【第七章】歩き出す世界(1)
エレベーターに乗ろうとした時、中に彼がいて驚いた。
同じ会社に入社したことはママから聞いて知っていた。
でも、部署は違うし、私は基本リモート勤務。彼が関わる案件はすべて断ってきた。
だから、彼――ハチと顔を合わせることなんて、もう二度とないと思っていた。
もし会ったとしても、現実世界の私は、彼にとってただの見知らぬ人。そこから何かが始まるはずもない。
「どうぞ」
ハチはエレベーターの開ボタンを押し続け、車椅子の私が乗り込むのを待っていてくれた。
「あ、ありがとうございます」
うまく声が出なかった。
喉が詰まって、心臓が胸を乱暴に叩く音ばかりが耳に響く。ハチと会う心の準備なんて、できていなかったから――
彼が出ていき、扉が閉まるまで、ずっと彼の背中を見つめていた。
最後に見たときよりも、彼の背中はずっと大きく、少し頼もしくなっていた。でも、今の私は、その背中に触れることすらできない。
彼の体温を思い出す。とても温かくて、優しく包まれると安心した。
視界がぼやけ、気づけば涙が頬を濡らしていた。
「ごめんね、ハチ……」
嗚咽を呑み込もうとしても、溢れる想いはどうしようもなかった。
――大好きだよ。本当は、今でも……
でももう、ハチに伝えることはできない。
エレベーターを降り、エントランスを通過する辺りで、ポケットのスマホが震えた。佐奈ちゃんからの電話だ。ついさっきまで一緒にいたのに、どうしたんだろう?
涙の
「あー、可琳? ごめん、IDカード渡すの忘れちゃって! 今から持って行くから、1階で待ってて~」
「うん、わかった」
電話を切り、息を整えた。
泣いていたことがわからないように、表情も整えないと――。
数分もしないうちに、佐奈ちゃんが駆けつけてきた。差し出されたIDカードを受け取ると、すぐにその大きな瞳が私の顔を覗き込んだ。
「可琳? なにかあった? ひどい顔してるけど……一人で帰れる?」
「うん、大丈夫。タクシーで帰るし。ちょっと気分が悪くなっちゃっただけ。もう良くなったから」
「そう……。ご飯、ちゃんと食べてる? 外の空気吸ってる? お日様の光、浴びてる?」
佐奈ちゃんの問いかけがママみたいで、私は思わず笑みが溢れた。
「心配しすぎだよ。ちゃんと食べてるし、今日は久しぶりに外にも出たしね」
すると佐奈ちゃんは「そうだ!」とまんまるな瞳を輝かせ、声を弾ませた。
「めっちゃくちゃ美味しいパンケーキのお店ができたんだよ。絶対可琳が好きなやつー。
「うん、行く。誘ってくれてありがとう」
必死に顔を整えたつもりだったけど、佐奈ちゃんが心配するくらい酷い顔になっていたようだ。こうしてすぐに元気づけてくれる佐奈ちゃんが大好きだ。私はすっかり笑顔になった。
「気をつけてね」
「うん。じゃあまたね」
小さい頃から憧れていた佐奈ちゃん。
同級生の礼美ちゃんの、二つ年上のお姉ちゃん。
綺麗でサラサラな髪の毛と、丸い大きな瞳がとても可愛い。
面倒見のよい佐奈ちゃんは、妹の礼美ちゃんと仲が良かった私とも、よく遊んでくれた。
この恋を引きずるのは終わりにしよう。
ハチみたいに、私も前を向いて生きていかなくちゃ。
そう、自分に言い聞かせながら、車椅子を走らせた。
「可琳!」
突然、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
心臓が跳ねた。幻聴? さっきまで考えていたから?
振り返った先にいたのは――ハチだった。
本物の彼が、私に向かって駆けてくる。
胸がぎゅっと締め付けられて、息が苦しくなる。
どうして……私を可琳と呼ぶの?
彼の足が止まる。
「あの……僕、システム開発部の
彼のまっすぐな視線が私を射抜く。
鼓動が耳元で響くほど早くなる。
視線を逸らし、俯いた。
どういうこと?
今、私のことを可琳って呼んだよね? なのに、名前を訊くなんて、どういう状況? どうして私が可琳だって気付いたの? 現実の私は、こんなに違うのに……。
名前を――教えてもいいの?
