第10話

 突如、これまでの旋律をぶち壊すかの如く鍵盤が叩きつけられて、私はハッと目を開いた。


「な、なんだこれは?!」


にわかに、帳が落ちたように辺りが暗くなり、ピアノに目を向けると、弾き手が妻からひょろりと白い男の影に変わっている!


 影は、私の姿を認めると、ゆらりと立ち上がり、左右に体をゆらしながら近づいてきた。


「ひっ」


それはまさしく亡霊だった。

 私が殺した、あの男の。


 私は、それから逃れようとした。

 だが、皮肉なことにすっかり腰を抜かしてしまい、立ち上がることができない。


 弾き手のいないピアノの鍵盤だけが動き、不気味に鳴り続けている。


 やがて、白い影の口から、心の底に響くような声が聞こえてきた。



 ああ、残念だ。

 私は、もっとたくさんの曲を書きたかった。

 もっと勉強をしたかった。

 なのに……できなかった。



 白い手が、私に迫り来る。


「よ、よせ。こちらへ来るな。私のせいではない、お前の天命だったのだ」


 悔しい、悔しい。

 あの時私の感性は、見事に研ぎ澄まされていた。あと少しの時があれば、素晴らしい曲が出来たものを。


 ひやりと冷たい感触が、頬を撫でた。


「く、来るなこの化け物っ。私は、私は……


う、う、うわああああああああぁぁぁっ」


 私は、無我夢中でそれを払った。

 その時になって、ようやく身体が動き出したのだ。

 勢い込んで立ち上がると、みずやに立てかけてあるステッキを手にとり、めちゃくちゃに振り回す。


白い影は、ステッキに当たれば雲散霧消し、まるで手応えがない。すぐに集合して形をつくり、また私に襲いかかってくる。


「うおおおぉっ、えいやああああっ!!」


 私は、守るべき家族のために正義を込めて果敢に闘った。


 だが。



「きゃーーーーーーーっ」

「去ね!ここから去なぬか、この化け物めっ」


「あなた痛い、痛いっ!誰か、誰か助けてえぇーーっ」


「父さん、父さん!一体何をやってるんだ、やめないかっ」


「ぬおおおっ、さては貴様も、あの男の仲間だな?いいか、ここは私の城だ……ここにお前の入り込む余地などないわ、去ね化け物!

ひっ、ひひひ」


 打ち据える度、白く散る影。

 しかれどそれは、打つ度にひとつふたつと分裂し、打つ度に数を増してゆく。


「あ……な……た」


「はあ、はあ……はあ」


 一郎に押さえつけられ、ようやく我に返った時。


 目の前に、血の海が広がっていた。


 そうして、頭から血を流しながらピアノ脇の血溜まりに突っ伏しているのは——


 妻だった。


 私はさっきからずっと、妻をステッキで打ち据えていたのだった。




「う、う、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ」

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