六章 承り〼
6-1
黒いカラスはよく見かけても、白いカラスは見かけないまま、一週間がたった頃、僕は一人で体育館にいた。バレー部のネットも、柔道部の畳も、剣道部の防具もない。もちろん、卓球の台もフェンスもなく、体育館はひっそりと広い体を横たえて、眠りに落ちたようになっている。
球の数が合わなくなり、Cだけで探すことになったのだが、それでも見つからなかったため、「一球欠損」として端がボロボロになった赤いファイルの中の用紙に記入した。球の個数管理は、本来全部員の責任だった。しかし必然的に球拾いをする役割を担うCが、最後まで探すようになった。球数がそろうまでC全員で球を探すところだったが、今日はどうしても見つからなかった。そうしている内に残っていたCの内の一人が、「欠損だろ」と言った。そこから一人、二人と帰って行って、結局僕一人が体育館に置き去りにされた。Cの他の人に押し付けられる形となったわけだが、僕はCの中でも新入りだから仕方ない。
僕がそのファイルを職員室まで届けに行くと、職員室の若い女の先生を中心に、あることが話題になっていた。話がかなり熱を帯びて盛り上がっていたようで、僕にも聞こえてきた。その話題の中心が「シエン」だった。
「この字、やっぱりシエンって読むんでしょうね?」
「紫に苑だから、それでいいんじゃないですか?」
「でも、シエンって怖いですよね」
「どうして?」
「私怨とか、死縁とか、想像しません?」
「確かに。でも、供養所だから、わざとじゃないですか?」
僕は、「供養所」という言葉に反応して、ファイルをダルマに渡し損ねた。ファイルが音を立て手床に落ちる。その弾みで中の紙が折れて、クラフトファイルに大きな折り目が付いた。ファイルの中から見えた「一球欠損」という僕の字は、小さくてみすぼらしかった。
「すみません」
僕は焦ってファイルを拾って整え、ダルマに渡した。ダルマは僕が倒れて以来、妙に僕だけに優しくなった。もしかしたらダルマのそういった言動が、他のCの人には面白くなかったのかもしれない。だから僕一人にファイルを預けて、皆先に帰った。自分たちが「一球欠損」と書いたら見つけるまで帰してもらえないだろうが、僕なら大丈夫だと思われたのかもしれない。同じCの一部の人からは、「あいつは呪われてる」とか、「かかわると死ぬ」とか陰口を叩けれていることは知っていた。だから僕はいっそう、ダルマの贔屓のせいだと思いたかった。
「おお、どうした? ぼうっとして」
「あの話って……?」
僕が若い女の先生たちに目をやると、ダルマはあきれたように溜息をついた。
「今、SNS上で話題になっているらしい。シエンとかいう、不思議な供養所があって、噂ではこの町の山奥が有力なんだと。全く、何で女はあんなのが好きなのかねぇ」
ダルマは「俺には理解できない」と首を振った。僕は内心首を捻っていた。店としてやっているのなら、今の時代何のSNSも利用していないのは時代遅れじゃないだろうか。供養所自体が何も発信していないのであれば、客がツイートしたりブログにアップしたり、どこかで検索に引っかかるはずだ。全くSNSに引っかからずに噂になる供養所という存在は、僕の心にさざ波を立てた。
「そうですか。噂ですか」
「ああ。でも、そのシエンっていうワードで検索をかけても、噂通りのサイトは全くヒットしないらしい。まあ、SNSの話題なんて、すぐに別のものにとってかわられるだろうけどな」
「そうですか」
僕は知らぬ間に同じ言葉でダルマに応じていた。「供養所」に気を取られていたからだ。僕はその「供養所」に行くことになるだろうという、第六感が働いていた。
「お前、今日は一人で帰るのか?」
「はい」
ダルマが心配そうに僕を見つめるので、僕は笑顔で返した。いつもは巡と一緒に帰っていたが、最近は帰りがバラバラになることも多くなっていた。それは仲が悪くなったとか疎遠になったとかというのとは反対で、巡が僕のことを「一人でも大丈夫」と思っていてくれるからだ。
「気をつけてな」
「はい。失礼しました」
僕が職員室を出て、体育館に荷物を取りに戻ると、夕日に赤く染まった体育館には、もう誰もいなかったし、何もなかった。そこにはただ裸体を投げ出したかのような空間があるだけだ。そこでは足音さえも大きく響く。ワックスがけされた床が飴色に淡く光り、色とりどりのテープが一見無造作に走っていた。
「シエン、か」
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『紫苑』 夷也荊 @imatakei
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