第6話結論的なもの
駆け足で、三幕構成と二項対立を使い構造的に「ルックバック」を読み直してみると、この物語は、
主人公藤野が京本と出会い漫画家になり→京本の死を乗り越え→漫画を描き続ける物語。
と、ログラインが組めるだろう。
これを構造的に取り出すと、
エンターテーメントがアートと出会い漫画になり→アートの死を乗り越え→エンターテーメントを続ける物語。
と、見ることができるかもしれない。
本作では絵とお話、アートとエンターテーメント、漫画家と読者、エンターテーメント=漫画の権能の本質など、考えさせられるトピックが散りばめられ、最後にはそれでも描くと言う漫画家という権能への使命感が現わされていて、心に響く。
いい作品だと思う。
感動的な作品だとも思う。
テクニカルであり、三幕構成も完璧に使いこなした少年ジャンプらしい傑作だと思う。
しかし私はこの作品に対し大きな違和感を感じる。
最初に記したとおり、ルックバックは初出は21・7・18から19に変わる深夜0時であり、発表の三年前19・7・18におきた京都アニメーション放火事件の同日深夜に発表され、そのストーリー上にある無差別テロの事件もあり事件へのオマージュが感じさせられる。
さて、この作品に京都アニメーション放火事件被害者に対する鎮魂的表現があっただろうか?
被害者の鎮魂を思い浮かべる物として最初に上がるのは慰霊碑だろう。
慰霊碑には主にそこで何があったのか、そして被害者の名前が刻まれる。つまり名前の記載である。固有名の記載である。
固有名を記載することにより、慰霊碑と言う現実社会に存在する物体に刻むことにより、現世に残し、名前という記号に紐づけられた個別性を現世に紐づける。
忘れられないことにより、現世に死者の断片を残し、慰霊碑に祈ることにより、死者の魂を慰撫する構造になっている。
本作では京都アニメーション放火事件に対するオマージュの事件の中で、京本以外のキャラクターは数字としてあらわされ、固有名を持たない。唯一固有名が出てくる被害者京本も苗字である京本は出てくるが、名前がない。主人公の藤野には名前が出てくるシーンがあるのにである。
固有名がないと言うことは、数であると言うことだ。
数は事件の悲惨さは表すが、被害者個人の、固有名を持った人間の悲惨さは現わさない。なぜなら、個人は一回きりの命の終わりを個人で感じるものであり、その苦しみや悲しみや無念は一回性であるからだ。作中の事件では死者十二人との記載があるが、十二人の死ではなく、一人の死が十二回同時におこったことを記載するのが鎮魂である、と思う。
なら、事件被害者への鎮魂を表さないのなら、この作品で行われているのは何かと考えれば、それは、事件を見て、ショックを受けた事件に関係がない人々の心の慰撫であろう。
それは作者も含めてのことなのかもしれない。
だが、要は犠牲者と赤の他人のショックを慰撫するために、まだ生々しい質感残る魂を使うことが良き行いなのだろうか?
その作品を感動として受け入れることに後ろめたさを感じるべきではないか?
と、私は素朴に思った、これが本作を呼んだ時に感じた違和感の正体であろう。
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