第15話 掛川寛人
彼は大したものは描いていない。心に思うことを絵にするだけでは味気ない。ほとんどの画家がそうなんだ。生前のたわいもない絵に興味を示した連中が、画家が死ぬと金づるのように彼の作品を高評価して、焼却炉行きを免れた多くの作品に、ありもしない付加価値を付けて売り出す。後は売れなかった生前の絵が、彼の死と引き換えにバカ売れになれば悲劇と思わないか。絵の価値なんてそんなもんさ。大衆には判らない一部の人がその価値に火を点けて、群集心理を巧みに操れば、大衆はこぞってその絵を絶賛する。絵の価値は観る人が決めるもので、噂で決めるものじゃあない。だが生前は画家の強い個性で遠ざけている作品は、死ぬのを待って売り出せばいいだけさ。
これが彼を知る石塚の批評だ。どこまで当を得ているか解らないがそれを払拭するには、当の掛川が描いた絵を見れば石塚の入れ込みようが解る。しいては長期滞在の原因も掴める。
「絵は自宅にあるんですか? まさかあの旅館に置いているんですか」
「此処で描いた絵だけは此処に数点ある」
「どれだけここに居るんです」
「さあ、二週間か
「で数点ですか?」
「何日かおきに彼女が切れた絵の具を届けて、帰りに出来た絵を持って帰るのさ」
「その人は
「石塚はその人に会ったのか?」
「ああ、二、三回」
「どんな人なんだ?」
「別に普通の人で、どっちか言うと無口な人だなあ」
「あいつは人前に出るのが苦手な女なんだ」
「そうかなあ。でもその女のお陰で此処に居て絵に専念出来るんだろう」
取り敢えず掛川さんの絵を見ないと何とも言えんし、石塚も冷静に分析しているようだ。
腹ごしらえが終わるとやっと此処の風景が心地よく見えだした。此処では珈琲でなく緑茶で食後の喉を潤した。掛川もさっきのそば同様に、美味そうに湯飲み茶碗を両手で抱えて緑茶を飲んでいる。越村にはそんな掛川が年寄り臭く見えた。この人の私生活はどんなのか益々解らなくなった。隣の石塚は見慣れているのか特に注意を払わず、こっちはぐい呑みのように片手で飲んでいる。そう言えば越村の部屋には本の山はあっても茶っ葉はどこにも無かった。ついでに彼奴の部屋も確かめたいが、
「掛川さんは此処では風景画を描いているんですか?」
「それしかないだろう」
聴きもしないのに石塚が答える。石塚は滞在を延ばしているこの男のいったい何が気に入ってるのか、じっくり観ても答えが出ない。矢張り描いた絵に何かヒントがあるのか。
「今日は絵は描いてないんですか」
見たところ手ぶらだ。まさかこの近くにイーゼルを立ててキャンバスを置いたままここに来ているのか。
「今日は石塚のお姉さんが来るって言うから、モデルになりそうか見極めようと思ったのに、連れて来たのは男だった。別に此処で会う予定はないが、集落で唯一のあの店より車ならここへ来ると思って手ぶらで待っていたが、予定が外れただけだ」
「姉貴はそんなじっとしてない。なんせ向こっ気が強くてモデルの柄じゃないぜ」
「そうかなあ。此処までのドライブでは
「それはお前に関心があるんだ」
良い悪いは分からんが、複雑な心境で石塚の話を聞き留めた。
「でもサッサと帰られましたよ」
「あたり前だ。昼から講義があるんだろう」
「大学の授業はそんなに気にしてなかったけどなあ」
「そこが相手に悟られないようにする姉貴の気苦労なところなんだ」
「そんな女心なんか益々解らん」
「あたり前だ。俺もそうだが恋した事のない学生のお前に分かるか」
「二人ともそんな難しい女は相手にするな」
「あんたがモデルにしたいって言ったくせに」
とこれに二人は反発した。
「モデルは別だ。俺のペースで描けばいいんだ。別にモデルがこう描いてくれって言うわけないんだ」
モデルと彼女は別ものだと言われた。
「画家は対象のモデルに何の関心も抱かなければ静物画のように無心で淡々と絵筆を運べる。しかし頼んだモデルが自分の理想の人だったら、感情を抑えて冷静に描けずに、ひょっとして乱れた絵筆に依ってピカソのような抽象画になるかも知れない」
益々何処まで真面目に聞いていいか解らん男だ。
「人物画は不得意なんですか?」
「俺は風景画が好きなんだ」
いたって掛川は無表情だけにピンとこない。
「だから俺と一緒でここに長居してるんだ」
「石塚、お前は此処に憧れて来る人に興味があるんだろう。掛川さんや住職のように」
「俺もそうだ。あの和尚には説教をたれても意外と受け容れられるから不思議なもんだ」
絵描きも住職を気に入るのか?
「深山さんとか云う住職ですか」
「何だ。今日着いてもう会ったのか」
「いや、石塚からさっき聞いた」
「どうだ。あのお坊さんは、ほとんど自分から説法をとこうとしなくて、普通に喋るから坊さんだと忘れてしまう」
「そうらしいですね。お寺も一つの経営母体として、これからの運営を模索しているようですよ」
お寺だけじゃない。今の世の中は次から次へと新しいものが生まれて、古い物が淘汰されれば我々は何に耳を傾けていいのか思案のしどころだ。絵はかろうじて前世の面影を今も引き継いでいるのが彼には救いだ。画家と住職、この二人に共通するのは魂の叫びをどう昇華させるか。このいにしえの景色が心にどう響くかだろう。
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