【第三章】君と色づく世界(1)

 同窓会が終わり、二次会と称して窪が経営しているラーメン屋に少人数で移動した。四人がけのテーブル席に、窪と可琳と僕、あと数名が、他の席に分かれて座る。


「飲んだあとのラーメンってうまいよな! 今日は俺のおごり! 好きなの頼んで!」


 窪は得意げに笑い、注文を訊き終えた後、「俺ちょっと厨房手伝ってくる」と席を外した。

 可琳と二人きりになった僕は、何から話したものかと考えあぐねいていると、


「東京での生活はどう? 楽しい?」


 と可琳が訊いてきた。


 ざわめく店内。厨房から中華鍋を振る音が聴こえてくる。

 可琳の瞳がまっすぐすぎて、耐えきれず僕は目を逸らしながら答える。


「……正直、あんまり楽しくはないかな。ただ東京って場所に憧れてただけで、なりたいものも、やりたいことも見つからない」


 そう言った後、自分の言葉が少し情けなく響いて、気まずくなる。


「そうなんだ」


 可琳は少し残念そうに呟いた。その声に、ほんの少しの沈黙が重なる。


「可琳は、いつこっちに戻ってきたの?」


「少し前にね。ハチが東京に行ったって知って、ああ、ちゃんと夢を叶えたんだなぁって思ったのに……楽しくないなら、こっちに帰ってくれば?」


 その軽い誘いに、僕の心が揺れる。東京の生活に特に未練はない。むしろ、可琳がいるなら――なんて考えてしまう自分がいた。


「久しぶりにみんなと会ったら、ちょっと気持ちが揺らぐよ」


 そう零すと、可琳は声を上げて笑いながら言った。


「よーし、帰っておいで! みんな喜ぶよ!」


 その笑顔につられて、僕も笑顔を取り戻す。


「可琳は? 今、何やってるの?」


「部署は違うけど、ママと同じ会社で働いてるよ。……ハチのお父さんと同じ会社。昔、ママと一緒に働いてたんだって」


「へぇ、そうなんだ……」


 少し意外だった。父が、可琳の母親と同じ職場だったなんて。だけど、次に可琳が口にした言葉で、胸の中がざわめく。


「ハチのお父さん、すごい人だったって、ママが言ってたよ」


「……父さんの話はいいよ」


 その一言を口に出すと、場の空気が一瞬で変わったのがわかった。可琳の表情も少し曇る。


「そっか。ごめん」


 小さく謝る可琳の声に、かすかな後悔が胸を刺す。でも、父親の話はどうしても聞きたくなかった。

 いつも仕事ばかりで家にほとんどいなかった。それに、どんなに凄い人だったとしても――子どもだった僕を置いて出ていった人だ。

 今となっては、その存在に何の興味もない。

 さっきまで笑っていた可琳は、ふとまつ毛を伏せてお冷を一口飲んだ。光を受けたグラス越しに彼女の艷やかな唇が揺れ、その仕草に僕は息を呑む。大人になった可琳は――とても……とても綺麗だ。

