【第十章】再び交わる世界(5)

「久しぶり。姉さん」


 圭の座標は奇妙な場所にあった。

 もちろん私の家ではない。ハチの部屋の押し入れとつながった、独立した空間。

 ハチがログインしていないときは、その場所から動いている形跡はない。

 ハチの部屋に入ると、圭はすでに、そこに座っていた。

 まるで、私が来ることを知っていたかのように。


「あなたは……誰?」


 思わず警戒する。

 目の前の青年は、確かに小さい頃に見た弟の面影がある。

 栗色の髪に、優しげな目元。顔は、β世界の私とも、現実世界の私ともあまり似ていない。


「えっと……姉さんの弟、だけど?」


 圭は微笑んで、そう言った。

 その笑顔はどこか私の全てを見透かしていそうで、少し怖かった。


「今までここで、何をしていたの?」

「僕は、この世界のシステムを管理している。ただそれだけだよ」


 システムを管理……。私がβ世界にログインできなくなった日に、弟のデータが更新されていた。そのときに、圭は書き換えられたのだと気がついた。それよりも――


「ハチと、会っていたのよね?」

「そうプログラミングされていたからね。それより姉さん。現実世界で洵と会えたかい?」


 圭は私の目を覗き込むようにして、静かに訊ねた。


「洵はとっても君に会いたがっていたんだよ」


 穏やかな圭の言葉に、私の胸がチクリと痛む。

 ハチは会いたがっていた――なのに私は、突き放してしまった。


「会えたけど……もう、会えない」

「どうして?」

「ここでの可琳は……偽りの私だから」

「偽りの自分?」

「現実の私は、ハチが好きになった可琳じゃない。本当の私は、こんなに綺麗じゃないし、足だって動かない。ここでの、元気で明るい可琳とは違って、自分のことが大嫌いで、情けなくて意気地なしで……みんな、本当の私を知ると、離れていってしまう」


 言葉を紡ぐたび、心が締めつけられる。

 目の奥が熱くなり、視界がぼやけていく。

 いつの間にか、瞳から涙が溢れていた。


「現実世界の姉さんも、ここでの姉さんも、中身は同じでしょ? なら、どっちも本物の姉さんだよ」

「偽物のあなたに言われても……あなたは私がハチのお父さんに作ってもらった、偽物の弟なんだよ?」


 圭の表情が僅かに揺らぐ。

 けれど、すぐに静かな微笑みを取り戻した。


「……そうだね。僕は君の弟じゃない。僕の役目は終わったと思ってたけれど、そうもいかなくなってるみたいだね」

「どういう……こと?」

「君があの河原で、洵の前から消えてしまったあと。洵がどうなったか、知らないだろう?」


 その言葉に心臓が跳ねた。

 私はキッと圭を睨む。


「まさか……あなた、見ていたの!?」

「僕はこの世界を管理しているし、洵を見守るようにプログラミングされているからね」


 圭の言葉は穏やかだった。

 けれど、次の言葉は冷たい刃のように、胸に突き刺さる。


「君が消えてしまったあとの洵を、僕は見ていられなかったよ。君は一方的に話すだけ話して消えてしまった。洵はその場でしばらく泣き崩れていた。僕は声をかけようか迷ったけれど、結局何もできなかった」


 想像してしまう。

 河原に一人、取り残されたハチの姿を。

 私は自分のことで精一杯で、あのあと、ハチがどうなったかなんて――


「君は、ハチが君から離れたと言っているけど、本当にそう? 君から離れたんじゃないのかい?」


 心臓が締め付けられる。


「知ったような口きかないで! ただのAIのくせに!」


 感情を押さえきれず、自分でも驚くほど声を荒げてしまった。

 圭はとても寂しそうに笑った。その表情が胸を刺す。

 私は自分の発した言葉の酷さに、自分で呆れた。

 呆れて、悲しくて、どんどん自分が嫌いになる。


「ごめんなさい……こんなこと、言うつもりなんてなかったのに……」


 後悔が押し寄せる。

 あんなに酷い言葉をぶつけてしまったのに、圭はただ優しく微笑んでいた。


「大丈夫。君がどんなに素敵な子かってことは知ってるよ。この世界を心から楽しんでくれて、洵と一緒に遊んでくれて。洵に笑顔を取り戻してくれた。ありがとう」


 まるで、圭自身が心から感謝しているようだった。

 ハチとたくさん話して学習したからだろうか。圭からは、人の温かみを強く感じる。あんな酷い言葉を言った私に、どうしてこんなに優しくできるの?


「あなた……本当にAI?」


 つい、そんな言葉が溢れてしまう。

 圭はくすりと微笑んだ。


「もちろんAIだよ。僕はね、自分の思いが相手に届かない悔しさを知っているから、洵にも君にも、そんな思いをしてほしくないだけなんだ」


 圭の言葉が、胸に響く。

 まるで圭に、これまでの人生があったかのように錯覚する。

 私にはいないはずの弟。詳細なパーソナルデータなんて、ないはずなのに。


「あなたは……誰?」


 問いかけると、圭は少しだけ目を細めて、優しく笑った。


「君の弟だよ、姉さん」


 圭の笑顔が、私の胸に温かく染み込んでくる。

 圭はそっと手を伸ばし、私の頬を流れていた涙を、まるで大切なものを扱うように、指先で拭った。


「僕は信じてるよ」


 真っ直ぐな瞳が、私を見つめる。


「洵はこのくらいのことで君のことを諦めたりしない。だから君も、洵のことを信じてほしい」


   *


 ログアウトしてからも、圭のことを考えていた。

 圭と話していると、不思議な気持ちになる。


 ハチのお父さんにお願いして、せっかく作ってもらった念願の弟だった。けれど、あの頃の私は、圭と遊ぶよりも、ハチと過ごす時間の方が楽しくて、圭とじっくり話した記憶はほとんどない。

 なのに、こうして圭と話していると、どこか昔から知っているような気がする。


 ううん、違う。

 私のことを、知ってもらえているような気がするんだ。

 私は圭のことをほっておいてしまったのに、圭はずっと私のことを見ていてくれたんだろうか。

 圭は、より詳細なデータを組み込んだ窪くんみたいに、人の心に寄り添う受け答えをする。


『君も、洵のことを信じてほしい』


 圭の言葉が、胸の奥に残っている。

 でも、もう何ヶ月もハチから連絡はない。


 プロジェクトの顔合わせの日に、〈MAHORA〉のIDで彼と繋がったけれど、それからずっと、ハチからのメッセージは途絶えたままだ。

 それが――ハチの答え。

 私は、あの日から途切れたままの、メッセージ画面を開く。


『会いたい』


 そう打ち込んでから、慌てて消す。

 もう、いい加減、忘れなきゃ。

 何度もそう、自分に言い聞かせているのに……。


 大きなため息が溢れる。

 このまま部屋に閉じこもっていたら、気持ちがどんどん沈んでしまいそうだ。たまには外の空気を吸った方がいいのかもしれない。


「気分を上げるために、明日パンケーキ食べに行こうかな」


 そう思い立ち、以前、礼美ちゃんと佐奈ちゃんと行ったお店を検索する。


「え……改装中? しかも十二月の末まで……」


 スマホを見つめたまま、ため息をつく。


「……もういいや」


 そう呟いて、ベッドに横になる。

 ハチのこと、圭のこと、パパのこと。

 いろんな思いが頭の中をグルグル巡って、なかなか寝付けなかった。

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