君と創る世界

くみた柑

【第一章】記憶の底にある世界

 あのひと夏の思い出は、あやふやでありながらも、今でも僕の心に、鮮やかな彩りを残している。

 僕の世界は、彼女が創っていた。


 母から、小学校の同窓会のハガキが来たと知らせを受け、僕は久しぶりに彼女のことを思い出した。遠い夏の記憶――蝉の声が耳元で鳴り響き、日差しの匂いが肌にしみついていたあの季節。

 ほんのわずか、彼女と過ごした時間。不思議で説明のつかない体験。


 今となっては、彼女の名前さえも曖昧だ。


 あの頃の僕にはわからなかったが、今になって思う。

 彼女はこの世界のことわりを超えた、特異な存在だった。


 好奇心に満ち、零れ落ちそうな大きな瞳で見つめられると心臓が高鳴り、肩のあたりで揃えられたサラサラの髪の毛からは、爽やかな夏の香りがした。


 友達からは「じゅん」と名前で呼ばれていた僕を、彼女は何の遠慮もなく「ハチ」と呼んだ。名字の「八幡やはた」から勝手に名づけたその呼び方は、最初は犬の名前のようで気に入らなかった。

 でも、彼女の弾むような声が発する「ハチ」という響きに嬉しさを感じるようになるまで、そう時間はかからなかった。


 社会人三年目の僕は、日々を生きることに精一杯で、思い出に浸る時間はほとんどなかった。

 小学校の同級生で仲が良かった友達は数人いたが、今も連絡を取り合っているやつは一人もいない。

 中学を卒業してからは疎遠になり、遠い昔にSNSでつながったまま、僕が東京の大学に通う頃には自然に連絡が途絶えていった。同窓会の話を聞くまで、彼女のこともすっかり忘れていた。


 東京に行けば、新しい出会いと充実した生活が待っていると信じていた。しかし現実は、人混みの中で自分が小さく埋もれるような、孤独を感じる日々だった。


 いつもと同じ時刻に家を出る。

 蝉の声しかしない道をしばし歩けば、徐々に周囲に人が増え、駅に向かう人の波が形成される。

 綺麗に整った隊列が、最寄り駅へと吸い込まれていく様は、まるで働きアリの行列だ。


 駅のホームに立つ人々は皆、無表情でスマートフォンを見つめている。

 その一様な姿は、まるで心を失った群れのように見えた。

 駅員のアナウンスが不自然に整った声で響き、電車が滑り込む。

 山手線という小さな箱にぎゅうぎゅうに押しつぶされながら運ばれ、大量の人とともに僕も吐き出される。


 駅前の歩行者信号が青に変わると、一斉に人々が歩き出す。

 僕の田舎に比べて圧倒的に人は多いけれど、道を行き交う大量の人々の表情はどこか空虚で、この人たち一人ひとりにも人生があるのだと考えるだけで、気が遠くなる。


 家と会社を往復するだけの毎日。

 ルーティンの繰り返しで心躍るようなことは何一つない。

 そんな無彩色の日々の中で、ふとよみがえった彼女との記憶は、ほんのひと時のものだったのに不思議なほど鮮やかだった。

 あの夏の日差しの中で笑っていた彼女の姿は、時間を越えてもなお、美しい色を保っている。


 ポケットの中のスマホが震え、通知を見ると、遠い昔にSNSでつながったままの友人、くぼ裕史ゆうじからのメッセージだった。


『久しぶり! 元気か? 小学校の同窓会のハガキ来てただろ? 洵は行く?』


 なんとなく、その同窓会に彼女が来るような気がした――いや、あるいは、僕自身が僕として見てくれる誰かに会いたくなったのかもしれない。

 窪に「行こうと思う」と返信し、彼女のことを覚えているかといてみようと思ったが、途中まで入力したメッセージは、送ることなく消去した。


 彼女と一緒に体験した不思議な出来事は鮮明に覚えているのに、彼女の名前も、どうやって知り合って、どのように別れたかは、まるで薄い霧の向こう側にあるように感じられる。

 覚えているのは、彼女と遊んだ期間が七月の中頃から夏休みが終わるまでの、ほんの短い期間だったことくらいだ。


 小学五年の夏だった。

 両親が離婚した頃だったので、時期はしっかりと覚えている。

 夏休みが終わってからは、彼女は学校には来ていなかったので、きっと夏の間だけ僕の小学校に来た転校生だったのだと思う。田舎の小学校なので生徒数は少なく、全学年一クラス。僕のクラスは男女合わせて二十三人で、持ち上がり式の同じ顔ぶれだった。


