【第三章】君と色づく世界(2)
弁当を食べ終わると、片付けをしながら可琳が言い出しにくそうに口を開いた。
「私、……ハチに謝らないといけないことがあるの」
可琳の声がいつになく小さく、心なしか震えている。
「謝る?」
「うん。あのね……初めて森で遊んだ日、私、ハチのこと置いて帰っちゃったでしょ?」
その瞬間、僕の心臓は、さっきの告白とは違う理由で激しく鳴り出した。
「あの日、急にママに連れ戻されて、……そのまますぐに引っ越すことになっちゃったの」
続く可琳の言葉に息が苦しくなる。
「きちんとハチにさよならを言えなくて、ずっと気になってた。きっと私のこと、嫌いになったよね……。一人にしてごめんね。あのあと、ちゃんと帰れた?」
言葉に詰まり、記憶が曖昧な僕は、答えを濁す。
「それが……あの日のことはよく覚えてなくて。実は――いや、なんでもない。ちゃんと帰れたから、大丈夫だよ」
「全然大丈夫って顔してないよ?」
可琳が心配そうに僕を見つめる。
父さんに捨てられ、そして可琳も突然いなくなってしまった。
たった一人で、心が砕けそうなほど辛かったことだけは、今でもはっきり覚えている。
でも、今ここでそれを全部言葉にする勇気は出なかった。
だから、少し無理をして笑う。
「でも、そうか、理由があったんだね。可琳が無事でよかったよ。僕、森で迷子になって戻れなくなったのかと思ってたからさ」
僕の言葉に、可琳の顔が一瞬安堵したように見えたけど、その後すぐにくしゃりと歪んだ。
「ずっと……ずっとあの日のことが気になってたんだよ。私はハチと一緒にいたかったのに」
言葉の端に滲む後悔に、胸がぎゅっと痛む。
可琳の話を聞いていると、心の傷が静かに
「うん。子どもの頃ってさ、自分ではどうにもできないことが多すぎるよね。大人の都合でいろいろ振り回されて。知らない間にいろんなことが決まってて。僕もそうだったからわかるよ」
僕の言葉に、可琳はほっとしたように、少しだけ微笑んだ。
けれど、その笑顔にはどこか影があった。
「ハチもいろいろあったんだもんね。ごめんね、辛いこと思い出させちゃった」
可琳は顔を伏せ、申し訳なさそうに呟く。
「この話はもうやめよう! こうしてまた会えたんだから」
「そうだね。今、こうして隣に可琳がいる。それだけで充分だよ」
そう言いながら、僕は彼女をまっすぐ見つめる。
けれど、可琳は再び視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「でも……ハチは明日、東京に帰っちゃうんだよね」
一呼吸置いて、何か言葉を続けようとしていた可琳を遮って、僕は言った。
「またすぐに会えるよ」
「え?」
可琳が驚いたように顔を上げる。その瞳には、ほんの少しの疑念と、大きな期待が揺れていた。
「だから、ほんの少しだけ待ってて」
「ここで待ってればいいの? ほんとに?」
「ほんとだよ」
「約束……ね?」
その後、僕たちの間に言葉はいらなかった。ただ見つめ合い、心が交わるような時間が流れる。やがて、どちらからともなく身体がゆっくりと近づき……。
可琳がそっと瞳を閉じたのを見て、僕は小さく息を呑む。
そして、彼女の柔らかな唇に優しく触れると、その温もりが胸の奥に静かに溶けていった。
川のせせらぎが、耳元で囁くように響く。
夏の空気が、どこまでも優しく、僕たちを包み込んでいた――。
*
「そうか! つきあうことになったのか! おめでとう!」
窪の店でラーメンを食べながら、窪に僕らのことを報告した。窪は大きな声で祝福してくれた。
「いやぁ、俺が言った通りだっただろ? 背中を押した甲斐があったぜ!」
窪は得意げに笑う。
なんだかんだ、窪の「もうお前らつきあっちゃえよ!」の言葉に、僕は大きく背中を押されたのだと思う。
ラーメン屋を出ると、夕焼け空が街を柔らかく染めていた。今日は、可琳を家まで送らせてもらうことになった。
彼女の家は、僕の実家からそう遠くない場所にあった。
玄関の前で足を止めると、僕はそっと彼女を抱きしめた。
