【第二章】彼女だけがいない世界(1)

 実家に帰ってくるのはお正月以来だった。

 だいたい会社が長期休みの時は帰省する。同窓会がなくても、お盆休みにはもともと帰省するつもりでいた。


 母はひとり暮らしなので、僕が帰ってくるのを楽しみにしているようだ。僕も、実家でのんびりと過ごす休みは嫌いじゃない。

 ただいま、と玄関を開けると、懐かしい家の匂いがした。

 母が変わらぬ笑顔で出迎えてくれた。手土産のクッキーを渡すと、母は喜んでそれをテーブルに置いた。エアコンの冷気が肌に心地よく、暑さで火照った体がじわじわと冷やされる。


 ひとり暮らしといっても、母は母なりに子育てを終えた第二の人生を楽しんでいるようだ。

 リビングにはフラダンス仲間との写真が飾ってあり、カラフルな衣装をまとった母が笑顔で写っている。

 小物入れやソファーのカバーなど、至るところにあるパッチワークは母が作ったものだ。


「今日は夜に、同窓会があるのよね。確か、小学校の時の」


 母がクッキーをつまみながら訊いてくる。


「うん、そうだよ」


 彼女のことを母に訊いてみたい衝動に駆られたが、胸の中で何かが引っかかり言葉を呑み込んだ。

 両親の離婚話が出ていたのがこの頃で、当時のことを思い出すたび、彼女との楽しい日々の裏で、あまりにも苦かった記憶が甦る。


 ある時から、父も母も顔を合わせれば口論が絶えなくなり、家の空気は重苦しく張り詰めていた。

 母の目には疲れがにじみ、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。

 大好きだった家は、知らぬ間に胸を押しつぶすような息苦しい場所へと変わっていた。

 父が突然この家を出ていき、諸々片付いたあとは、ようやく母に昔の笑顔が戻ったが、家の中にはどこか欠けたような空気が漂っていた。


 僕の記憶に鮮やかに残っているのは彼女と過ごした楽しい日々だけで、その陰にあった、怒声や物が壊れる音、恐ろしい両親の顔は、脳の奥にこびりついてはいるものの、ひどくぼんやりとしている。

 蓋をした記憶。

 開けることのない箱の中でも、母の存在は僕にとって「安心」を与えてくれていた。

 母もこの頃のことはあまり僕に思い出してほしくないのだろう。お互いにこの時期の話はしたことがない。


 母も、父のように、いつか僕を捨ててこの家から出ていってしまうのではないか――そんな不安は今でも胸の奥にひそんでいる。

 帰省するたびに母がまだこの家にいて、笑顔で迎えてくれることに、安堵を覚える自分がいる。

「この歳になっても」と心の中で苦笑する。

 独り立ちして立派な大人になったつもりでいるけれど、母の存在はまだ僕にとって、離れることができない心の支えとなっている。


「洵!」


 突然、父が必死に叫ぶ声が頭の中で反響した。

 僕はその声に驚き、記憶の奥底を探り始める。

 けれど、それがいつの出来事だったか、どうしても思い出せない。

 母が泣く声、湿った土の感触、重たく動かない自分の体。

 そして両親の他にも覗き込む、たくさんの大人の顔。

 救急車のサイレンが遠くで響いている。

 何か物々しい雰囲気なのに、僕の心はとても穏やかだった。


 僕は何かに突き動かされるように立ち上がった。


「どうしたの?」母が心配そうに小首を傾げながらく。


「あ、うん、ちょっと買い物に行ってくる」


 そう言い残すと僕はすぐに家を出た。せっかく涼んだ体が、外に出たとたん一気に熱せられる。

 草の匂いが鼻を刺し、蝉の鳴き声が一層強く耳に響く。

 吹き出す汗を手の甲でぬぐいながら走り、見覚えのある一角に辿り着いた。両隣の家は昔と変わらない。しかし、そこにあるべき彼女の家だけが、空き地になっていた。


 ここに今でも彼女の家があれば、僕は彼女の名前も、あの夏の日の真実も思い出せたかもしれないのに。

 次に僕は記憶をたどり、彼女の家への近道となったブロック塀がある公園に足を向けた。公園はまだそこに存在し、崩れかけたブロック塀も、さらにひび割れが増えながら、当時のままそこに立っていた。