 彼女とのことを思い出せる記憶で一番古いものは、とある日の放課後の教室だ。

 たしか僕は忘れ物か何かを取りに来たのだと思う。ドアを開けると、彼女が一人、窓際に立ち外を眺めていた。


 僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女は振り向き、窓を静かに閉めた。

 ……なんだろう、この違和感。瞬間的に胸に広がるざわめき。その時交わした彼女との会話は思い出せない。ただ一つだけはっきりしていたのは、彼女が閉めた窓の外に見えるはずの山が消えていたことだ。

 まるで、存在そのものが消去されたように、そこにはただ空が広がっていた。


 僕は目をこすった。

 もう一度見ても、山はどこにもなかった。

 彼女は「一緒に帰ろう」と僕の手を取り、僕達は教室を後にした。

 教室を出る間際、もう一度振り返ると、別の窓から見える景色には、いつもの山が、まるで何事もなかったかのように佇んでいた。

 山が消えたように見えたのは僕の見間違いかもしれないと、その時は思った。


 それからというもの、僕の周りでは、いや正確には彼女の周りで、不思議な現象が度々起こるようになった。

 そもそも彼女は、いつの間にか僕のそばに現れた気がするのに、もうずっと前からこの場所にいたような存在でもあって、僕はそんな不可思議な彼女のことがとても気になっていた。


 小学五年生は、特に男子にとって、そうした特別な存在を意識するのが難しい年頃だ。

 特定の女子にばかり声をかけると、すぐに好きなのかとからかわれる。

 だからこそ、僕は放課後まで彼女に話しかけるのを控えるようにしていた。

 彼女は不思議なことに、いつも最後まで教室に残っていた。


 帰り支度をしながら、僕はちらちらと彼女を見ていた。その時、ふと背中に声がかかる。


「ハチ、一緒に帰ろう」


 彼女の声はいつも楽しそうで、僕は名前を呼ばれるたびに、内心、飛び上がるくらい嬉しかった。

 でも、誰かに見られて冷やかされるのが怖くて、できるだけ平静を装った。


 ある日の帰り道、「家までの近道があるの」と彼女は通学路から外れた道に僕を誘った。

 湿気を帯びた風がまとわりつく、梅雨特有の蒸し暑い日だった。


 彼女は公園の裏にある古びたブロック塀の前で立ち止まった。

 その奥には暗い竹林が広がっている。


 塀の真ん中あたりが老朽化でボロボロと崩れ、頭一つ分の穴が開いている。見た目では到底、人が通れるものには思えない。

 塀を乗り越えられないこともないけれど、彼女はスカートを履いているし、こんなボロボロな塀、登って崩れたら危ない。仮に通り抜けて竹林に入ったとしても、方角的に近道にはなりそうもない。


