第11話

 ギシ、ギシ。


 屋根裏に続く階段を登ってくる、規則的な足音が聞こえてくる。


 その音がぴたりと止り、床から三十センチの高さに取り付けられた木戸が開き、夕餉の膳が差し入れられる。


「父さん、夕飯を置いておくからね」

「………」


 一郎の優しい声が聞こえ、それからまた、ギシ、ギシと遠ざかってゆく__


 ここは、我が家の屋根裏に造られた座敷牢だ。

 妻に大怪我を負わせ、その後も意味不明の言葉を繰り返していた私は、狐狸に化かされ、狂った老人として、今、四畳半の空間に閉じ込められいる。

 

 だが、私にはちゃんと分かっている。少し前ならいざ知らず、今は気が狂ってなどいない。


 白い影はあの男の亡霊ではない、私自身だったのだ。

 白い影の正体、それは私の罪の意識が作り出した幻影。


 あの男は、綺麗な心の持ち主だった。

 真摯な気持ちで音楽に挑み、綺麗な心のままで黄泉へと旅立った。


 あの男の遺作であった例の譜面は、大方あの男の家族が、我が部下の焚書を恐れて隠し持っていたもの。

 それが、巡り巡って私の前に姿を現したことには、何らかの因果だ。


 例えば、先妻の姉のほうであったなら、私の心の内を察し、あの曲を披露しなかったに違いない。


 あの曲から溢れてきた、純粋な悔しさと、なお真摯に音楽に向き合おうとする気概。その真っ直ぐさこそが、邪な私の心を打ち、完膚なきまでに破壊した。



 だが、もう遅い。


 今、私にはふたつの時がある。

 非常にクリアーで頭の隅々まで冴えた時間と、あれ以来我が心に住み着いた、白い影への懺悔の時間。


 それが半刻おきに交互にやってくる。


 妻はあの時の大怪我のせいで、寝たきりのままだし、家族は私を気味悪がり、ここに閉じ込めたままにしている。


 さて、そろそろ混濁の時間がやってくる。


 食事を終えてちょっとすると、あの日の音が、惨劇が目の前に蘇る。


 ピアノを弾く妻、蠢く白い影。

 白い影は、いつも私に問いかけてくる。


 市井に埋もれていたあの男の曲を譜面に起こして、お前は、あの男の音楽を後世に残してやったのだとかのたまっていたな。

 だが、真実はどうだ。

 お前はただ、あの男の功績を盗んだに過ぎぬ。あの男が浴びるべき賞賛を、横取りしていい気になっていたのだろう。


「違う、違うんだ」


 いや、違わない。後世の人は言うだろう、文部省が、嫉妬に駆られて男の曲を横取りしたのだと。


「いやだ、そんなことはしない。私はただ、彼のためを思って」


 ほう。お前は確か、あの留学を命じた時も、そんなことを言っていたよな。


 結果的に男の命を奪ったあの留学も、辞退を願う彼を赦さず、国家命令を振りかざして。

 本当は、その才能を妬んだだけだった癖に。


「いや、違う!私は彼の才能のさらなる飛躍を信じたからこそ…手」


笑わせるなよ、お前にそんな資格があるのか?

能無しで小狡くて、他人の功績を横取りすることだけに長けた、この木っ端役人が。


「違う、違う!私は、私は……

あ、あ、ああああああああぁぁぁっ」



 その階下では、家族が食卓を囲んでいた。

 悲しそうな顔で天井を見上げる一郎に、七歳になるその息子が問いかけた。


「ねえパパ。おじいちゃん、また叫んでる」

「仕方ないよ、おじいちゃんは病気なんだ」


「ねえパパ、前にボクがご飯を持っていってあげた時にね。

おじいちゃん、お化けが怖いって言ってたよ。屋根裏にはお化けがいるなら、何でパパはおじいちゃんを出してあげないの?」


「うーん、それはね…

 おじいちゃんのお化けは屋根裏じゃなくって、おじいちゃんの心の中にいるからなんだ。だからね、おじいちゃんごと閉じ込めておくしかないんだよ」


「へえ……そっかあ。なら、仕方ないよね」


【了】

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昔の光 佳乃こはる⭐︎お正月はイン率下がります @watazakiaya

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