「また連絡するよ」
そう耳元で囁くと、可琳は小さく頷きながら微笑む。その瞳は少しだけ寂しさが滲んでいて、それが愛おしかった。
彼女と別れた後、僕は少し歩いて、ふと後ろを振り返る。
可琳はまだ玄関の前に立っていて、僕と目が合うと、小さく手を振ってくれた。
僕も手を振り返す。
歩いては振り返り、振り返っては手を振る。
そんなことを、僕が道を曲がる直前まで、何度も繰り返した。
最後に見えた可琳の笑顔は、夕焼けに包まれて、一層輝いて見えた。
その後も、胸の中に温かい余韻が残っていた。
幸せすぎて、まだ心がふわふわしている。
まるで現実から一歩離れた、夢の中にいるような一日だった。
実家に帰り、母さんに思い切って切り出してみる。
「母さん、僕……仕事を辞めてこっちに戻ってきてもいいかな」
母さんはすぐに、優しい顔で言った。
「いいわよ。ここはあなたの家なんだから。いつでも戻ってきなさい」
あまりにもあっさりと認めてもらえて、拍子抜けするほどだった。
その言葉は、穏やかな風となって僕の背中を押した。
これまでも何度か帰省していたけれど、こんなにも故郷の景色が鮮やかに見えることなんてなかった。
木々の緑も、空の青さも、川の流れも、すべてがこれまで以上に美しく感じる。
それはきっと、僕の隣に可琳がいるからだ。
彼女と一緒にいるだけで、僕の世界は鮮やかに彩られる。
思えば、あの頃もそうだった。
父さんが家を出て、僕が深い絶望の谷に落ちてしまいそうになったとき、可琳はその手を引いて、僕を外の世界に連れ出してくれた。
彼女と笑い、彼女と遊び、彼女と過ごした時間が僕を支えてくれた。
そして今も、変わらない。
可琳がいるだけで、僕の世界は明るくなる。
僕の世界は、いつだって可琳が創っている。
大げさじゃなく、それほどまでに、僕の中での可琳の存在は大きいんだ。
*
東京に帰る新幹線の窓から外の景色を眺めていると、まるで世界の色がどんどんと褪せていくような錯覚を覚えた。田舎での数日は、あまりにも濃密で、人の温もりが溢れていた。東京には、それがない。
新幹線を降り、ホームを歩く。
見慣れた都会の喧騒は耳に届いているはずなのに、まるで自分だけ別の世界にいるような感覚だった。
どこまでも無機質で、ただただ味気ない光景が広がっていた。
可琳に、早く会いたい――その思いだけが、胸の中で大きくなっていく。
自宅に戻ると、僕は荷物を床に置き、真っ先に退職届を書いた。
ネットで引越業者の見積もりを依頼し、荷物をリストアップする。
部屋を見回してみても、これといって持ち帰りたいものがほとんどないことに気づく。
東京に執着するものなんて何一つなかった。
昨日、可琳と過ごした川辺の風景が何度も頭をよぎる。
川のせせらぎ、セミの鳴き声、可琳の笑顔。全てが僕の心を満たしてくれる。
それに比べて、この部屋の静けさが、やけに重苦しい。
――帰る場所は、もう決まっている。
そう自分に言い聞かせながら、帰郷の準備を進める。
慌ただしい一日だったが、それすらも心地よかった。
疲れた体をベッドに横たえ、目を閉じると、可琳の顔がすぐに浮かんだ。
――きっと、すぐにまた会える。
そう思いながら、僕は深い眠りに落ちた。
その日の夜、可琳の夢を見た。
川辺で、穏やかな風が吹く中、可琳は笑顔で僕の隣に座っていた。
「久しぶりにハチに会えて嬉しかった」
可琳の優しい声が、まるで耳元で囁かれたように響く。
僕もだよ、可琳。これからは、ずっと、ずっと一緒にいよう。
目が覚めたあとも、夢の中の可琳の笑顔が、胸の奥に鮮やかに残っていた。
次の日、僕は決意を胸に会社に向かった。
退職の手続きは意外とあっさり進んだ。引っ越しの準備や、諸々の手続きをひとつずつ着々とこなしていく。心にはいつも、可琳の笑顔があった。
数日と経たないうちに、僕は再び実家に帰ってきた。
玄関を開けると、母が笑顔で出迎えてくれる。
「おかえりなさい。荷物を置いたら、少し休んだらいいわ」
帰ってきたという安心感と、この土地に流れる時間の優しさに、心がじんわりと温かくなる。