 そんなことを考えていると、彼女はブロック塀の壊れている部分を指差した。


「ここ、今だけ通れるのよ」


 からかわれているのかと思い、困惑した表情を浮かべる僕を見て、彼女は口元に手を当てて楽しげに笑った。そして、彼女は僕の手をとり、


「ほんとよ。ここを通れば、私の家のすぐ近くに出るの」


 と悪戯な笑みを見せ、ブロック塀に向かい歩き出した。


 ぶつかる! と思った瞬間、彼女の体はブロック塀に飲み込まれていく。

 僕の心臓は早鐘のように鳴り出す。ついに彼女は手だけになり、彼女とつないでいた僕の手も、続いてするすると塀の中に入り、全てが暗闇に呑まれた。


 痛みも何も感じなかった。次の瞬間、壁の中に消えたはずの彼女の後ろ姿が見えた。

 気がつくとそこはもう、彼女の家の近くの路地裏だった。地面から湿った土の香りが漂っている。


「今日、うちに遊びに来ない?」


 彼女の声がどこか夢の中のように響き、まだ状況を飲み込めていない僕は、つい「うん」と返事をした。彼女は「よかった」と大きな瞳を輝かせた。


 彼女の家は、築年数の経過を感じさせる二階建ての古い一軒家だった。

 「パパもママもいないから」と言い、彼女はランドセルから鍵を取り出し、玄関のドアを開ける。

 僕が彼女の肩越しに見た玄関の奥には――何もなかった。

 空間そのものが切り取られたような真っ暗な闇が広がっていた。僕は思わず息を呑む。


「あ、ちょっと待ってね!」

 と彼女は急いでドアを閉め、軽い調子で再び開けた。今度は普通の玄関が姿を現した。あまりにも自然な彼女の動作に、僕は何も言えずにただ立ち尽くした。


「さあどうぞ」

 彼女はにこりと笑いながら靴を脱ぎ始めた。まだ口を開けたままになっている僕に「どうしたの?」と首をかしげ笑うと、僕の手を引いて家に招き入れた。

 その笑顔に引き戻されるように、僕は固まっていた肩の力を抜いた。


 次から次へと起こる不思議な現象に、僕の好奇心はむくむくと湧き上がった。

「おじゃまします」と靴を脱ぎ、軽やかに彼女の後を追った。


「はあ~喉乾いちゃった。ハチも麦茶でいい?」

 彼女は台所の冷蔵庫から『何か』を取り出し、『何か』に注ぐ。

 僕は「うん」と返事をしながら、再び口をぽかんと開けてしまった。


 彼女が手に持っているのは、まるで空気の層が揺らめいているかのような、ぼんやりとした物体だった。自分の目を疑って瞬きをしたが、見え方は変わらなかった。

 彼女の言葉から推測すると、そのモヤモヤは麦茶ポットか何かで、恐らく二つのコップに注いでいるのだろう。彼女はモヤモヤを持ち上げ、ごくごくと美味しそうに飲んでいる。


「ハチもどうぞ」


 彼女がモヤモヤを僕に差し出した。


「えっと……これは、麦茶?」


「そうだよ。ハチ、麦茶嫌い?」


「いや、そうじゃなくて、なんだかよく見えないから……」


「そうなんだ。ちょっと待って」


 彼女は僕の言葉に疑問すら持たず、再び冷蔵庫を開け、今度ははっきりと見えるブリックパックのりんごジュースを取り出した。


「これはどう?」


「りんごジュースだ」


「飲める?」


「うん」


 彼女は僕の手にりんごジュースを持たせた。のどが渇いていたので、僕はストローを刺し、ごくごくと飲んだ。冷たくて美味しかった。


「私の部屋で、ゲームして遊ぼう」


 モヤモヤとしたものを冷蔵庫にしまうと、彼女は二階にある彼女の部屋に誘う。僕は心臓の鼓動が早まるのを感じながらついていく。

 狭くて急な階段を登る彼女は途中で振り向き「こういう急な階段って、わくわくするよね。秘密基地みたい」と笑った。


 跳ねるように階段を駆け上がる彼女を見ながら、「そうだね」と相づちを打つ。

 階段を登りきった廊下の先にある一部屋に入る。

 奥にはベッドと勉強机、そして部屋の真ん中に小さなテーブルが置かれている。ごくごく普通の部屋。

 けれど、その部屋の隅にいる『それ』が、全てを非現実的に見せていた。


「そこに座って。ゲーム機はないんだけど、トランプでいい?」


 彼女が机の引き出しからトランプを取り出している間、僕は視線を部屋の隅から離せなかった。


「ねぇ、あれ、何?」


 僕が指差すと「ああ、弟」と、彼女はさらりと答えた。


 彼女が弟と言った『それ』に表情はなく、じっと体育座りをしていた。まるで精巧に作られたマネキンのようで、命が宿っているようには見えない。

 例えるならば、写真で切り取られたような、一時停止を押した映像のような。

 僕は幽霊かと思い、背筋がじわりと冷たくなった。


「今は動かないから気にしなくて大丈夫だよ。で、何しよっか。二人だとできるゲーム限られちゃうね。私、神経衰弱が得意なんだけど」


 彼女は『弟』を気にする様子もなく、慣れた手つきでトランプを切りはじめた。

「神経衰弱でいいよ」と僕は応えた。特に目が合うわけでもない、動き出すわけでもない、そこにオブジェクトのように存在している『弟』のことは、彼女と遊んでいるうちに気にならなくなった。


 得意と言っていたように、彼女は本当に神経衰弱が強かった。初めはお互い同じような枚数を取っていたが、途中から急に彼女の独壇場となる。三度やって、三度とも圧倒的な差で負けた。

「すごいね、本当に強いんだね」と言うと、彼女は得意げに笑った。


「記憶力はいいんだ~」その無邪気な笑顔がとても誇らしげで、僕はくすっと笑ってしまう。彼女と遊んでいるととても楽しくて、僕は負けたのにあまり悔しくはなかった。

 その後に遊んだオセロも強くて勝つことができず、最後にやった人生ゲームで、やっと僕は彼女に勝利した。


 気持ちよく勝ったところでふと窓を見ると、外が真っ暗になっていた。


「いけない! 僕、もう帰らないと」


 慌ててランドセルを背負い、出口へ向かう僕に、彼女が立ち上がった。


「じゃあそこまで送るよ」


「大丈夫だよ。女の子に送ってもらうのって、なんか変じゃない?」


 彼女の家に来たのは初めてだったけど、ここから自宅までの道のりはわかるし、笑いながらそう返したけれど、再び視界に入った『弟』や、急に真っ暗になった外に少し不安を感じた。