 気まずい沈黙が続く。僕はその沈黙を破ろうと、無理に笑顔を作りながら話題を探した。


「可琳、そういえばさ――」


 けれど、その言葉は最後まで言えなかった。可琳がそっとカウンターにコップを置き、真っ直ぐ僕を見つめる。


「……そういえばハチ、昔、出会った頃はすごく寂しそうだったよね」


 静かで優しいその声が、僕の心の奥深くを揺らした。


「きっとあの頃のハチは、たくさん辛い思いを抱えてたんだよね。私、何も知らないのに、嫌なこと思い出させちゃったね。ごめんね」


 彼女の気遣う言葉に、胸がじんと熱くなる。僕は思わず顔を伏せた。


「いや……僕は……」


 そうじゃない。本当は、辛かったけれど――君がいたから救われたんだ。そう伝えたいのに、その言葉は喉の奥でつっかえ、声にならない。

 再び沈黙が落ちる。それを打ち破るように、可琳がふっと微笑み、柔らかい声で尋ねた。


「ハチ、いつまでこっちにいるの?」


「明後日の朝、東京に戻る予定」


「じゃあ、明日はまだこっちにいる?」


「うん」


 彼女の瞳が大きく開き、僕を捉える。そしてスッと顔を近づけてきた。


「そしたらさ……」


 耳元で囁く彼女の声が、まるで体温を帯びたように温かく響く。


「明日、二人だけで遊ばない?」


 ボン! 頭の中で何かが弾け、顔が一気に熱くなるのがわかった。

 落ち着け! これはただ、昔の幼馴染としての誘いだ。きっとそうに違いない!

 そう自分に言い聞かせたけれど、心臓は早鐘のように鳴り出し、視線をどうしていいかわからない。顔も――恐らく赤くなっているだろう。


「い、いいよ」


 どうにか平静を装いながら答えると、可琳は「やった!」と小さくガッツポーズをして笑った。その笑顔があまりにも眩しくて、僕はますます視線を彷徨わせる。


「ラーメンおまたせ! それから生ビールな。なんだ、ふたりとも顔が赤いな! 時安はまだ呑んでないだろ?」


 厨房から戻ってきた窪が、ラーメンの丼とビールをドンとテーブルに置きながらからかうように言った。


 可琳が「えへへ」と照れくさそうに笑う。僕の方はすでに限界だ。そんな僕らを一瞥し、窪は小さくため息をつく。


「お前ら、もう付き合っちゃえよ!」


 窪がサラリと言い放ったその一言が、僕の頭を真っ白にした。


「は、はあ?」


 僕はうっかり大きな声を出してしまい、動揺しておろおろする。だが、その横で可琳は、少し首を傾げながら「付き合えたらいいけどねー。でもハチ、東京だからー……」なんて、軽く言うものだから、僕の動揺はさらに加速した。


「はあああああ?」


 顔がますます熱くなり、僕の顔は今、ゆでダコのようになっているだろう。

 一方の窪は、カウンターまで自分の分のラーメンを取りに行き、再びドンと丼をテーブルに置くと、追い打ちをかけるように言った。


「だってどう考えたって、お前ら両想いだろ? 時安もせっかくこっちに戻ってきたんだからさ、遠距離でもなんでも、一度付き合ってみればいい!」


 ビールを豪快に飲み干したあと、ラーメンをすする窪。その無邪気さがむしろ恨めしい。

 可琳が「でもさ」と、少しうつむきながらまつ毛を伏せる。


「東京に彼女いるかもしれないし」


「いないよ!」


 僕は即答した。思いがけず大きな声が出てしまって恥ずかしい……。

 なんだろう、この空気。僕は二人にからかわれているんだろうか。


「まあまあ、とりあえずラーメン、伸びる前にさっさと食え」


 窪に促され、僕は顔を真っ赤にしたままラーメンをすする。懐かしい味が口いっぱいに広がる。昔とまったく変わらない味に、なんだかほっとした。

 そして、この時すでに、僕の中で一つの答えが固まっていた。


 ラーメンを食べ終えると、僕たちは窪の店をあとにした。

 ラーメンのせいか、それとも可琳のせいかわからないけれど、火照った身体を夜風が優しく冷やしてくれる。街灯に照らされた可琳の横顔を盗み見た瞬間、胸がキュッと締めつけられた。


