【第六章】重なる世界(2)

 今日はまったく仕事が手につかなかった。

 現実の時安可琳に会ったせいで、今までなんとか抑えてきた可琳への思いが、せきを切ったように溢れ出していた。


 僕が知っている時安可琳はAIだ。僕の世界にしか存在しない。

 あのときの、彼女の困惑した表情を思い出すたび、胸が締め付けられる。

 彼女にとって、僕の第一印象は最悪になってしまったんじゃないだろうか……。


 僕は頭をかかえた。

 もっと落ち着いて行動すればよかった。可琳の存在を、自ら遠ざけてしまったかもしれない。

 しかし、いくら後悔しても、あの時の僕には衝動を抑えられる自信はなかった。


――現実の時安可琳は、本当に僕が知っている可琳と何の関係もないのだろうか?

 疑問はどんどん膨らみ、やがて耐えきれなくなった僕は、自宅に帰るなりコンビニ弁当をかき込むと、β世界にログインした。


『圭、聞いてくれよ。現実世界に時安可琳がいたんだ』

 ログインするや否や、僕は圭にメッセージを送った。

 いつもは、可琳の家や窪のラーメン屋に寄ってから圭に会うのが習慣だったけれど、今日はそれどころじゃない。真っ先に圭に連絡を取り、居酒屋で待ち合わせることにした。


 居酒屋に着くと、すでに圭がビールを片手に席に座っていた。


「やあ、洵。今日は早いね」


 圭は笑いながら、僕のためにジョッキを注文してくれた。

 β世界の居酒屋で飲むお酒には、現実にはない不思議な心地よさがあった。酔いはリアルに感じるのに、元の世界に戻ればシラフになる。体質的にお酒に弱い僕は、このβ世界で飲むひとときが、密かな楽しみになっていた。


「圭、話を聞いてほしい!」


 僕は圭の隣に座るやいなや、今日起きたことを一気にまくしたてた。


「だからきっとまた会える、って言っただろ?」


 圭は僕の話を聞き終わっても、驚くそぶりを見せず、ただニコニコしていた。


「圭、知ってたのか?」僕はふてくされて問いかける。「だったらなんで教えてくれなかったんだよ!」


 圭は肩をすくめながら、笑みを浮かべた。


「僕から言うのは少し違うかなと思って。ほら、そういうのは、自分で見つけた方が価値があるだろ?」

「そんなこと言って、永遠に会えなかったらどうするんだよ……」

「そのときはそういう運命だったということだ。でも僕は、洵なら会えるって信じてたよ」


 そんな圭の優しい言葉に、僕の心はじんわりと熱を帯びる。すん、と鼻をすすって続ける。


「でもさ、現実の可琳は見た目が全然違ったんだ」

「ありえないことじゃないよ。〈MAHORA〉の正式版は個人情報と紐付いているから、本人の顔データをもとにアバターが作られる。でも、β版はテスト環境だったから、姿形は自由に変えられるんだ」


 圭の説明を聞きながら、新たな疑問が湧いてきた。


「なんで父さんは、可琳を現実の姿そのままに作ってくれなかったんだろうな……」

「まあきっと、何か理由があるんだろうね。そこは僕のお母さんか姉さんに、直接訊くしかないだろうね」


 圭は僕の空いたおちょこに日本酒をつぎながら、さらりと言った。


「で、現実の世界の姉さんとは、仲良くなれた?」


 その言葉に僕は顔をしかめる。


「いや……むしろ逆だ。変質者か、よくてナンパなチャラ男だと思われた」


 圭は、あちゃーという顔をしながら、慰めるように僕の肩をぽんぽんと叩く。


「そりゃ災難だったね。でも、出会えたんだからこれからだよ。挽回のチャンスはいくらだってあるさ」

「そう……かな」

「だって、この世界で君たちは付き合っていたんだろ? なら、現実世界でもその可能性は大いにある!」


 圭は軽く笑っていたけれど、その瞳の奥には確信めいた光が宿っているように見えた。

 僕はおちょこを手に取り、注がれた日本酒を一気に飲み干した。


「ありがとう、圭」


 そう呟くと、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。


 圭は、この世界のメンテナンスをするために存在している。それが、彼の本来の役割だということは理解しているけれど、こうして話していると、まるで本当の友人のように思えてくる。

 彼の明るさ、優しさ、時折見せる鋭い洞察や的確なアドバイス。僕が圭にどれだけ救われているか。本人には言ったことはないけれど、本当に感謝している。


 圭にも、誰かのデータが入っているんだろうか、とぼんやり思う。もしかして、現実世界にも「圭」がいるのだろうか。

 この世界の可琳は、弟はいないって言ってたけど、現実世界には、圭の「中の人」がいる可能性だってある。だとしたら、現実世界の圭にも会ってみたいな、と思う。

 可琳のことも圭のことも、時安リーダーに訊けば、きっとわかる。でも、プライベートな話を訊くなんてできるのだろうか?