頭の中は、処理しきれないデータでいっぱいになり、まるで熱暴走したパソコンみたいに固まってしまう。
「――ごめんなさい!」
感情が込み上げ、衝動に任せてその場から逃げる。
車椅子を操作する手が震える。
もし彼が気付いたのだとしても、これ以上はだめだ。
真実を知ったら――ハチはきっと、私に失望するだろう。
*
交通事故で両足が不自由になったとき、私は日常の全てを奪われたように感じた。
今まで当たり前にできていたことが、何一つできなくなった。歩くことも、自分の部屋の本棚にある本を取ることも、友達と駆け回ることさえも――全部。
仲の良かった
彼女のことは今でも大好きだ。でも、当時は彼女の元気な姿を見るのが辛かった。遊びに誘われても、応じることができない自分が嫌になった。
友達だけじゃない。ママだってそうだ。
もともと仕事で忙しいのに、私の世話までしなくちゃいけなくなって、疲れた顔が増えていった。私はもう、ママを手伝うどころか、負担をかける存在にしかなれなくなったんだ。
あんなに好きだった学校へも――行きたくなくなってしまった。
今まで通っていた学校に戻るためにはいろいろな手続が必要で、ママは一生懸命動いてくれていた。……でも、私はもう、戻りたいと思えなくなっていた。
そんなこともあって、私は転校することになった。
ママの会社の近くにある特別支援学校で、それに伴い、引っ越しも決まった。
礼美ちゃんや佐奈ちゃんと離れるのは寂しかった。
だけど、どこかほっとしている自分もいた。元気だった頃の私を知っている人がいない場所へ行きたかった。
引っ越した先でも、結局私は心を閉ざしたままだった。学校に行く気なんて湧かず、家でぼーっと過ごす毎日。
いつまでも落ち込んでいる私を、ママが外に連れ出してくれた。
久しぶりに見る街の景色は、ほんの少しだけ、楽しいと感じた。
けれど、車椅子での外出は、思った以上に大変だった。
階段もエスカレーターも使えない。エレベーターを見つけても、すぐには乗れないことが多い。入りたかったお店は、階段や段差があったり、狭い通路で諦める。これまで全く気にならなかったほんの小さな段差に拒まれ、その先にある場所は「私が踏み入ることができない世界」になる。
「すみません」
ママは、いつもいろんな人に、そう言って頭を下げる。
私達は、何も悪いことをしていないのに。
お腹が空いて、ママとご飯を食べることになった。
美味しそうなメニューが並んだショーケースに心が踊った。けれど、いざお店に入ろうとしたら――車椅子では入れなかった。
言葉にできない思いを抱え、ショーケースを眺めていたら、ママはすぐに別のお店に連れていってくれた。少し高級な和食のお店だった。
注文を待つ間、私はしょんぼりと俯いていた。
ママは何も言わずに、そっと箸袋を取り出した。そして、手の中で器用に折り曲げていくと、可愛らしいダックスフンドの箸置きが完成した。
「ほら、見て? どうかな?」
「可愛い……」
「でしょ? 可琳も作ってみる?」
「うん!」
それ以来、割り箸が出てくるお店では、ママがいろいろな折り方を教えてくれた。どんな状況でも、ほんの少しの工夫で楽しいことを見つけられる――そう教えてもらった大切な思い出だ。
けれど、現実は優しくない。
私達がご飯を食べるお店を選ぶ基準は、「何が食べたいか」ではなく、「車椅子で入れるか」になっていった。
段差、狭い通路、入口のドア。
どれもほんのわずかな違いなのに、私にだけ超えられない壁に思えた。
外出は、楽しいよりも辛いことの方が多くなった。
できることを探そうとするよりも、できないことばかりが目について、次第に家から出なくなった。
一人きりで家にいると、気持ちが塞ぎ込んでくる。
静まり返った家の中で、私は何度も考えた。
――私なんて、この世界にいないほうがいいんじゃないか。
私は、ママの幸せを邪魔する存在なんだと、本気で思っていた。
そんな気持ちを、うっかりママに漏らしてしまったときのこと。
「あの時、私なんて、死んでしまえばよかったんだ――」
その瞬間のママの顔が、忘れられない。
張り詰めた表情、震える手、瞳から溢れた涙――それは、心の奥で渦巻く痛みそのものだった。
あの頃の私は、どれだけママを傷つけ、困らせていただろう。
ハチの世界のことを知ったのは、そんな時だった。
その日、ママは私の隣に座り、そっと手を握った。
「可琳、もうすぐね、足が不自由でも、どこへだっていける世界になるのよ」
その声はいつになく優しく、そして力強かった。
「ママはね、そんな世界を作るお仕事をしているの。その世界なら、可琳は自分の足で歩けるのよ。だから、元気を出して」
胸の中で、小さな灯りがともるような気がした。
「そんな世界、本当にあるの?」
ママは大きく頷いて、私の目をじっと見つめた。
「あるわ。可琳、歩けるようになったら何がしたい?」
私は小さく息を呑み、想像の中で広がっていく夢を、そっと口にした。
「友達に会いに行きたい。ママと一緒にお料理がしたい。……それから、こないだ車椅子で入れなかったお店にも行きたい。――本当に歩けるようになるの?」
「もちろんよ」
ママは、まるで約束するみたいに、私の手を強く握った。
「ねえ可琳、ママと一緒にその世界を作ってる人がね、可琳に協力してほしいって言ってるの。どうかな? 可琳が手伝ってくれたら、ママもとても助かるわ」
「私が……お手伝い?」
小さな胸が高鳴るのを感じた。
「そう。まだまだ未完成の世界なの。だから、変なところもいっぱいある。その、変なところを見つけて、教えてくれる人が必要なの。――どう?」
やってみたい。――でも。
「その世界では、可琳、歩けるの?」
「歩けるし、走れる!」
ママの笑顔が私の世界を優しく照らす。
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんと!」
その笑顔には一片の嘘もなかった。
胸の奥で閉じていた
「可琳、その世界に行ってみたい! ママのお仕事、手伝いたい!」
もう一度歩けるようになる。
それに、こんな私にも、できることがある――その思いが胸いっぱいに広がり、暖かい光が差し込むようだった。
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