実は私、紀貫之の妹なんです。

山鹿るり

女の声

紀友則きのとものり、こちらにおいでなさい」

 突然、聞こえて来たかすかな女の声に、紀友則きのとものりの、簀の子すのこに立ったあか下袴したばかま肌足はだしが歩み出す。



「外には出ないように」

 御簾みすを上げた家のうちに居る紀望行きのもちゆきは慌てて、友則に言う。

 文机ふづくえ書物ふみを置いて読んでいた紀貫之きのつらゆきは、心配そうに、歩いて行く友則を見ている。



 先ほど、牛車ぎっしゃ車輪くるまきしる音が、この家のそばで止まった。

 せみの声のに、それを聞きつけた友則は、家の内から簀の子すのこに出た。


 友則が、牛車を見に行こうと、ふらふらと、階段きざはしを下りて行くように、貫之の目にも、望行の目にも、見えているのだろう。



簀の子(すのこ)

 建物の屋根下の外廊下


御簾(みす)

 外に面した所に下ろした簾(すだれ)


牛車(ぎっしゃ)

 牛が引く乗り物




 友則は、恥も知らず、こうぶりかぶっていない、もとどりも結わないで、肩を過ぎるほどの黒髪を下ろしている。


 生絹すずし単衣ひとえに、あか下袴したばかま


 外に出られる格好さまではない。

 ちいさやかな身と、いとけな顔様かおざまで、わらわと思われて、見た者は気にもしないかもしれないが。




冠(こうぶり)

 帽子

 平安時代、男性が頭をあらわにすることは、恥ずべきことだった。


髻(もとどり)

 まげのこと

 平安時代、男性が髪を下ろしたままでいることもない。


生絹(すずし)

 薄くて軽い絹


単衣(ひとえ)

下袴(したばかま)

 どちらも、下着


童(わらわ)

 子ども




 友則は階段きざはしを下り、沓脱くつぬぎにあるかのくつも履かず、肌足のままで、前庭せんざいを歩いて行く。


 桔梗ききょうの花や、ふくらむ蕾に、単衣ひとえの袖がかすめて、揺れる。




沓脱ぎ(くつぬぎ)

 靴を置き、脱ぎ履きする場所


靴(かのくつ)

 黒い革製で、留め金の付いた靴




めてっ、叔父君おじぎみっ」

 声を上げる友則の肌足はだしは、女の声に呼ばれた方へと、勝手に進み続ける。


 友則は、自身であらがおうとしていたが、抗えなかったのだ。




吾(あ)

 ぼく




 ようやく、紀望行きのもちゆきも、紀貫之きのつらゆきも、紀友則の様子がおかしいことに気付いて、立ち上がり、簀の子すのこへ出た。



 望行も、貫之も、冠に縄纓なわえいを着け、無紋むもん青鈍あおにび直衣のうし指貫さしぬきを着ている。




縄纓(なわえい)

 かんむり(帽子)の後ろに結んだ麻縄

 喪の装束


青鈍(あおにび)

 青みのある薄墨色

 喪の装束


直衣(のうし)

 普段着


指貫(さしぬき)

 袴(はかま)。

 すそに、くくひもが付いている




「止まってください」

 貫之が、父・望行に目配めくばせでうながされて、言った。


 貫之のことに、友則の肌足はだしは止まった。


「おいでなさい」

 しかし、すぐさまかすかな女の声が言って、友則の肌足が歩み出す。



「止まりなさい」

 望行のことに、友則の肌足はだしは止まった。


「おいでなさい」

 また、すぐさま幽かな女の声が言って、友則の肌足が歩み出す。



 幽かな女の声が聞こえていない貫之も、望行も、友則の肌足を動かしている言の葉のざえが、自身よりまさっているように思っているだろう。




才(ざえ)

 異能

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