き回り、おかしなところを見つけたら報告すること。そして――ハチとお友達になること。
ひとまず、それだけだった。
「可琳ちゃんのアカウントを作ろう」
ハチのお父さんは、軽やかにノートパソコンを操作し始めた。
画面に現れるウィンドウの数々。パチパチとリズム良く叩かれるキーの音とともに、わけのわからない英文がどんどん入力される。まるで魔法みたいで、私はその光景に思わず見入ってしまう。
――こんなふうに、世界は作られていくんだ。
数分も経たないうちに、私の写真をもとにした3Dモデルが画面の中に現れた。
クセ毛の髪。垂れて伏し目がちな瞳。どこか自信なさげな自分の姿。じっと見つめると、心の中でちくりと痛む感覚が広がる。
友達と一緒に写真を撮るたび、可愛く映る友達の隣で、私はいつも影のようだった。もっと可愛かったら、堂々と笑えるのに――。
「ハチのお父さん……これ、ゲームのキャラみたいに見た目を変えることって……できる?」
私は恐る恐る訊いてみた。ハチのお父さんは笑みを浮かべて答えた。
「正式版では本来、自分の顔をそのまま使うんだけど……まあこれはまだβ版だからね。変えられるよ」
「ほんとに? だったら可琳、佐奈ちゃんみたいになりたい!」
私はママに頼んで、引っ越す前にママのスマホで撮ってもらった佐奈ちゃんの写真を見せた。黒くてまっすぐなサラサラの髪、大きくてぱっちりとした目。
ハチのお父さんは、もう一度パソコンに向かった。画面の中の私は、瞬く間に変わっていく。髪は黒い絹糸のようにまっすぐに、瞳は大きく輝き、まるでお人形のようだった。
「わあ……すごい!」
変身した自分を見つめて、思わず息を呑んだ。
このときの私は、ただ、自分の姿が綺麗になったことに喜んでいた。ずっとあとになって後悔するなんて、夢にも思わなかった。
ヘッドセットを装着し、β世界にログインする瞬間、胸の中は期待で膨らんでいた。
ログインして最初に気づいたことは、自分の部屋らしき場所で、立っていることだった。
「……私、立ってる?」
足元を見つめる。両足はしっかりと床に触れ、自分の体重をしっかりと支えている。
片方の足を持ち上げ、ゆっくりと下ろす。――できた! もう一度、今度は両足を交互に動かしてみる。――私……歩いてる!
胸の中で、抑えきれない感情が一気に弾けた。
私は部屋の中をぐるぐると歩き回り、ついにはスキップして、ジャンプして――宙に浮いて、再び足が床を踏む。その感触がとても、とても嬉しかった。
「すごい! 本当に歩けるんだ!」
部屋の片隅に姿見を見つけ、駆け寄って映り込んだ自分の姿を見つめた。
「――これが……私?」
髪はさらさらと滑らかで、瞳はぱっちりと大きく輝いている。佐奈ちゃんのように愛らしく、憧れていた自分の姿がそこにあった。
心が弾む。胸の奥から、ずっと押さえつけていた感情が開放される。
見た目が変わるだけで、こんなにも気持ちが明るくなるなんて。心の底から自信がみなぎる。今の私は、何でもできるような気がした。
その日はマップを頼りに、街を探索した。
ハチがいる学校へ行ってみると、校庭では生徒がボールを追いかけ、校舎の窓には授業中の生徒たちの影が見える。
道行く人々が私とすれ違い、すぐ横を車が走り抜け、足元には草花が揺れている。心地よい風が吹き、肌に触れる感覚までもが鮮やかだった。
「ほんとの世界みたい……」
いや、これはもしかすると、本当に現実かもしれない。
そんなふうに思えてしまうほど、この世界はとてもリアルだった。
その日のβ世界の冒険を終え、ヘッドセットを外した私に、ハチのお父さんが訊いた。
「どう? できそうかな?」
私は大きく頷き、瞳を輝かせた。
「うん! 私、この世界で学校に通ってみたい!」
隣のママが目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
ハチのお父さんが一晩で準備を整えてくれたおかげで、私は翌日から、ハチと同じ学校に通い始めた。
教室は2階だったけれど、自分の足で歩いて、人の手を借りずに階段を登る。それだけで嬉しかった。
教室から賑やかな声が聞こえてきて、少し躊躇しながら入る。本当に大丈夫なのかな……という不安をよそに、何人かが振り向き、私に笑顔を向けた。
「あ、可琳ちゃん、おはよう!」
「可琳ちゃんだ~!」
私は知らないのに、みんな私のことを知っていて、少し戸惑う。
「お、おはよう」
恐る恐る声をかけてみると、「ねえ、算数の宿題やった? 難しかったよねー」と自然に会話が始まる。みんなが向けてくれる笑顔に安心し、教えてもらった席につくと、教室の窓から心地よい風が吹き込んできた。
――こんなふうにクラスメイトと話すの、いつぶりだろう?
