波乱のきっかけ(☆)
石垣の一部の修理、雨期に入る前の川の洪水対策などについて、一刻ほど話し合い、一同解散。各自それぞれ、武芸の鍛錬や勉学、または畑仕事など行う。
伊織は本日、宣教師から手に入れた経典を元に南蛮語を学ぶ予定だ。
都に近い交易都市の大商人と紫月の間に交流があり、今はその者の通訳を介して南蛮人から武器、菓子などの嗜好品を買い入れているが、いずれは自分が直に交渉できるようにしたい。また、宗教を読み解くことで国や人々の思想の学びにも繋がっていく。
ありがたいことに、近頃は国境沿いで小競り合いはあっても、現時点で大きな戦は起こりそうにない。学ぶなら今がいい機会だと、この二、三カ月前から自邸でも眠る直前まで南蛮語を勉強している。
早速、
「伊織。話がある。少し残れ」
紫月に呼び止められ、浮かせかけた腰を再び下ろす。
空気を呼んだ他の家臣たちは速やかに表座敷から去っていく。
紫月は控えていた侍女に膳を下げさせると、人払いを命じた。
自分に近い席への移動を手振りで示す紫月に従い、伊織はその席へと移る。
「如何なされましたか」
「うむ……、実はな」
紫月は珍しく口籠り、俯いた拍子に肩から胸へ流れた髪をさらり、払いのける。
数え三十一の齢を迎えても尚、憂い顔さえ溜息が漏れるほどの美しさ。しばし時を忘れ、見惚れそうになる。伊織ではなく、他の者であればの話だが。
「
朱華姫とは、三年前に滅ぼした南条家の末姫にして、一族唯一の生存者である。
「『尾形家へ投降する代わりに庇護して欲しい』との求めも女子ゆえ受け入れた。だが、女子だからとて油断はできぬ。尼寺での隠居生活を条件に承諾した、つもりだった……」
「何か問題が?監視役も付けていたのでは?」
紫月は脇息に凭れかかり、頬杖をつく。
行儀の悪い格好でさえ様になるが、その表情はとてつもなく渋い。
「よりによって、その監視役が虚偽の報告や事実の隠蔽を行っていたのだ!」
珍しく声を荒げ、今にも舌打ちしそうな紫月の苛立ちぶり。
伊織も予想外の話の展開に、驚きを隠せない。
「出家した筈の姫は二年も前に勝手に還俗していた。還俗自体はまあ良い。問題は、還俗の資金を化粧料ではなく、監視役の私財を使用したこと」
「何とまあ……。なぜ、そのようなことに」
「当人曰く、姫と恋仲になり、職務外でも逢瀬を重ね続け、いずれは妻に迎えたかったからだそうだ。」
「何とまあ……、あの者は実直で真面目一辺倒の男だと思っておりましたが……。否、生真面目さの反動で一度女子を知った途端のめり込み、箍が外れることもありますからのう」
「これは人選を見誤った私の落ち度でもある。己が情けない」
紫月は脇息に突っ伏し、小さく呻いた。
「紫月様の責任ではございません。易々と女子に手玉に取られる方が悪い。相手は降伏したとはいえ、南条家の姫。必ず裏があると警戒せねばならぬというのに」
「……そうだろうか」
「して、
「朱華姫直々に、私へと書状が送られてきた」
「……何ですと?」
これだ、と紫月が懐から出してきた書状を、恭しく受け取る。
内容に一通り目を通すと、しきりに首を捻りながら、紫月へ書状を返す。
「御館様。これは……、どちらの言い分が正しいのでしょうかね。真剣な訴えにも思えますが、痴情の縺れにも思えなくもないし、策に嵌めようとしているようにも思える」
「私も正直わからん」
朱華姫の書状曰く、『監視役に強引に迫られ、男女の関係と成った。逆らうと殺されると思い、言われるがまま還俗し、関係を続けた。だが、耐えられなってきたのでこうして書状で訴えることにした』と。
朱華姫について脳裏で思い返してみる。
伊織が初めて朱華姫を見たのは三年前。
南条滅亡戦後の処理に追われる中、濡羽城主殿で家臣団に囲まれ、紫月へ挨拶する(させられる)姿だった。
陰影のある瞼を縁取る長い睫毛、濡れたような瞳は目尻に乗せた紅も相まって艶めき。少し厚みのある小さな唇、口元にある黒子が、品のない表現をするとそそられる。ゆったりとした口調や動きがまた、齢十六とは思えぬ余裕ある色気を醸しだしていた。
しかし、美しさ以上に朱華姫が家臣団を驚愕させたのは、紫月への言動である。
『我が父に代わって天下統一を目指していただけるならば。
傲岸不遜。大胆不敵。
庇護されたとはいえ、敵地でこのような発言を繰り出すのは自滅行為。
当然、彼女の発言に家臣たちは激昂。
紫月が『断る。本意ではないが、側室なら先達て一人迎えたばかり。間に合っている』と苦笑しながら拒否し、朱華も謝罪と共にすんなり引き下がったため、事なきを得たけれど。
朱華姫は仇敵の姫。
姫とて、尾形の人間は国と一族を奪った憎むべき対象。
自ら歩み寄るかのような発言したとて信用は皆無。
だから、庇護の条件が仏門に入ることだったのに。
「どちらの言い分も真実とも取れる分、姫に処罰は与えられん。監視役は職務違反につき、半年の蟄居を命じたがな。かと言って、姫を濡羽城へ移すのも気が進まない。奥に入ることになるだろうから、妻たちや子らの身が心配だ」
「もしや……、姫は城へ上がりたいのかもしれませぬな」
伊織の言葉に、紫月はますます渋面を浮かべ、沈黙した。
紫月が口を開くまで、伊織も黙って待ち続ける。
「伊織」
「はっ」
ようやく口を開いた紫月は、信じ難い命を伊織に下した。
「しばらくの間、朱華姫の身をお前が預かってくれぬだろうか」
光風霽月のように〜仮想戦国譚〜 青月クロエ @seigetsu_chloe
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