【第十二章】あなたが灯す世界(2)

「あの日、僕が可琳に伝えたかったことを話すよ」


 優しい声が、後ろから降ってくる。

 まるで、暗闇にともる灯りのように。


「君は自分のことを、僕に好きになってもらえるような子じゃないって言ってたけど……好きになるかどうかは、僕が決めることだよね?」

「それは……」


 胸がぎゅっと締め付けられる。

 それは……本当にその通りで。

 でも、私は――


 なんて返していいのかわからなくて、言葉が出ない。

 目の前に小さな段差があるって思った瞬間、ハチがぐっと力を込めると、前輪がふわりと浮いた。私が苦戦してしまう段差を、ハチは軽やかに乗り越える。


「β世界での可琳は、本当の自分じゃないって、君は言うけど」


 私は息を呑む。


「僕が子どもの頃に遊んだ可琳も、今、目の前にいる可琳も――どっちも、僕が会いたかった可琳だよ」


 その言葉を聞いた途端、目の前の景色が、ぼやけて歪んだ。

 瞳から溢れた涙が、イルミネーションの光を散らす。

 きらきらと滲む街の灯りが、どこかになくしてしまった宝物のように、光って見えた。


「僕と無邪気に遊んで笑っていた可琳も――

 ちょっと頑固で、自分に自信がない可琳も――

 厳しい現実の中で懸命に生きる可琳も――」


 ハチの言葉が、静かな夜の街に溶けていく。


「どれも君の一部。全部合わせて、時安可琳だ」


 心臓がうるさいくらいに鳴る。

 ずっと私が、欲しかった言葉だった。


「僕はずっと、君を探していた。会いたかった。君はこの世界にいないと思っていたから、会えたときは本当に嬉しかった」


 涙が止まらない。

 どんなに顔を伏せても、呼吸を整えようとしても、涙が頬を熱く流れていく。

 鼻をすすった瞬間、車椅子が道の端に寄せられた。


 ハチの足音が、私の前まで歩いてきて――

 そして、すぐそばで、優しい声が響く。


「僕は、β世界の可琳も、今、目の前にいる可琳も、大好きだよ。本当はあのとき、そう伝えたかった」


 言い終えると、ハチは、そっと私を抱き寄せた。

 とても驚いたけれど、拒む理由なんてなかった。

 β世界と同じ。

 ううん、それ以上に。

 ハチは、とても温かった。


「もう……僕の前から突然消えたりしないで」


 少し震えた声が、耳元で囁く。

 私は胸がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、必死にハチにしがみついた。


「うん……ごめん……ごめんね、ハチ」


 頷きながら、何度も謝る。

 ハチがそっと体を離して、私をまっすぐに見つめた。

 その瞳は、ただただ、優しくて。

 私は涙を拭いながら、ぎこちなく笑う。


「私も……大好きだよ、ハチ」


 ハチの顔が、弾けるような笑顔に変わった。

 次の瞬間、もう一度、今度は強く抱きしめられる。


「……よかった」


 小さく呟かれたその言葉が、温かくて。

 私もハチの背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。

 二人の体温が、溶け合っていく。


――こんな幸せな日が、あっていいの?

 いつまでも、このままでいたい。


 そう思っていたら、ハチはふっと腕を緩め、照れたように笑うと、再び車椅子を押しながら歩き出した。


「ってことで、ご飯を食べに行こう!」


 こんなに素敵な雰囲気だけど、私は慌てて話を切り出す。


「あのね、ハチ。とっても言いにくいんだけど……パンケーキのお店は……」


 もうすぐお店に着いてしまう。

 せっかくハチが予約してくれたけど、あのお店は車椅子では入れない。

 どうしよう。ちゃんと伝えなきゃ。


 そう思って、勇気を振り絞って話し始めたとき――

 目の前に見えたお店を見て、私は息を呑む。

 そういえばこのお店……十二月末まで改装中……って。


 それをすっかり忘れていた私は、見違えたお店の入口を見て驚く。

 改装後の入口は、段差がなくなり緩やかなスロープがついていた。

 言葉を失っているうちに、ハチは迷いなくそのスロープを上がり、すんなり店内へ。


「いらっしゃいませ」

「予約していた八幡です」


 店員さんが笑顔で案内する。

 私は店内へと進んだ瞬間、さらに驚いた。お店の中も、以前とはまるで違う。


 テーブルとテーブルの間がゆったりとした間隔になっていて、以前よりもずっと落ち着いた雰囲気になっている。目を向けた先には、私たちのために用意されたテーブル。椅子は、一つだけだった。

 ハチが自然な動作で、椅子が無い方の席に車椅子を止めてくれる。


 照明が控えめで、柔らかいオレンジ色の光が店内を包んでいた。

 テーブルの上には、可愛いフラワーアレンジメント。キャンドルの炎が静かにゆらめいて、とても綺麗だ。

 私はまだ、驚きと感動で言葉が出せずにいた。


「鈴木さんたちから、このお店は車椅子では入れないって聞いていたんだ。でね、礼美さんは、ずっとこのお店に改装のお願いをしてたんだって」


 ハチは楽しそうに笑いながら続ける。


「でも、開店したばかりのお店に改装なんて、無理って何度も断られててさ。まあ、当然だよね」


 私は驚きつつ、思わず聞き返す。


「え、じゃあ……どうして?」

「我が社総出で説得したんだよ」

「……我が社?」

「うん。僕、アストラルアークを辞めて、礼美さんがいる会社に転職したんだ」


 私は目を見開いた。

 ハチが礼美ちゃんの会社に――?