 僕は、そのブロック塀にそっと手を当てた。まるで、失われた時間に触れるように。

 ざらりとした手触りが指先に伝わり、昼下がりの熱を吸い込んだ塀はじんわりと温かい。

 僕は何箇所かを触ったり軽く叩いたりしてみたけれど、それはどこにでもある、ただの古びた塀に過ぎなかった。


「通り抜けられるわけ、ないよな」


 僕はそう呟いた。

 今だけ通れるのよ――彼女の声が記憶の中で響く。

 今はその時ではないだけかもしれない、と一瞬思いかけて、ふいに自分が可笑しくなって笑い出した。こんなことを考える方が間違っている。この塀を通り抜けられるなんて、まるでゲームで起きるバグのような話だ。


 塀に触れるたび、そのリアルな感触が、彼女との不可思議な思い出をあやふやにしていく。彼女の家がない今、彼女の存在を確かめる術はどこにも残されていない。


 僕は夢を見ていたのだろうか。

 もし夢なら、なぜこんなにも鮮明に彼女を覚えているのだろう。


 思い出をなぞるように、僕は歩く。

 彼女の家で遊ぶこともあったけれど、外でもたくさん遊んだ。

 そういえば、川遊びもしたっけ。彼女が持ってきた釣り竿で釣りをしたとき、予想外に大量の魚が釣れて、二人で夢中になって笑ったことを思い出す。


 彼女と釣りをした川沿いを歩いているうちに、この場所から二人で花火を見たことを思い出した。

 とても見事な花火で、今でも目を瞑ればあの鮮やかな夜が浮かんでくる。


 神社の夏祭りでは、ヨーヨーすくいをした。彼女が上手に取った青いヨーヨーを眺めながら、「どうしてそんなに上手なの?」と僕が訊くと、羨ましく思った僕の気持ちが伝わったのか、あげる、と笑顔でヨーヨーをくれた。

 射的では、彼女が狙ったものを次々と倒して、得意げに笑っていた。

 分け合った綿あめの甘さ、終始楽しそうに笑う彼女の笑顔、今でも覚えている。

 夏らしいイベントは、一通り彼女と経験していることに気づく。

 彼女はいつも元気で、飛び跳ねるようにはしゃいでいた。


――そういえば、不思議な森で遊んだことがあったはずだ。


 記憶の中にあるその森は、現実のどの場所とも違う雰囲気をまとっていた。

 木々の間から射す淡い光、どこか異国めいた草花。珍しい昆虫。

 窪たちと時々遊んだ森を訪れてみたが、そこは彼女と行った森とは全く違った。

 記憶の中の不思議な森の気配はどこにもない。あの森はどこにあったのだろう。

 妙に心に残っているのに、場所だけがどうしても思い出せない。


 現実の地図からこぼれ落ちたように、その森の景色は、記憶の中でぼんやりと揺れ、思い出そうとするほど輪郭がぼやけていき、結局僕はその森にたどり着くことはできなかった。


   *


 家に戻り、シャワーを浴びて汗を流してから、同窓会の会場へ向かった。

 会場といっても、実家から歩いて二十分ほどの距離にある居酒屋だ。『本日貸し切り』の札がかかった扉を開けると、中から賑やかな話し声が漏れてきた。懐かしい笑い声やざわめきが混ざり合い、同窓会独特の温かい空気が漂っている。