 そんなことを考えながらぼんやりしていた翌日、なんと時安リーダーから直々に、ご飯に誘われた。突然のことに驚きを隠せなかった。


 病院で目を覚ましてから、時安リーダーにはいろいろとお世話になった。けれど、僕の生活が落ち着き、アストラルアークに入社してからは、他部署のリーダーと新入社員という関係。時々社内で挨拶を交わす程度の距離感だった。


 このタイミングで誘われたということは――可琳の件に違いない。

 昨日、あんな変な出会い方をしてしまった。現実世界の可琳が、時安リーダーに僕のことをどんなふうに伝えているのかと考えたら、頭が痛くなってきた。


「怒られるかなぁ……驚かせちゃったしなぁ……」

 可琳と圭のことを訊くチャンスではあるけれど、リーダーがどんな話をするつもりなのか、期待と不安が入り混じり、複雑な心境だった。


 仕事を終え、予約をしてあるというお店に着くと、そこは高級なレストランだった。僕は店の前で立ち止まり、襟とネクタイを整える。慣れない雰囲気に緊張しながら店に入ると、静かで上品な音楽が流れ、低い声のスタッフが丁寧に出迎えてくれた。


 案内されると、すでに時安リーダーが座っていた。

 彼女はいつもと変わらぬ落ち着いた笑顔で、僕に軽く会釈をした。


「こうしてゆっくり会うのは久しぶりね、洵くん」

「はい。ご無沙汰してます」


 僕は席につき、スタッフに促されるままメニューを見て、スパークリングワインを注文する。スタッフが去った後、時安リーダーが口を開いた。


「仕事はどう? 困っていることはない?」

「まだ勉強しなくちゃいけないことばっかりです。でもいずれは〈MAHORA〉の開発に関わる仕事ができればと思っています」

「うん。がんばってね。応援してるわ。――それで、今日洵くんを誘ったのは、大方予想はついていると思うけど、娘のことをきちんとお話しようと思って」


 きた、と僕は思った。息を整え、頭の中で準備していた言葉を探し出す。


「あの……すみません、僕、動揺してしまって、初対面なのに可琳さんを驚かせるようなことを言ってしまって……」

「それは大丈夫よ」


 時安リーダーは、意外にもあっさり微笑んで言った。その穏やかな反応に、怒られると思っていた僕は、少し拍子抜けしてしまった。


「可琳と……同姓同名だったので驚きました。僕の知っている可琳と見た目は違いますが、どうして現実世界にも可琳さんがいることを教えてくれなかったんですか?」


 時安リーダーは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに穏やかな顔になり、静かに答えた。


「あなたの世界の可琳とは別人だからよ。それに、言ったところで、洵くんを無駄に混乱させるだけだと思ったの。ごめんなさい」


 時安リーダーの言い分は理解できる。僕にとっても、可琳にとっても、お互い知らないほうが混乱は少なかっただろう。

 でも――。


「あの、β世界の可琳のデータなんですけど……」


 ワイングラスを揺らしていた時安リーダーの手が止まった。


「時安リーダーが子どもの頃のデータを使ったって言ってましたが、それは本当ですか? 現実の可琳さんのデータを使っていたってことは……ありませんか?」


 時安リーダーはワイングラスをゆっくりとテーブルに置いた。その仕草には、考えを巡らせる気配が漂っていた。


「それを知って、あなたはどうするの?」


 彼女は顔を上げ、まっすぐに僕の目を見つめた。その視線には、逃げ場のない真剣さがあった。


「データが可琳のものであってもなくても、現実の可琳はあなたが好きな可琳ではないわ」


 その言葉は鋭く胸に突き刺さった。僕は、彼女の目を見つめ返すことができなかった。


「そう……なんでしょうか……」


 絞り出すような声で答えると、リーダーは少し眉を寄せ、小さく息をついた。


「私から洵くんに、ひとつだけお願いがあるの。今後、二人がどこかで会うことがあっても、あなたの知っている可琳の話題を出さないでほしいの。こちらの世界のあなたたちは、先日偶然に出会っただけの間柄。それ以上でも以下でもない」