「明日、ハチの家まで迎えに行ってもいい?」


 ふと可琳が言う。可琳の口調はとても自然だったけれど、僕は少しだけ戸惑いながら答えた。


「僕が迎えに行くよ。そういえば、可琳の家、なくなってたけど……今、どこに住んでるの?」


 その言葉に、可琳は一瞬だけ沈黙する。そして少し茶目っ気のある表情で言った。


「……内緒! っていうか、私の家、見に来たんだ?」


 その問いに、僕の心臓が跳ねる。恥ずかしくて思わず視線をそらす。


「いや、たまたま、たまたま通りかかっただけだよ」


 そんな見え透いた嘘なんて、可琳には通じない。彼女は「ふふっ」とお見通しだと言わんばかりに微笑む。


「じゃあ、明日十時頃に迎えに行くね。それでいい?」


「ああ」

 僕がそう答えると、可琳はあっさり「じゃあ、また明日」と手を振った。

 僕に期待させるような言動をたくさんしておきながら、最後はやけにあっさりと帰ってしまった。やっぱり、窪と可琳に遊ばれてるだけなんだろうか。

 そんな疑念が頭をよぎるけれど、どうしても彼女と再び会えたことへの喜びが勝ってしまう。


 鼻歌交じりに、軽い足取りで帰路につく。こんなに楽しい気持ちになったのは、一体いつぶりだろう? 東京に出てから、少なくともこんなに心が踊ったことはない。

――いや、東京に出てからではなく、可琳がいなくなってからだ。

 あの頃から、可琳のいない世界はどうしようもなく退屈で、何をしても心が満たされることはなかった。


 次の日、可琳は時間きっかりにやってきた。

 昨日は同窓会ということもあってスカートで可愛らしい印象だったけれど、今日はパンツスタイルのカジュアルな服装だった。シンプルなTシャツなのにどこか品があって、動きやすそうなスニーカーが、元気な彼女によく似合っている。

 昨日の可琳も素敵だったけれど、今日の可琳にはまた別の魅力がある。


「ねぇ、これ見て! 釣り竿持ってきちゃった」


 彼女がくるりと回転して、背中に背負っているフィッシングバッグを見せる。


「久しぶりに川で魚釣りとかしてみる?」


 僕は思わず笑ってしまう。想像していたデートプラン――買い物をしたり、ご飯を食べたり――とは少し違う。このあたりに小洒落たお店があるわけでもないし、それはそれで悪くない気がした。


「いいね。釣りとか、何年ぶりだろう」


「でしょ! たまには童心にかえって楽しもうよ!」


 可琳は屈託のない笑顔で、子どもの頃と同じような無邪気なテンションで話しかけてくる。その姿を見ているだけで、不思議と心が弾んだ。


 川まで歩いていく道中、本当はいろいろ可琳に訊きたいことがあった。昨日の夜からずっと、彼女を思い出すたびに浮かぶ、まるで夢の中のような記憶。あれは本当に起きたことだったのだろうか。それとも、僕の頭の中が作り出した幻だったのだろうか。

 その答えを彼女に問いたい気持ちは強くなるばかりだったが、同時に、聞いてしまったら全てが壊れてしまいそうで、結局、言葉にはできなかった。


 並んで歩く僕たちの周りには、夏の緑が溢れている。セミの鳴き声が賑やかで、どこかから小鳥のさえずりも聞こえる。僕らの足元をそっとかすめるように、トンボが軽やかに飛んでいった。

 可琳は道端の草を眺めたり、空を見上げたりしていて、その横顔はどこか楽しげだった。僕はふと、彼女が昔からこんなふうに、いつも世界を楽しそうに眺めていたことを思い出す。


「実はね、昨日、ハチに久しぶりに会うから少し緊張してたんだ」


 歩きながら、可琳がぽつりと口を開いた。


「前みたいに話せるかな。ハチは大人になって、変わっちゃってるかなって。でも、全然変わってなくて、よかった」


「つまり、僕、成長してないってこと?」


「もう! そういう意味じゃないってば。いい意味で言ったの!」


 可琳が少しムッとした顔で僕を睨む。僕はその表情がなんだか懐かしくて、つい、笑みを零す。すると可琳も表情を和らげた。


「元気そうでよかった」


 そしてそんな可琳を見つめ、僕は呟く。


「可琳はさ……」


「ん?」


「綺麗になったね」


 その瞬間、可琳の表情は固まり、そして俯く。

 え、僕、何か余計なこと言った?