「お!  来た来た!  洵ー、こっち!」


 大きな声で手を振っていたのは窪裕史だった。体型は少しふくよかになっていたが、笑った顔は昔のままだった。


「窪、久しぶり」僕も手を上げて彼の近くに行き、ハイタッチを交わす。見た目はお互い変わったのに、話せばすぐに、子どもの頃の懐かしい空気が流れる。


「やっぱり東京に行くと、シャレオツになるな!」と窪はおどけるように笑った。


「は?  僕は全然オシャレじゃないよ。この服だって近所の量販店のものだし」


「いやいや、量販店でもセンスが違うんだよ、東京もんは!」と再び笑った。


「窪は少し……」とお腹の辺りに視線をやると、


「おいおい、みなまで言うなよ」と、ぽんぽんとお腹を叩いて笑った。

「ラーメンばっかり食べてりゃ、まあこうなるってもんだ」


 窪の家は夫婦でラーメン屋を経営していて、彼はその店を継ぐことにしたらしい。最近のメッセージのやり取りで知ってはいたが、こうして窪と話していると、仲の良い彼の家族を思い出し、どこか温かい気持ちになる。


 軽く店内を見回すと、席はほとんど埋まっていた。

 久しぶりの再会に盛り上がるグループがいくつもできていて、笑い声が絶え間なく響いている。髪型や体型が変わった人も多いけれど、不思議と誰が誰だかわかる。それがなんだか面白くて、懐かしさが胸にじんわりと広がる。


 ふいに、店の扉がガラガラと音を立てて開いた。


「あ! 竹田先生!」


 その声を合図に、店内が一気に賑やかになった。


「うわー、竹田先生だ!」「懐かしい!」「きゃー変わってなーい」


 次々に歓声が上がる。

 竹田先生は、少し照れたように微笑みながら、店の入り口で手を振っていた。

 白髪こそ増えたものの、怒ると怖いが普段は優しくて面倒見が良い、あの頃の温厚なおばちゃん先生の姿はそのままだった。四、五、六年の三年間、僕達の担任として見守ってくれた、あの懐かしい日々を思い出す。


「わー、みんな変わらないね!  元気そうで安心した!」


 竹田先生の言葉に女子たちがいっせいに近づき、賑やかに話しかけ始める。

 次々に声が飛び交い、竹田先生はあっという間に、女子グループの真ん中に座らされていた。あの頃の教室が、そのままここに戻ってきたかのようだった。


「やっぱり先生は俺らほど変化ないなー」と、隣で窪が言う。


 僕は頷く。子供の頃からの十数年と大人のそれでは、まるで時の流れ方が違うみたいだ。


「それじゃあ、そろそろみんな揃ったみたいなので、神深山かみやま小学校同窓会を始めます!」


 幹事の山根が声を張り上げ、両手を広げる。その仕草にみんなが拍手で応じ、店内が一層賑やかになった。ジョッキが次々に掲げられ、「乾杯!」の声が響き渡る。


 ビールをぐいっと飲み隣の窪に声をかける。

「今日って、全員来てるの?」


「いや、確か二人欠席、一人遅刻、だったかな。全員じゃないよ」

 と枝豆をもぐもぐしながら窪が答える。


 僕は周りを見回しながら、記憶の中のクラスメイトと今のメンバーをひとりずつ照らし合わせていく。

 女子は化粧をして雰囲気が変わった人も多いが、声や笑い方で不思議と誰だかわかるものだ。

 もしかしたら今日、彼女が来ているかもしれない、とほんの少しの期待をしたが、女子は全て、顔と名前が一致した。でも、もしかしたらその欠席と遅刻の中に、彼女がいるのかもしれない――