 リーダーの声は冷静だったが、その奥に何か複雑な感情が隠れているようだった。その言葉が真実であることはわかる。僕に反論する余地はない。けれど、心のどこかが抗う。


「……はい。承知しました。でも……その……会うことを禁止されたりは……」


 思い切って言葉を続けると、時安リーダーは少しだけ表情を緩めた。


「それは私の言うことではないわ。ただ、可琳は人より繊細なところがあるから少し心配で。それに、ちょっと頑固でね」


 小さくため息をついた時安リーダーの表情には、娘を想う母親としての優しさと、言葉にできないほどの愛情が滲み出ていた。目を伏せながら、彼女は静かに話し始めた。


「小さい頃に交通事故で車椅子になってから、可琳はたくさん傷ついてきたの。周りの目も気にして、自分に自信を持てなくなってしまった。でも……そんな中でも、あの子なりに必死に頑張ってきたわ」


 時安リーダーの声には、娘への誇りが滲む一方で、後悔が微かに陰を落としていた。


「可琳が事故にあってから、私もどこかで変わってしまったんだと思うわ。あの子を守りたいと思うあまり、過保護になりすぎていたのかもしれない。気をつけているつもりだけれど、あののことを思うと、どうしても、ね。大切な一人娘なの。洵くんも、わかってくれるわよね?」

「はい、もちろんです」


 僕は自然と頷いていた。けれど、どうしても一つだけ、確かめたいことがあった。


「……あの、それと、可琳さんは一人っ子なんですか? 圭さんという弟さんはいませんか?」

「弟……?」


 時安リーダーは驚いた顔をしてから、首を傾げた。


「いえ、弟はいないわ。可琳は一人っ子よ。どうして?」

「β世界には、可琳に『圭』って名前の弟がいるんです」


 僕の言葉に、時安リーダーは、ぽかんとしてから少し考え込むように視線を宙に泳がせた後、くすりと微笑んだ。


「ああきっと、八幡くんの仕業ね。可琳が小さい頃、よく『弟が欲しい』って言っていたの。きっとβ世界で、八幡くんがその夢を叶えてくれたのね」


 時安リーダーは、まるでその光景を思い浮かべるように、懐かしそうに微笑んだ。


「今では圭とは、なんでも話せる親友みたいになっていて」

「それは素敵ね。面白いわ」

「でも……β世界の可琳には、もう長いこと会えてなくて――今でもβ世界を探しています」

「……本当にあなたは、可琳のことが大好きなのね」


 その言葉に、僕は思わず顔を赤くした。


「はい。可琳だけなんです。僕の世界を輝かせてくれたのは。もう一度会いたいです。会って、話がしたいです」


 自分でも恥ずかしいくらい、まっすぐな言葉だった。でも、それが僕の本心だった。

 リーダーはその言葉を真摯に受け止め、静かに微笑んだ。


「もし……もしもよ。あなたの世界の可琳のデータが、私の娘の可琳だったとして……見た目も、そしておそらく性格すら違う現実こっちの世界の可琳に、あなたはまた、恋をするの?」


 その問いは、まるで僕の心を試しているようだった。


「もう……恋してるんだと思います」


 僕は顔を真っ赤にしながら答えた。可琳本人にもまだ伝えてない気持ちを、先に親御さんに伝えるなんて……どうも僕は、いつも順番を間違える。

 自分の言葉があまりに大胆すぎて、少しだけ後悔したけれど、時安リーダーはそんな僕に優しく微笑み、ただ静かに頷いた。


「そう……」


 そんな僕の馬鹿とも阿呆ともとれる告白を聞いた時安リーダーは、額に手をあてて、しばらく俯いていた。その姿を見ながら、僕は思わず息を呑む。


 今日、僕はここで「可琳には近づくな」と釘を刺される覚悟をしていた。時安リーダーは、娘を想う親として、僕を警戒しているはずだし、それは当然のことだと思う。

 ましてや、彼女は小さい頃の事故で車椅子生活を送っている。親の心配は計り知れない。

 だけど――。


 僕の中では、車椅子に乗ったあの女の子が、なぜだか愛しくてたまらないのだ。見た目も性格も、β世界の可琳とはまるで違うのに。彼女の笑った顔が、仕草が、僕の心の中にいる可琳と共鳴している。

 愛しくてたまらない。言葉ではうまく説明できないけれど、僕の心の深いところで、どうしようもなく惹かれるのだ。


 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。しばらく悩んでいた時安リーダーは、やがて顔を上げた。その表情は、何かをふっきったように晴れやかだった。


「洵くん、あなたを信じてみるわ」


 思いがけない言葉に、僕は驚きで声を失った。


「ちょっと人見知りで頑固なところがある娘だけれど、これからもよろしくね」

「はい!」


 力強く返事をした僕だったけれど、時安リーダーが、一体僕に何をよろしくしてほしいのか、実はよくわからなくて戸惑っていた。でも、都合よく、「このまま好きになっていいんだ。いや、むしろもっと好きになっていいんだ」と解釈することにした。


 嬉しくなって、僕はスパークリングワインを一口飲む。

 ここまで、味がよくわからなかったワインが、急に美味しく感じた。

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