「あの……可琳さん?」僕が焦って声をかけると、可琳が小さな声で言った。


「見た目だけなのかなーって思って」


 その言葉に、僕の胸がぎゅっと締め付けられる。


「違うよ!」


 思わず声が大きくなる。


「見た目はもちろん可愛いけどそれだけじゃない! 一緒にいると楽しいし! 可琳と話してると、昔みたいにホッとするんだ」


 顔をあげた可琳はぱちぱちと瞬きをすると、やがてふっと頬を緩め、小さく笑った。


「ありがとう……ごめんね、変な言い方して」


「僕こそ、ごめん。うまく言えなくて」


 照れたように笑う可琳に安堵する。なんだ、ただ恥ずかしかっただけか、と胸を撫で下ろした。


 目の前に可琳がいる。

 こうして一緒にいることが、いまだに信じられない。

 夢みたいだ、と思う。

 もし本当に夢だったとしても――。

 どうか、覚めないでほしい。


 川に着くと、可琳は待ちきれない様子でサンダルを脱ぎ捨て、川へと入った。


「うわー! 気持ちいい!」


 響く声は楽しげで、それは風鈴の音色のように涼やかで心地よかった。


「すべるから気をつけろよ。それから、あんまり深いところに行くんじゃないぞ」


「わかってるー!」


 振り返りざま、可琳が明るく答える。その笑顔は眩しくて、僕は一気に心を鷲掴みされる。


「ねえ、ハチもおいでよ! すごく気持ちいい!」


 子どもみたいだな、と思いながら、僕も靴と靴下を脱ぎ、ゆっくりと川へ足を踏み入れる。

 澄みきった水はひんやりしていて、足元をくすぐるように流れていく。太陽の光を浴びてきらきらと輝く水面は、目に焼き付けておきたいくらいに綺麗だった。

 隣では、可琳が夢中になって水を感じている。

 浅瀬で足を交互にバタつかせながら、「気持ちいい!」と何度も繰り返す様子が微笑ましい。川底の石を踏んでバランスを取るたび、声を上げて楽しそうに笑う。


 ――ああ、そうだ。

 小さい頃の可琳も、常に飛び回るようにはしゃいでいたっけ。

 どこにいても、何をしていても、笑顔が絶えなくて、その明るさに引き込まれるようだった。

 僕が笑顔を取り戻せたのは、間違いなく可琳のおかげだ。

 あの頃の僕にとって、可琳の存在は唯一無二の支えだったんだ――そう思うと、不意に胸が熱くなる。


 川のせせらぎと鳥のさえずり、それに僕たちの声以外、何もない。

 どこまでも広がる緑と青空。

 その広大さの中で、可琳がふと、静かに立ち止まる。そっと顔を空に向けている姿は、まるでこの風景の一部のように馴染んで見えた。


「ねえ、可琳」


 声をかけると、彼女が振り返る。


「ん? なあに?」


 その声は、風に乗ってふわりと耳に届いた。

 僕は少し照れながら、それでも言葉を続ける。


「こうしてるとさ……なんていうか、この世界に僕たち二人しかいないみたいに感じない?」