やっぱり、僕の居場所はここだったんだ。
その日の夜、僕は早速可琳に連絡した。
「今から少し会えない?」
そう訊ねると、可琳は驚いた声で答えた。
「もう帰ってきたの?」
待ち合わせ場所に現れた可琳は、僕の姿を見ると、思わず吹き出すように笑った。
「本当に帰ってきちゃったんだね! ハチ、行動が早すぎるよ」
「だって、すぐにでも可琳に会いたかったから……」
会いたかったのは僕だけなのかと、少しむくれた顔をすると、可琳は笑いながら、そっと僕の両手を掴んだ。
「おかえり。こんなに早く会えて、私もすごく嬉しい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中が温かいものでいっぱいになる。
星空の下で手を繋いだまま、僕たちは、たわいもない話で笑いあった。
その日から、可琳の仕事終わりに毎日会う約束をした。
僕たちのデートは、近所の公園だったり、窪のラーメン屋、そして地元のチェーン店といった、どれも垢抜けないものばかりだった。けれど、どこで何をしていても、隣に可琳がいるだけで、僕の心は満たされていた。
「ねぇ、ここの公園、そういえば一度、学校の帰りに寄り道したよね」
「うーん……どうだったかなぁ」
可琳は首を傾げながら、あどけない笑顔を浮かべる。
「ここのブロック塀、通り抜けたことあったよね」
「え? そんなことあった? ……ごめん、覚えてないかも」
小さい頃の朧げだった記憶も、可琳とその場所を訪れたり話しているうちに少しずつ鮮明になっていく。でも、僕が体験した不思議な出来事を可琳は覚えていないらしく、総じて「そんなことあったっけ?」と返されてしまった。
けれど、その記憶が事実だったかどうかは、もうどうでもいいような気がしていた。
重要なのは、こうして今、可琳が僕の隣にいるということだ。
可琳との、そんな穏やかな日々が続いたある日、いつものように窪の店でラーメンを食べていると、窪が唐突に話を振ってきた。
「おい洵、次の仕事が見つかるまで、うちでバイトしないか?」
「え? 僕が?」
「ちょうど人手が欲しいんだよ」
何もせずにいるのも落ち着かないと思っていたところだったので、僕は二つ返事で引き受けた。
「よし! じゃあ今日から早速頼む!」
「は?」
窪が満面の笑顔で、店の奥から制服を持ってくる。
「悪いな! 今日、親父とお袋が用事でいないんだ。頼んだぞ!」
そう言って背中を押されたら断れるはずがない。
僕はラーメンを食べ終わると、その丼を下げるところから、そのまま働くことになった。
飲食店でのバイト経験はなかったが、接客業というのも悪くない。
「美味しかったよ、ごちそうさま」
お客さんにそう言われるたび、なんだか心が温かくなる。
「まかないでラーメン食べれるから、食費も浮くぞ?」
窪の軽い調子に、思わず笑ってしまった。体を動かしていると、余計なことを考えずに済むから気持ちが落ち着く。
昼食のピークをなんとか乗り切り、店内が落ち着いた頃、仕込みをしながら窪と話す。
「洵は東京で何してたんだっけ?」
「エンジニアだよ」
「へぇ、それなら、時安が働いてる会社、たしかそんな感じの仕事内容だったと思うぞ。応募してみたらどうだ? 洵の親父さんも昔はそこで働いてたって聞いたしな」
窪の提案に、僕は少しだけ表情を曇らせた。
僕は、結局苦手な父と同じ道を歩んでいることに苦笑いする。
でも、可琳と同じ職場、というのは悪くない。
「そうだね、考えてみるよ」
その時、店の扉がガラリと開いた。
「こんばんは~」
噂をすれば……仕事帰りの可琳が顔を出した。
「らっしゃい!」
僕が元気よく可琳に声をかけると、可琳が驚いた表情で笑う。
「え? なに、ハチ、ここで働くことになったの?」
「まあ、そんな感じ。ただいま研修中です」
と僕は笑う。
「そうなんだ。じゃあ、味噌ラーメンください」
「味噌一丁!」
「味噌一丁!」
僕と窪の息の合った掛け声に、可琳が「あはは! もうすっかりラーメン屋さんだね!」と声を上げて笑う。
