第7話最後に・エコシステムと疎外


 ここまで書いてきて考えるのは、本作(ルックバック)を離れ、京都アニメーション放火事件のことである。


 事件をおこした犯人は、京都アニメーションが開催するライトノベルコンテストに参加し、落選し、自分のアイディアがパクられたと感じ怒りを溜め、事件をおこす。

 犯人の動機は著しく幼稚で、許しがたいが、だが、犯人を許さないことと、なぜこの事件がおこったかを考えることは違う。


 今エンターテーメント業界は物語消費を超え、物語に対し奉仕する世界観に変わったと言っていたのは大塚栄志だったと思うが、確かに今自分が好きなエンターテーメントやコンテンツは消費するものではなく育てるものという感覚があると思う。


 例えば、「押せるときに押す!」や、「育てる」などと言う言説はコンテンツを参加型で輝かせる行為を思わせる。


 それだけではない、カクヨムや小説家になろう、YouTubeや配信サービスなどは無料でコンテンツ創作に参加し、プラットフォームを栄えさせていく。


 プラットフォームは多くの無料奉仕の参加者により一部の金を生むコンテンツを育てる。これの現象が消費から奉仕の変化だと言える。


 プラットフォームやコンテンツは参加者を仲間のようにあつかい、しかし一線を引く。


 仲間のようにふるまっても、観客はお金と労働を捧げるものであって、お金や労働を受け取る側とは違うと突き放す。


 そこに疎外感が生まれることは当たり前のことだろう。


 いや、たかだかエンターテーメントだろう? 本気になるなよ、と思われるだろうが、コンテンツやプラットフォーマーは、観客に本気になれ! と常に言い続ける。コンテンツが売れるためには熱狂が必要で、熱狂を生むためには本気度こそが必要だからだ。


 本気になった観客が、プラットフォーマーやコンテンツの作りてに、お金と労働を享受する側に同化しようとすると、そこにはクリエーターとしての才能や、資本など、現実の壁があり、突き放す。


 そのようにして社会から疎外された人々がテロをおこすように、社会より小さな、だが小さな社会であるプラットフォームやコンテンツに拒絶され疎外感を感じテロをおこす。


 そこにあるのは、承認欲求の肥大や自意識の暴走などではなく、労働を要求し、それを搾取している世界への反抗としてのテロという古典的な文脈に重なるのである。


 京都アニメーションが搾取していたわけじゃない、だが犯人にはエンターテーメントが搾取側だと映るなら、京都アニメーションが標的になるのは頷けることだと思う。京都アニメーションは非常に優れたエンターテーメント供給会社だからだ。



 

 ならどのようにすれば、このようなテロリズムが生まれないのか?




 答えはないのかもしれないが、一つ言えることは、熱狂に対する冷や水だろう。




 冷や水とは否定や誹謗中傷ではなく、構造的に作品を考え特別視しないことである。


 感動や熱狂とは違う、売り上げや興行収益とも違う評価軸の立案であり、物の見方だ。


 今回あつかった「ルックバック」は多くの熱狂に支えられていた。そこには否定的な意見を出すことすらためらわれるような熱狂があった。


 熱狂を生むコンテンツはそれだけ優れていたのだろうし、素晴らしいことだと思う。


 だがその熱狂により、観客は奉仕を求められ、その奉仕がより熱狂を生み、金銭を生む。


 金銭を生むための熱狂を作り手側は求めるし、抑えることをしない、お金が儲かるからだ。


 だからその熱狂に冷や水をかけ、熱狂を冷やさないまでも、別の物の見方を提供する、そして熱狂が一方向を見ないように、疎外を生まないように言葉を紡ぐことが、新たなテロを生まない一助になるのではと考え、今回この文章を書いた。


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漫画「ルックバック」に見るアートとエンターテイメント、エコシステムと疎外 大間九郎 @ooma960

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