 可琳は一瞬、目を丸くした。

 そして、ふっと柔らかく微笑む。


「……そうだね」


 その一言と、ほんのり頬を染めた笑顔。

 その瞬間、胸の奥で何かが音を立ててほどけていくのを感じた。

 ――たぶん、それは言葉にできない特別な感情。


 東京にいた頃の僕は、時計ばかりを気にしていた。

 決まった時間に家を出て、いつもの時刻の電車に乗り、始業時間の十分前にデスクに座る。

 昼休みになればご飯を食べて、一時から再び仕事を始める。

 終業時刻になれば勤怠システムを打刻して、駅のホームでは次の電車の時刻を確認する。

 そこから自宅に帰る時間を予想して――。

 そんな毎日を、ただ、繰り返す。

 挫折もなければ、大きな苦労もない。


 出会った人たちはみな親切だった。だけど、深い関係になるような間柄には一度もなれなかった。

 こんな状況で不満を言ったらバチが当たるだろう。

 僕は、ただ惰性で生きていた。

 生きる目的も理由も見つからないまま、淡々とした日々を。


 けれど、可琳と再会してから――。

 胸の奥に灯った、久しぶりの高揚感。

 可琳は、雲間から突然現れた太陽のように眩しく輝いて、僕の灰色だった日常に色を差し始めた。

 目の前でキラキラと輝く笑顔をふりまく可琳。

 まるで、この世界に彼女だけが持っている光の粒子があるみたいだ。

 こんなふうに笑っている彼女と、ずっと一緒にいられたら――。

 そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなった。


「あんまりはしゃいだら、魚、全部逃げちゃうかな」


 そんなふうに言いながら、可琳は気持ちよさそうに空を仰ぐと、くるりと僕に振り返る。あの頃と同じ、天真爛漫な笑顔が浮かんでいた。


「ねぇハチ、この場所、覚えてる?」


「ああ……」

 可琳にそう訊かれて、僕は即答した。昨日ここを訪れた時、鮮明に甦った記憶。夏の夜、涼しい風に包まれて、僕達はここで――。


「花火。この場所から二人で見たよね」


 この町で毎年夏に行われる花火大会。規模は小さいけれど、辺りには高い建物がなくて、空一面に花火が広がる。あの夜、可琳と二人で見た花火は、今でも目を閉じれば思い出せるほど美しかった。


「また二人で見たいね。花火」


 可琳は静かに微笑む。


「うん。また二人で見よう」


 僕も微笑みを返した。


「じゃ、釣り竿持ってくるねー!」


 少し照れたように背中を向けた可琳は、ひょいひょいと石の上を軽やかに渡る。その姿が、あの頃と変わらず愛らしくて、つい笑みが溢れてしまう。


 魚釣りなんて久しぶりだ。釣れそうで逃げられてしまったり、網を持って必死に追いかけたり。僕たちは夢中になって、まるで子どもの頃に戻ったみたいに、声を上げながら遊んだ。