カウンターに座った可琳の前にラーメンを運び、僕もそのまま彼女の席の隣に腰を下ろした。
「窪が、今日はもうあがっていいって。これ食べたら家まで送るよ」
「ありがとう」
可琳が笑顔で箸を持ち、ラーメンに口をつける。
幸せそうに頬張る可琳を見て、僕の胸がじんわりと温かくなる。
この町でこうして彼女と過ごす時間が、もう日常になりつつあることが、たまらなく嬉しかった。
可琳と付き合うことになったものの、正直なところ、この先、何をどう進めていけばいいのか全然わからなかった。
僕はこれまで、女の子と付き合った経験が一度もない。恋愛とは無縁だと思っていた自分が、突然に、こんなにも幸せで楽しい日々を過ごせるとは思ってもいなかった。
ただ、幸せが大きくなるほど、不安も膨らんでいく。都合の良すぎる展開に、ふとした瞬間、思うのだ。
もしも、この穏やかな日常が突然壊れてしまったら――
そんな考えが頭をよぎるたび、胸がぎゅっと締め付けられる。
あの夏の記憶が、いまだに僕の中に深く刻まれているからだろう。
毎日のように一緒に遊んでいた可琳が、突然、僕の前から姿を消した、あの夏の日。
何も知らされず、一人で置き去りにされたような感覚。
心細さと寂しさでいっぱいだったあの日々。
それと同じ痛みが、もう一度やってくるかもしれない。
そう考えるだけで、息苦しくなる。
「どうしたの?」
ラーメンを食べ終わった可琳が、僕の顔を覗き込んだ。
「あ、いや、なんか幸せすぎて、少し怖くなってた」
「なにそれ!」
ふふふ、と口元に手をあてて笑う可琳の笑顔に、今、幸せなこの世界に戻って来ることができた。
「でも……うん。その気持ち、ちょっとわかるよ。私も時々思うもん。こんなに幸せでいいのかなぁって」
少しだけ視線をそらし、可琳はぽつりと呟く。
可琳にとっても、僕と突然離れることになったあの夏は、僕と同じように辛いものだったのだろうか。
「幸せなのに不安になるなんて、ちょっともったいないね。素直に喜んでおこう! ね?」
僕はその言葉に、笑顔で頷く。本当にそのとおりだ。
お互い実家暮らしということもあり、僕たちのデートはいつも、可琳の仕事が終わった夜に、ほんの数時間だけ。一緒に夕食を食べたり、近所を散歩したりして、最後に可琳の家まで送っていく。ここ数日も、そんな日々の繰り返しだ。
特にこれといった進展もない。
僕たちはゆっくりと、けれど確かに同じ時間を歩んでいる――そんなルーティンの中に、じんわりとした幸せがある。
東京にいた頃、会社と自宅を往復する毎日はひどく退屈だった。
けれど、可琳との日々は特別な何かがあるわけでもないのに、とにかく幸せで温かくて、こんな毎日ならいつまでも続いてほしいと思えた。
けれどこの日は、そんなルーティンが少しだけ崩れた。
いつものように可琳を家まで送って、少し話したあとキスをして……。
まだ可琳と一緒にいたくてたまらない僕は、気持ちを抑えきれずに可琳をそっと抱きしめた。その瞬間、可琳が僕の耳元で囁いた。
「うちで、お茶でも飲んでく?」
その言葉は、僕の心にとんでもない破壊力で突き刺さった。
抱きしめていた可琳の肩をそっと離し、口をあんぐり開けた間抜けな顔で、可琳をまじまじと見つめる。確かにもう少し一緒にいたいな、とは思っていたけど!
「いいの? あ、でもお母さんいるんだよね。こ、心の準備が……こんな遅い時間に突然お邪魔するのも……手土産とかも持ってないし……」
と情けない声を出した僕に、可琳は吹き出しそうな顔で微笑みながら答えた。
「ママ、家にいないからそんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
――お母さんがいない!
いないということは、可琳と二人きり!?
ますます心臓が暴れ出した。
これは、つまり、その……誘われている、と思って良いのだろうか!?
いやいや、もしかしたら本当にただお茶を飲むだけかもしれない。でも、仮に「そういうこと」だとしたら、こんな僕で大丈夫なのか!?
慌てるな! しくじるな! 落ち着いて考えろ!