授業が始まり、先生が黒板に字を書きながら問題を出す。その滑らかな筆跡も、教室を満たす生徒たちの声も、本物そっくりだった。
本当の世界では行きたくないと思っていた学校なのに、こっちの世界の学校は楽しい。
休み時間には校庭に出て、今日知り合ったばかりの子たちと鬼ごっこをした。風を切って走ると感じる、胸の鼓動がとてもリアルで、今私は、この世界で生きているのだと感じた。
クラスのみんなが友好的なのに対して、ハチは、声をかけても私の顔をちらりと見るだけで「ああ」とぶっきらぼうに呟く。表情はとても暗く、ハチとだけは、少しだけ距離を感じた。
どうしてハチだけ……?
その問いは、私の心の中で、ゆっくりと形を作り始めた。
その日、学校に通ってみてとても楽しかったことを、私は息つく暇もなくハチのお父さんに話し続けた。自分の足で歩けたこと、久しぶりに勉強をしたこと。うまく答えられなくても、友達がそっと教えてくれたこと。
お友達はみんなとても優しかった。でも、ただ一人だけ、ハチとはあまりうまく話せなかった。
「明日はもう少し頑張ってみるね」
ハチのお父さんからの頼まれ事がうまくできなくて、私はしょんぼりする。
「ありがとう。ハチはね、みんなを笑わせる、とても明るい子だったんだ……でも今はきっと、心がずっと悲しいままなんだ。だからこそ、可琳ちゃんに力になってもらいたい」
「じゃあ、ハチを笑顔にすればいいのね。あの世界なら私、頑張れる気がするの!」
胸を張ったその言葉に、ハチのお父さんは柔らかく微笑み、「よろしくね」と呟いた。
一息ついた後、ふと心に浮かんだ疑問を口にする。
「他の子とは、お友達にならなくてもいいの?」
「可琳ちゃんがなりたければお友達になっていいんだよ。ただ、ハチ以外の人は、すべてAIなんだ」
「えーあい?」
ハチのお父さんは小さく頷くと続けた。
「話しかければ答えてくれるし、笑顔も作る。でも……本当の心は持っていない。AIは、ロボットみたいなものなんだ」
そう言われても、ロボットには見えないし、私には人間との違いなんてわからなかった。
でも、本当の人間ではないと思うと、嫌われることが怖くなくなり、私はますます、物怖じせずに話せるようになった。
鏡を覗けば、そこには佐奈ちゃんそっくりの可愛い自分がいる。ぱっちりとした瞳、さらさらの髪――憧れの姿。
ここでなら、私はうまくやれる。
現実の世界で失った自信を、このβ世界で取り戻していくようだった。
――ふと、心のどこかで「これは本当の自分じゃない」と囁く声が聞こえた。でも、その声をすぐに、胸の奥に押し込めた。
今だけは、憧れの自分でいたい。
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