 そんな僕の不安を感じ取ったのか、彼女が「でも、道に迷うかもしれないし。送るよ」と優しく言ってくれたので、僕は結局「やっぱり、送ってもらおうかな」と答えた。

 彼女がそっと頷くのを見て、僕は安心した。

 

 彼女が玄関を開けると、まだ太陽の日差しが家々や通りを明るく照らしていた。さっきまで部屋で感じていた不思議な暗さが嘘のように、外の景色は穏やかで明るかった。僕は首を傾げる。


「今って何時頃だろう?」

 僕が呟くと、彼女は

「五時十分くらいだよ」

 とすぐに答えた。僕は、教室で見た窓の向こうの山が消えていた光景を思い出す。

 そうか、彼女の部屋の窓から見た景色も、どこか普段と違っていたのかもしれないと、自然にそう考えた。今の僕にとっては、そんなことはもう些細なことに思えた。


「ねぇ、ハチって、将来の夢とかあるの?」


 歩き出してしばらくして、彼女が不意に問いかけてきた。突然の質問に僕は一瞬戸惑った。特別な夢はなかった。やりたいこともない。ただ――


「大人になったら東京に行ってみたいかな。こことは違って、東京には何でもあるし、何にでもなれそうな気がする」


 夢や希望というよりは、ただ漠然とした憧れ。

 どこかで見聞きした、東京の大学を出て、東京で就職すれば、一人前の大人になれるような気がした。


「ふーん、ハチは東京に行きたいのね。私も行けるかなぁ」


「行けるよ! 大人になれば、きっとどこへだって行けるよ」


 僕は彼女に向かって、自信を持って言った。言いながら、心の中で自分に言い聞かせている部分もあった。


「そうよね。どこへだって行ける!」彼女はそう言うと、手足を大きく振り上げて、大げさに歩き出した。笑いながら追いかける僕の耳に、彼女の明るい笑い声が響いた。


「じゃあ私も一緒に行こうかな、東京」


「うん! 行こう、東京!」


 僕らは笑い合いながら、ゆっくりと帰り道を進んでいった。

 僕らの足音は、まるで未来へ向かって進む小さな鼓動のように感じられた。


 東京に憧れていた頃の自分は、そこで何か特別なものが見つかると思っていた。

 東京という街は、無数の人々が行き交い、可能性と刺激に満ちている。

 しかし、実際にその中に飛び込んでみると、僕はその波にのまれ、自分の存在がかき消されてしまったように感じた。

 誰の目にも留まらず、ただその場にいるだけ。透明人間のような毎日。人との関係もうまく作れない。

 日々がただ過ぎ去り、心の奥底にある空虚さがどんどん広がっていった。


 そんなとき、記憶の片隅に彼女との夏の日々が甦る。

 彼女の笑顔、彼女と過ごした時間、奇妙で楽しい体験の数々。

 彼女と一緒にいるときだけは、自分が本当に生きているような気がした。

 心が躍り、何もかもが鮮やかに見えた。


 初めて彼女の家に招かれた日。あの時の僕は、小さな驚きと好奇心で胸をいっぱいにし、彼女の言葉に夢中だった。


「また、遊びに来てもいい?」


 その言葉が、自然に僕の口をついて出たのは、自分でも不思議だった。

 彼女の答えは間髪入れず、はじけるような笑顔と共に返ってきた。


「いつでもおいで!」


 彼女のその一言は、僕の心に光を射し込んだ。胸が高鳴り、喜びが思わず声になって溢れた。


「やった!」


 彼女はそんな僕を見て、口元に手を当て、くすくすと笑った。無邪気で温かい笑い声が、僕の心の中にあるわだかまりを、すべて溶かしてくれるようだった。


 その日から、毎日のように、放課後彼女の家に遊びに行くようになった。


 梅雨が明け、太陽が照りつける中、蝉の声が街中に響きわたった。

 終業式の日、僕は成績表を手にしながら、彼女と会えなくなる寂しさで胸が締め付けられるようだった。そんな僕の不安を払拭するように、


「ハチ、夏休みも遊ぼうね!」


 と彼女は笑顔で言った。彼女の明るい声とその笑顔に、僕の心は一気に跳ね上がった。

 こうして、僕と彼女の、特別な夏が始まった。

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