頭の中であらゆる思考がぐるぐると巡り、すっかり挙動不審になった僕を見て、可琳は
「無理ならまた別の日でもいいけど……」
「いや! 無理じゃない。無理じゃないよ。迷惑でなければ……じゃあ少しだけ……」
心の中で何度も反復する。
お茶を飲むだけだ。ただ、お茶を飲むだけだ。
すうーーーはああああ。
深呼吸して気持ちを整えようとするが、心臓は全く鳴り止まない。
僕は意を決して可琳のあとについていく。
彼女が鍵を回し、ドアを開ける瞬間まで、頭の中はパニック状態だった。
その時――。
「可琳。やっぱり
思いがけない声が背後から響いた。
僕は驚いて振り返る。そこには落ち着いた雰囲気の年配の女性が立っていた。
「ママ……」
可琳が呟いた一言で、全てを悟る。間違いない。可琳のお母さんだ。
「あ、あの! はじめまして。僕、八幡洵と申します」
声が裏返った。
完全に裏返った。
なんとか言葉を絞り出した僕に対し、可琳のお母さんは穏やかに微笑んだ。
「はじめまして、洵くん。……と言っても、私はあなたをよく知っているのよ」
柔らかいけれど、どこか芯のある声。
「私はあなたのこと、小さい頃からよく知っているの。その頃、あなたのお父さんと一緒に働いていたから、あなたのことはお父さんから、よく聞いていたのよ」
父さん――。
その言葉が重く響く。
可琳から聞いた話を、僕はぼんやりと思い出していた。
「そうでしたか……その節は、お世話になりました」
緊張しながら礼を言うと、可琳のお母さんは静かに微笑み、けれどすぐに表情を引き締めて言った。
「洵くん。可琳を家まで送ってくれてありがとう。でもごめんなさい、今日はこれから、可琳と二人で話がしたいの」
お母さんは真剣な眼差しを可琳に向ける。可琳は目を伏せていて、今まで見たことのないほどに気まずそうな表情を浮かべていた。
この状況が最悪であることは伝わるけれど、理由がわからない。
僕がいるから?
僕が何かしてしまったのだろうか。可琳のお母さんの印象を悪くするような何か……
もしかして、さっき家の前で抱きしめたり、キ……キスをしたのを見られてしまったとか?
急に全身から冷たい汗が吹き出した。
この場をどう収めるべきかわからず、頭が真っ白になる。
とにかく、これ以上粗相がないようにしなければ……。
「はい……では、失礼します。可琳、またね」
可琳は小さく頷き「ごめんね、ハチ」と呟いた。
その声には申し訳なさと、何か他の感情が混じっているようで、僕は不安になる。
可琳に背中を向けた瞬間、胸が締め付けられるような思いに駆られた。
可琳があの夏のように、僕の前から消えてしまうんじゃないか――そんな恐怖が、じわじわと心を蝕んでいく。
自宅に戻りベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、ここ数日の出来事を思い返してみると、どこか現実味がないことに気づく。
まるで全てが絵空事のように思えてきた。
だって、おかしいだろう?
あんなにつまらなかった僕の人生が、こんなにも劇的に変わるなんて――。
出来すぎた話だ。何か裏があるとしか思えない。
すべてが夢だったんだ。そう思った方がまだ辻褄が合う。
考えれば考えるほど、疑念が膨らむ。
夏休みの終わりに突然いなくなった可琳。
同窓会で、誰も可琳のことを覚えていなかったように見えた奇妙なやり取り。いや、皆は可琳の存在を知っていた――じゃあどうして、話がかみ合わなかったんだ?
……もしかして、可琳は僕が作り出した幻想なんじゃないか?
僕は一度、夢から覚めたはずなのに、またその続きを見始めてしまったんだ。
――でも。
可琳と交わした会話、抱きしめたときの柔らかな感触。どれも鮮明に思い出せる。
それに、窪にも可琳は見えている。僕だけの幻じゃない。
でも、どうしても拭えない。
この胸の奥を埋め尽くす、得体の知れない不安。
多分――そう、きっと、小さい頃の記憶が曖昧なせいだ。
あの夏、可琳がいなくなった理由が分からないままだから、今の自分にまで影響を与えているんだ。
僕は心を静めるように、そっと目を閉じる。
そして自分に言い聞かせた。
大丈夫。
可琳が僕の彼女であることは、紛れもない事実なんだから――。
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