第16話 掛川寛人2
昼は当に過ぎたのにまだお客さんはいた。バスが出たのなら彼らは車で来ているのか。まだまだのんびりと寛いでいた。見たところ家族連れより、しかも子供を除く幅広い年齢層に此処は受けている。まあそうだろう。心を癒やすと言っても子供は、大人のように懐古調を楽しむどころか、遊園地の方が楽しく、此処にはそんなものは何一つなく、退屈すぎる場所だ。此処は未知の世界に疲れた人間が
「何でみんなこの風景に溺れるのだろうね」
「世渡りの上手い人は溺れないで、スイスイと此処を泳ぎ切って仕舞うけどね」
「そりゃあそうだろう。商売の基礎やネタはどこにも存在しない。ただそこへ奮い立たせる何かはあるが、それを感じるか感じないかは人それぞれだ」
と二人の会話に掛川が言った。
「掛川さんには、ここには描きたいと意欲を湧かせる何かがあるんですか」
「今朝着いたばかりでもう魅せられて仕舞う人と、そうでない何の感性も浮かばないひともいる。その違いは感性の受け止め方だ」
商売人には商取引の感性が有り、画家には視覚が捉えた対象物から得た感性が有る。だがここには商人には不向きな荒野にしか見えないが、画家の俺には湧き上がる芸術の
「石塚そうなんか」
「さあどうなんだろう。ここに居て俺の頭の中がどう理論づけられているのか、考えたことがない」
少なくとも穂高に行く前の、突っぱねた雰囲気は見受けない。ただこれらの人々と、この風土から何を信じるか、何を学び取るかで悩んでいる雰囲気だ。矢張り此処は越村の穂高詣に匹敵する何かが埋没しているのか。このまま引き返せば沙苗さんに「この役たたず!」と言われそうだ。
「石塚、帰りのバスより旅館の手配を頼む」
「相部屋なら旅館の
と快く承諾した。
「しかしなあ。そこまでして此処に滞在する価値が俺には解らん」
「越村、お前の実家は裕福じゃあなくて、単位を落とさないギリギリの処でバイトを入れているのは知ってるだけに、この生活はズキンと腹に染みるだろう」
「掛川さんはどうなんですか。まさか描いた絵が飛ぶように売れてるようにも見えない風体ですが」
「身なりで人格を決めるな」
「いいですよ石塚さん、この服装の方が気兼ねなく絵に打ち込めるますから」
掛川は少なくとも歳は
「ここならいいけど。町中ならペンキ職人みたいだ」
「それはしゃあない。咄嗟に思い浮かんだ色に変えたいときは、油壺でぬれた筆を待ちきれずにズボンで拭き取る。構ってられないのだ」
「それだけ絵に夢中になってしまうのか」
越村は色んなバイトを手掛けているが、ペンキ塗りはまだやったことがない。塗り絵は子供の頃から面倒くさくて気乗りしない。それにズボンを手拭い代わりにして絵筆を拭く神経が、芸術家には必要なのか理解できない。周囲には茅葺き屋根を飽きずに見る人々が行き
「この人たちの中にはリピーターは多いのか」
「いや毎回来る人は希だ。幾ら良くても偶に来るから、この非日常的な牧歌的風景が心に響いてくるんだ。明日からはまた過酷な人間関係の上下社会に揉まれる覚悟を切りかえてられる者と、そうでない一部の人だけがここに居座れる」
「オイオイ居座るとは人聞きが悪い。この風景に愛着が染みついて立ち去れないんだ」
懐の心配のない者だけが居残ってるのか。そんな奴らには何とでも解釈しろって言いたくなる。しかし此の絵描きは、それほど懐が潤ってるようには見えないが。何で喰ってるんだろう。とにかく掛川は訳の分からん男だ。だからと言って恐れることはない、その逆だ。
十も離れているのに、時々どこを見ているのか定まらない弱々しい目をする。あれは視覚が捉えた対象物から、何か絵になるものを探しているのか。同じ目線で対象物を観ても特に目を引く光景でもなかっただけに戸惑う。都会では胡散臭いそんな掛川の姿も此処では日常と掛け離れた世界の
「掛川さんは何を見てるんですか」
と一度は気になり声を掛けてみたが、暗く笑うだけで言葉を濁された。此の時に、もう一つ気になる石塚は、まったく無関心なのだ。
「どうだ越村、此処の風景は」
突然に前触れもなく声を掛けた石塚を見ると、
「そう言われても、穂高から突然投げ込まれたこの風景には戸惑ってる」
「そうだなあ。二ヶ月も穂高に居ればここは別天地だろう」
「エッ! あなたはずっと穂高に居たんですか」
急に物珍しそうに掛川に見られた。バイトだと言うと更に掛川は驚いた。
逸れ道 和之 @shoz7
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