 澄んだ川の水しぶきが太陽にきらめき、緑の木々が風にそよぐ音が耳に心地いい。この瞬間を切り取って、永遠にしてしまいたい――そんな気持ちすら湧いてくる。

 でも、ふと、僕の心を曇らせる現実が顔を出す。


 ――明日、僕は東京に帰る。

 その事実が、こんなにも苦しく感じられたのは初めてだった。

 この感覚は、まるであの夏休みに戻ったみたいだ。


 家の中が不穏な空気に包まれ、僕は何も言えずただ息を潜めていた――あの夏。

 小さな僕に、その変化はあまりに急で、ただ混乱するしかなかった。

 そして、父さんは突然、僕を置いて家を出ていった。

 どうしてなのかと考えれば考えるほど、胸の奥に鉛のような重さが積もっていく。

 母さんから「父さんはもう、家に戻ってこない」と言われても、僕は信じられなかった。

 どこかで、父さんがいつか帰ってくることを願っていた。


 でも……父さんは、あの日以来、一度も僕の前に現れることはなかった。

 会いたいと思うのは僕だけで、父さんにとって僕は、会わなくても平気な存在なんだ――そう気づいたとき、悲しくて、寂しくて、どうしようもなくなって、たくさん泣いた。


 僕は――父さんに捨てられたんだ。


 その現実は、小さかった僕には重すぎて、心の中に暗い影を落とした。

 けれど、その夏、僕の隣にはいつも、可琳がいてくれた。

「ハチ!」と彼女の声が明るく響くだけで、不思議と胸が軽くなる。

 嫌なことなんて全部忘れて、ただ夢中で遊べたのは、可琳がそばにいてくれたからだ。

 可琳は、太陽みたいに僕の心を明るく、暖かく、照らしてくれた。

 そして今も。

 こうして可琳と一緒にいると、あの頃と同じように胸の奥に暖かい光が灯っていくのを感じる。

 いつまでも――ずっとこんな夢のような時間が続けばいいのに。

 そう願わずにはいられない。


「ねぇハチ、お腹空かない?」


「ああ、そういえば空いてきたね。お昼どうしようか?」


「ふっふっふ、そうくるだろうと思って、作ってきましたよ!」


 可琳は得意げにカバンの中からお弁当箱を2つ取り出した。レジャーシートを敷いて、その上に座る。


「ハチの分も作ってきたから、一緒に食べよう」


――可琳の手作り弁当!

 これって、もうデートじゃないか?  デートってことでいいんだよな?


「たいしたものは作れなかったけど……まあ、外で食べると何でも美味しく感じるはずだから大丈夫だと思う!」


「絶対美味しいから大丈夫!」


 僕はわくわくしながら可琳からお弁当を受け取った。そして迷わず、卵焼きに箸を伸ばす。


「美味しい……!」


 たまらず感想を口にすると、可琳は照れくさそうに口元に手を添え、はにかんだように笑った。


「よかった」


 川のせせらぎと、セミの鳴き声が心地よいBGMのように流れる中で、僕たちは並んでお弁当を食べた。

 一つ一つの料理がどれも丁寧に作られていて、彩りも綺麗で、胸がじんわりと温かくなる。

 小さい頃、何度も見たはずの景色は、まるで色彩を増したかのように鮮やかで美しかった。

 僕の生まれ育った場所は、こんなにも綺麗だったんだな――。

 可琳と二人で過ごしているこの穏やかな時間が、ずっと……ずっと続いてほしい。


「ねえ、可琳」


「何?」


「昨日の窪じゃないけど……僕たち、本当に付き合ってみない?」


 ちらりと可琳の顔を見ると、こちらを向いていた可琳は、少しだけ口をとがらせた。


「……ねえ、何か順番、間違えてない?」


「え?」


「付き合おうって言う前に、言うことがあるでしょ!」


「あ……」


 僕は思わず赤面して、手にしていた弁当をそっと置く。

 明日、東京に帰る僕には、時間がない。

 そんな焦りが、僕から冷静な思考力を奪っていた――。

 深呼吸を一つして、気持ちを落ち着ける。そして、真っすぐに可琳と向き合う。

 可琳も同じように姿勢を正し、僕をじっと見つめてくれた。


「え、えっと……」


 可琳の瞳が僕の心を見透かすようで、心臓がこれまでにないほど激しく鳴っている。


「可琳のことがす……好きだ。これからも、ずっとこうして一緒にいたい。僕と付き合ってもらえませんか?」


 ぎこちなく震えた声で伝えた僕の言葉に、可琳の顔がみるみる赤く染まっていく。

 可琳は口を両手で覆い、目をギュッと閉じたかと思うと、意を決したようにパッと顔を上げた。


「私も大好きだよ、ハチ。これからもよろしくね」


 ぃやっっっったああああああ!

 心の中で力いっぱい叫んだ気持ちをなんとか抑えて、「よし!」と小さく呟きながら、両手の拳を力強く握りしめる。クールに決めたいのに、顔がにやけて、全然しまらない。

 そんな僕を見て、可琳が吹き出した。

 手を口元に当て、くすくすと笑う姿が愛おしくてたまらない。


「もう、ハチったら、子どもみたい!」


 可琳のその笑顔がまるで夏の日差しのように眩しく、今この瞬間の幸せを肌で感じていた。


 こうして僕たちは、付き合うことになった。

 急に何もかもがうまくいきだして、僕はほんの少しだけ怖かった。

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