梅が紡いでくれたもの
北野椿
第1話
紅茶から立ち上る湯気が柔らかく鼻をくすぐった。昼時になると、冬の底冷えするような寒さは和らぐようになってきた。リビングの窓から見える庭の木々はほとんど葉を落としたままだけれど、今年ももう梅の花は慎ましくほころび始めている。窓越しだというのに、あの梅の花特有の甘い香りが鼻先をよぎった。ウッドデッキでティータイムを過ごせるのもそう遠くないことに、心が俄に浮き足だつ。
春はいつも、梅の花の香りが運んでくる。
故郷から遠く離れた見知らぬ土地に嫁に来るのは心細かろうと、私の実家にあった梅の木から一枝もらって接ぎ木をしてくれたのは、見合いで出会った夫が最初にみせた優しさだった。夫によってよく手入れされた庭が心地よかったのか、梅の木はするすると伸びて、次の春には花を咲かせた。同じ日本だというのに慣れない言葉や少しずつ違う慣習に戸惑うばかりだった私にとって、自分の背にも満たないその花がどれだけ心強く、春が待ち遠しかったか。
梅の木は、私たちに娘が生まれるころには立派に実もつけるようになっていた。娘の足元が覚束ないうちは、一日一日を乗り越えることに精一杯だった。娘の足取りが頼もしくなり、言葉を話し、やがて幼稚園に上がるころ、毎年娘が青いうちに口にいれぬようにと摘んでいた梅の実をみて、私が小さいころの母のことを思い出した。買い物のついでに氷砂糖と瓶を買ってきて、昔母とがそうしていたように梅の実を漬け込んだ。幼稚園から帰ってきた娘は、青梅が漬け込まれた見慣れない瓶を興味深そうに見つめていた。
「二週間もすれば、美味しい梅ジュースができるよ」私が言うと、
「ようけできる?」
「うん、たくさんできるよ」
「たのしみー」と娘は満面の笑みを浮かべた。
出来上がった梅ジュースは、娘も夫も気に入って、その年から我が家の初夏の味になった。
足元をくすぐられて我に帰ると、とらがすり寄ってきていた。茶トラのとらが現れたのは、娘が中学二年の秋口のこと、あの梅の木の下だった。市街地とはいえ、都会と比べると猫が少ないこの街でとらはひょっこりと我が家の庭に来ては食べ物をねだるようになった。地域猫などという言葉ができるずっと前のことだった。人懐っこいとらの行く場所がないならと、娘と協力してご飯をあげながら、とらが我が家でそれとなく過ごすようにしていった。はじめ渋っていた夫も、家猫となったとらに甘えられるとかなわないらしく、美味しそうな猫のご飯を買ってきては食事時にすすんであげるようになった。
高校生になった娘が、あるとき、日本史の勉強をしながら、「そういえば、平安時代にも猫がいたんだって」と言ったので、私は「そんな昔からいるの」と驚いた。「ほら、この絵」娘が開いたページをみると、そこには着物を着た花をみる昔の人たちと一緒にかかれている猫がいた。「この絵、お花見のようすだけど、桜でなく梅なんよ」
そのとき、はじめて会ったときのとらの姿を思い出した。あのとき、梅はまだ咲いていなかったけれど、とらもあの梅の木がつれてきてくれたような、そんな気がした。娘が一人立ちをしても、とらは変わらず、気まぐれに私と夫にかまったり、かまわれたりしている。
足元にいたとらが、私の膝元に滑り込んできた。体を伸ばすのに合わせて、背中を撫でてやると気持ち良さそうに喉を鳴らした。今は仕事に出ている夫は、もうすぐ定年になる。ふたりになってから前にもまして言葉を交わすようになった私たちなら、この先も一緒に過ごしていけるような気がしている。とらは、そんな私たちの会話の中心にいて、それは巣立っていく前の娘や、越してきたばかりのときの接ぎ木された梅とよく似ていた。
いつもつけているものだというのに、とらを撫でる手にはめられた指輪が目に入った。初めて嵌めてからもう何十年というときが経っていた。ちょうどあの梅の木と同じ年数だ。それだけの長い月日が経っても、中央に嵌め込まれたダイヤモンドの輝きは変わらずにいる。梅の花を見るたびに立ち上る、私がこの土地で巡り会ったものたちとの思い出と同じように。
とらを撫でながら、梅の花を眺める。桜の花見と比べると質素なものだけれど、過去のとりとめのない愛しい出来事を顧みるのには充分だった。暖かい陽射しが夕日に変わるまで、午後の穏やかなときはまだしばらく続く。
梅が紡いでくれたもの 北野椿 @kitanotsubaki
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