波乱のきっかけ(☆)

 辰の刻午前七時前後には城へ出仕、祐筆の仕事を行ったのち、表座敷で紫月や家臣団と朝議を行いながら、朝食の弁当を食べる。

 石垣の一部の修理、雨期に入る前の川の洪水対策などについて、一刻ほど話し合い、一同解散。各自それぞれ、武芸の鍛錬や勉学、または畑仕事など行う。


 伊織は本日、宣教師から手に入れた経典を元に南蛮語を学ぶ予定だ。

 都に近い交易都市の大商人と紫月の間に交流があり、今はその者の通訳を介して南蛮人から武器、菓子などの嗜好品を買い入れているが、いずれは自分が直に交渉できるようにしたい。また、宗教を読み解くことで国や人々の思想の学びにも繋がっていく。


 ありがたいことに、近頃は国境沿いで小競り合いはあっても、現時点で大きな戦は起こりそうにない。学ぶなら今がいい機会だと、この二、三カ月前から自邸でも眠る直前まで南蛮語を勉強している。

 早速、二郭家臣が城内で与えられた居住場所で経典を広げよう、と、席を立とうとした時だった。


「伊織。話がある。少し残れ」


 紫月に呼び止められ、浮かせかけた腰を再び下ろす。

 空気を呼んだ他の家臣たちは速やかに表座敷から去っていく。


 紫月は控えていた侍女に膳を下げさせると、人払いを命じた。

 自分に近い席への移動を手振りで示す紫月に従い、伊織はその席へと移る。


「如何なされましたか」

「うむ……、実はな」


 紫月は珍しく口籠り、俯いた拍子に肩から胸へ流れた髪をさらり、払いのける。

 数え三十一の齢を迎えても尚、憂い顔さえ溜息が漏れるほどの美しさ。しばし時を忘れ、見惚れそうになる。伊織ではなく、他の者であればの話だが。


朱華はねず姫の処遇に困っている」


 朱華姫とは、三年前に滅ぼした南条家の末姫にして、一族唯一の生存者である。


「『尾形家へ投降する代わりに庇護して欲しい』との求めも女子ゆえ受け入れた。だが、女子だからとて油断はできぬ。尼寺での隠居生活を条件に承諾した、つもりだった……」

「何か問題が?監視役も付けていたのでは?」


 紫月は脇息に凭れかかり、頬杖をつく。

 行儀の悪い格好でさえ様になるが、その表情はとてつもなく渋い。


「よりによって、その監視役が虚偽の報告や事実の隠蔽を行っていたのだ!」


 珍しく声を荒げ、今にも舌打ちしそうな紫月の苛立ちぶり。

 伊織も予想外の話の展開に、驚きを隠せない。


「出家した筈の姫は二年も前に勝手に還俗していた。還俗自体はまあ良い。問題は、還俗の資金を化粧料ではなく、監視役の私財を使用したこと」

「何とまあ……。なぜ、そのようなことに」

「当人曰く、姫と恋仲になり、職務外でも逢瀬を重ね続け、いずれは妻に迎えたかったからだそうだ。」

「何とまあ……、あの者は実直で真面目一辺倒の男だと思っておりましたが……。否、生真面目さの反動で一度女子を知った途端のめり込み、箍が外れることもありますからのう」

「これは人選を見誤った私の落ち度でもある。己が情けない」


 紫月は脇息に突っ伏し、小さく呻いた。


「紫月様の責任ではございません。易々と女子に手玉に取られる方が悪い。相手は降伏したとはいえ、南条家の姫。必ず裏があると警戒せねばならぬというのに」

「……そうだろうか」

「して、何故なにゆえ此度の件が発覚したのでしょうか?」

「朱華姫直々に、私へと書状が送られてきた」

「……何ですと?」


 これだ、と紫月が懐から出してきた書状を、恭しく受け取る。

 内容に一通り目を通すと、しきりに首を捻りながら、紫月へ書状を返す。


「御館様。これは……、どちらの言い分が正しいのでしょうかね。真剣な訴えにも思えますが、痴情の縺れにも思えなくもないし、策に嵌めようとしているようにも思える」

「私も正直わからん」


 朱華姫の書状曰く、『監視役に強引に迫られ、男女の関係と成った。逆らうと殺されると思い、言われるがまま還俗し、関係を続けた。だが、耐えられなってきたのでこうして書状で訴えることにした』と。



 朱華姫について脳裏で思い返してみる。


 伊織が初めて朱華姫を見たのは三年前。

 南条滅亡戦後の処理に追われる中、濡羽城主殿で家臣団に囲まれ、紫月へ挨拶する(させられる)姿だった。


 陰影のある瞼を縁取る長い睫毛、濡れたような瞳は目尻に乗せた紅も相まって艶めき。少し厚みのある小さな唇、口元にある黒子が、品のない表現をすると。ゆったりとした口調や動きがまた、齢十六とは思えぬ余裕ある色気を醸しだしていた。


 しかし、美しさ以上に朱華姫が家臣団を驚愕させたのは、紫月への言動である。


『我が父に代わって天下統一を目指していただけるならば。わらわを側室に迎え入れてもらえぬか。さすれば、父たちも浮かばれよう』


 傲岸不遜。大胆不敵。

 庇護されたとはいえ、敵地でこのような発言を繰り出すのは自滅行為。

 当然、彼女の発言に家臣たちは激昂。

 紫月が『断る。本意ではないが、側室なら先達て一人迎えたばかり。間に合っている』と苦笑しながら拒否し、朱華も謝罪と共にすんなり引き下がったため、事なきを得たけれど。


 朱華姫は仇敵の姫。

 姫とて、尾形の人間は国と一族を奪った憎むべき対象。

 自ら歩み寄るかのような発言したとて信用は皆無。

 だから、庇護の条件が仏門に入ることだったのに。



「どちらの言い分も真実とも取れる分、姫に処罰は与えられん。監視役は職務違反につき、半年の蟄居を命じたがな。かと言って、姫を濡羽城へ移すのも気が進まない。奥に入ることになるだろうから、妻たちや子らの身が心配だ」

「もしや……、姫は城へ上がりたいのかもしれませぬな」


 伊織の言葉に、紫月はますます渋面を浮かべ、沈黙した。

 紫月が口を開くまで、伊織も黙って待ち続ける。


「伊織」

「はっ」


 ようやく口を開いた紫月は、信じ難い命を伊織に下した。


「しばらくの間、朱華姫の身をお前が預かってくれぬだろうか」






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光風霽月のように〜仮想戦国譚〜 青月クロエ @seigetsu_chloe

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