 諦めが悪い自分に、内心苦笑いした。


 記憶を辿ってみれば、欠席者と遅刻者三人の顔と名前はすぐに思い浮かんだ。彼女ではない。やはり、この同窓会に彼女は呼ばれていないのだ。

 小学五年の、ほんのひと夏。僕らと過ごした年月が短すぎる。

 それに、あの夏の記憶がどれだけみんなの中に残っているかもわからない。もし声をかけていたとしても、彼女が来る可能性はきっと低かっただろう。

 それでも、彼女がここにいない現実を目の当たりにして、胸の中に小さな波紋が広がっていくのを感じた。


「なぁ、窪」


「ん?」


「五年の夏頃に転校してきた女の子のこと、覚えてる?」


「五年の夏ー?」


 窪は眉をしかめながらビールを飲む。


「いや、五年の時は誰も転校してきてないと思うけどなぁ。たしか三年の時だったか、木下が転校してきたくらいで」


「ああ、木下は僕も覚えてる。他に転校生っていなかったっけ?」


「記憶にないなぁ。あ、五年の夏といえば、あれだ、お前が大変だったやつ!」


「え?」僕は思わずドキリとする。


「ほら、お前が行方不明になって、森で発見されて……あの時はみんな大騒ぎだったぞ。なぁ、山本?」


 窪が興奮気味に語ると、隣にいた山本も頷きながら話に加わった。


「そうそう。え、洵、あんな大きな事件、覚えてないの?」


――森で? 行方不明?


 胸の奥がざわついた。

 思い出したくない何かに触れているような、そんな感覚。


 そのとき、頭の奥にしまい込まれていた記憶が一気に溢れ出した。

 泣き崩れる母の姿が、視界の端で揺れている。必死に僕の名を呼ぶ父の声が耳に響く。

 湿った土と草のざらついた感触が、背中越しにじわりと伝わってきた。

 それが現実なのか夢なのかさえわからない。


 母の涙が僕の頬に落ちた瞬間、その温かさが胸を締めつけた。なのに、なぜか僕はただじっと横たわることしかできなかった。

 僕の顔を覗き込む何人もの大人の顔は、どれも焦点が合わず、ぼやけて歪んで見える。

 光がチラついているのか、それとも意識が混濁しているせいなのか。そんな曖昧な視界の中で、不安が胸を締めつけた。

 僕は山で何をしていた? 誰と一緒にいた?


『ハチ! 今日は森に遊びに行こう!』


 耳の奥で鮮やかに響く声が、記憶の中の僕を誘う。

 あの時の彼女の笑顔が、記憶の暗闇から急に浮かび上がる。

 胸がざわつき、喉の奥が詰まるように苦しくなる。

 なぜその声が、今ここで甦るんだ――?


「どうした? 洵。大丈夫か?」


 心配した窪が僕の肩を揺さぶる。おかげで僕は記憶の迷路から戻ってくることができた。


「ああ、うん……あの時のことはよく覚えていないんだ」


「そうか。俺もはっきりとは覚えてないけど、母ちゃんや大人たちがすっごく慌てててさ、なんかただごとじゃない雰囲気だったんだよな」


 窪はそう言うと、少し申し訳なさそうにビールを飲んだ。


「ああ……」

 僕は頷きながら、ぼんやりとした記憶を掘り起こそうとする。


「そういや夏休み明け、洵にそのことを訊いても覚えてなかったもんな。あのあと、妙に塞ぎ込んじゃってさ、しばらく元気なかったよな」


 そうだ。急に彼女がいなくなってしまって、しばらく何も手につかなかったのは覚えている。

 でも……なんだろう、この違和感。僕が塞ぎ込んでいた理由は、それだけじゃなかった気がする。

 そうだ、みんなの言葉も、何もかもが信じられなくなって、僕はしばらく混乱していた……


「僕と一緒に、他にも森に入った人はいたのかな」


「いや、洵だけだったと思うよ」


――彼女は一緒じゃなかったのか?


 あの時のことを思い出そうとすると、彼女の声が響く。


『ハチ! 今日は森に遊びに行こう!』


 あの日の彼女の弾けるような笑顔に、僕は何の疑問も抱かなかった。

 その笑顔を信じて、僕は彼女と森へ遊びに行った。


――僕はあの森で、何を見て、何を失ったんだろう……

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