女の正体

 紀友則きのとものり肌足はだしが進んで行く先にある、とざした門の外には、牛を外して、ながえしじに置いた牛車ぎっしゃが停まっている。


 むらさきの糸毛いとげの牛車。

 内に居るのは、


――名が、分からない。

――姿が、見えない。




牛車ぎっしゃ

 牛が引く乗り物


轅(ながえ)

 牛車ぎっしゃの牛に掛ける、前方に突き出した二本の棒


榻(しじ)

 牛車の乗車用の踏み台

 牛車から牛を外した時に、ながえを置くこともある



糸毛(いとげ)の牛車(ぎっしゃ)

 色糸いろいとで覆って、模様もようを付けた牛車。

 色は、乗車する者の身分によって、決められている。

 紫は、身分が中位から下位の帝のきさき女御にょうご更衣こうい女御代にょうごだい(帝が幼少で、后がいない時に、儀式で后の代理を務める女性)、帝に仕える上級の女官にょかん典侍ないしのすけ尚侍ないしのかみが乗った。




 門の前に着くと、女の声が牛車の内から、牛飼童うしかいわらわには、牛を外して、川で水でも飲ませて来るようにと、四人の車副くるまぞいにも、離れて休んでいるようにと、言った。


 牛車の内に居るのは、女だけなのか。――分からない。




牛飼童(うしかいわらわ)

 牛を操る人

「童(わらわ)」と呼ばれるが、成人男子も多い。


車副い(くるまぞい)

 牛車に付き添う従者たち




いだっ」

 とざした門の戸の内側で、ごつっと当たる音と、叫び声が聞こえた。


「ほ」

 牛車の内で、女の声が笑う。

「止まりなさい、紀友則」


 戸に、頭が当たっても、進み続ける友則の肌足はだしが止まった。


 友則は崩折くずおれて、座り込み、両手で、両耳をふさぐ。

耳疾みみときばかりにっ」

「我が名を呼ぶな」

 女の声が言った。


 友則の後ろに付いて来ただけの望行と貫之は、女の声を聞いて、正身そうじみに気付き、名を呼ぼうとしたのに、口をとざされた。




吾(あ)

 ぼく


耳疾し(みみとし)

 耳が良い


正身(そうじみ)

 正体




 友則の耳が、人よりも遥か遠くの音を聞き分けることを知っていて、女はことを聞かせて、呼び寄せたのだ。



「泣く子を慰めに来たのだよ」

「泣いてなどいないぞっ」

 女の笑む声に言われて、友則は耳をふさいだまま、言い返し、座り込んだまま、肌足はだしの裏で、戸を蹴る。



 紀望行きのもちゆき紀貫之きのつらゆきは、とざした門の戸に向かって、土の上に膝を着き、頭を下げた。

「このようなことになり、誠に申し訳ありません」

 望行が謝った。


「全ては、私の過ちだ」

 断言する女の声に、友則も、望行も貫之も、顔を上げた。

「今日は、謝りに来たのだ」


 友則がみ声をとよませる。

を笑わせるために、たわぶごとを。」

 誰にも作り笑いと分かる笑み声だ。




戯れ言(たわぶれごと)

 冗談




「あの、私は宮中うちで、鬼を静めることをためらったのだ」

 女の声が言う。



 応天門おうてんもんで、火を吐く鬼を静めようとした紀豊城きのとよきが捕えられ、その場にいなかった紀夏井きのなついまでも流罪るざいになった。

 宮中うちで、鬼を静めるために詠んだ歌を、紀氏の呪詛じゅそだと、藤原氏に責められることを、女は恐れたのだ。



「歌を思いつかなかっただけなのではないですか~」

 友則があざける。



空蝉うつせみ

世の人ごとの しげければ

忘れぬものの かれぬべらなり」

 女の声が歌を詠んだ。



 世の中の人たちの噂がうるさいので

 あなたを忘れたわけではなくて

 会いに行けなくなっているだけです




空蝉(うつせみ)

 セミの抜け殻のように中身がない


現身(うつせみ)

 この世にある、この身


しげき(しげき・しげき)

 草がしげるように、噂がうるさい


かれぬ(れぬ・れぬ)

 草が枯れるように、想いが冷めて、離れる




 あれこれと、ことばを重ねて、意味を重ねて、歌を詠む。

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実は私、紀貫之の妹なんです。 山鹿るり @yamaga-ruri

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