「弊社の社長と、この店のオーナーが同級生らしくてね。『屋上にテラス席を作りたい』っていうオーナーの要望を、タダみたいな価格で引き受ける代わりに、改装をオーケーしてもらったんだ」

「えっ……すごい」


 私は思わずふふっと笑ってしまう。


「うん。ランチは若者とファミリー向け、夜は年齢層高めをターゲットにしてメニューを変更。バリアフリーにして、店内もゆったりとした空間にすれば、ベビーカーや足腰が不自由なお年寄りも気軽に立ち寄れる。このお店だけじゃなくてさ、僕たちは、このリアルの世界を〈MAHORA〉に負けないくらい、誰もが住みやすい世界にしたいと思ってるんだ」


 ハチの声が、まっすぐに届く。

 こちらの世界で初めてハチと会った時、彼の大きくなった背中を、ただ眩しく感じていた。

 だけど今――目の前にいるハチは、その時以上に、ずっと輝いて見えた。


「僕はやっと、この世界で、やりたいことを見つけたよ」


 あの頃、漠然と「東京に行きたい」と言っていたハチ。

 そんな彼は今、自分で考え、選びとった道をまっすぐに歩き始めている。


「ハチ……かっこいい」


 ぽつりと溢れた言葉に、ハチの顔が一瞬で赤く染まった。


「なっ……!」


 目を丸くして固まるハチを見て、私は思わずふふっと笑った。

 こういうところは、昔のハチと変わらない。


「私もね、やりたいことが見つかったの」

「えっ」


 ハチが、驚きと喜びが混じった目で私を見つめる。


「私、システム開発部に異動したんだ」

「ええっ!」

「はじめはママに頼まれて、ハチの穴埋めって感じだったんだけど」


 ハチが「あっ」という顔をして、申し訳なさそうに右手を出し、ゴメンってポーズをとる。


「ふふっ。でもそのおかげで、気づけたんだ。私は本気で〈MAHORA〉の開発に関わろうって決めたの」


 ハチの目が真剣にこちらを見つめる。


「私を救ってくれた世界は〈MAHORA〉のβ版だった。あのときの私みたいに、〈MAHORA〉に救われた人は、きっとたくさんいると思うから」


 少し前まで、私は何もできないと思っていた。

 でも――もう違う。

 私も、ハチの隣にいて恥ずかしくない自分でいられるように。

 この世界で、自分ができることをやっていこう。


「それにしても、礼美ちゃんも佐奈ちゃんも、ハチが転職したこと、なんで教えてくれなかったんだろう」

「僕が口止めしてたからね。可琳の前で自信が持てる自分になるまでは、この計画を知られたくなくて」


 ハチは少し照れたように笑う。


「二人にはたくさん協力してもらったんだ。こうして今日、可琳と会えたのも、彼女たちのおかげだよ。ここの改装もうまくいくか不安だったけど……クリスマスに間に合って本当によかった」

「私、てっきり……ハチが会社辞めちゃったの、私のせいかと思ってた。――あと、ハチは佐奈ちゃんと付き合い始めたんだなって」

「え?」


 ハチが驚いて身を乗り出した。


「ごめん、そんなに不安にさせちゃってたのか……」

「あっ! 違うよ、ハチは悪くない。すぐネガティブに考えちゃう、私の悪いクセなの」


 慌てて首を振る私を見て、ハチは困ったように笑う。


「でも、どうして僕が鈴木さんと?」そう言うとハチは、小さな笑みを浮かべて続けた。「鈴木さんとつきあってるのって、田中さんだよ」

「ええ!? そうだったの?」

「あの二人も今日、デートしてるんじゃないかな」


 そう言いながらハチは、窓の外に目をやる。

 その穏やかな横顔を見つめていたら、ふと心の奥に引っかかっていたことが、口をついて出てしまった。


「ハチはさ……」言いかけて、一瞬迷う。でも、どうしても訊かずにはいられなかった。

「β世界の私と似てる佐奈ちゃんのこと、好きになっちゃうんじゃないかなって、思ってた」


 胸がぎゅっと痛む。

 何を言ってるんだろう、私。

 自分で情けなくなって、思わず視線を落とす。

 だけどハチは、くすっと笑うと、私のくだらない不安を優しく受け止める。


「初めて鈴木さんを見たときは、ちょっと驚いたけど……」


 そう言って、ハチは私をまっすぐ見つめる。


「でもそのあと、鈴木さんと話してる可琳の笑顔を見たら、すぐに可琳だってわかったよ」


 私は驚いて顔を上げる。

 ハチの瞳は何の迷いもなく、私を映していた。


「だからあのとき……私に『可琳』って声をかけたの?」

「うん。あのときは、僕のことを知らない可琳だと思ってたから……初対面の印象、最悪になっちゃったと思って、めちゃくちゃ落ち込んだ」


 そう言ってハチは、照れくさそうに笑う。


「たとえ僕のことを知らなくても、またこの世界で僕のことを好きになってもらおうって思った」


 ハチの言葉に、胸が熱くなる。

 容姿が違うからと気にしていたのは、私だけだったんだ。


「私を見つけてくれて、ありがとう。ハチ」


 そう伝えると、ハチはとびきりの笑顔を見せてくれる。


「圭がね……ああ、えっと、β世界の、君の弟の圭。現実の世界で可琳と会えるって言ってくれて、だから僕は希望が持てた」

「圭が?」

「うん」

「圭とは、仲がいいの?」

「なんだかんだ、現実世界での愚痴とか悩みを訊いてもらったよ。β世界のシステムを管理してるって言ってたけど、他のAIたちとは違って、とても話しやすくて。ああそうだ、現実世界で可琳に会えたこと、今度伝えにいかないと」


 ハチは何気なく言ったけど、私はふと違和感を覚えた。

 β世界のシステムを管理しているだけの圭が、どうして私が現実世界にいることを知っていたんだろう? ハチと親しくなっていることも、少し不思議だった。

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