記録Ⅱ

 困惑する二人を前に、青い紫陽花の花壇に佇む男は胸ポケットから煙草の箱を取り出した。火をつけて紫煙をくゆらせる。小学校の校庭に漂う濃い霧の中に紛れて消えた。

「あの、どういう意味ですか」

 今しがたの発言について、映美が尋ねる。丸眼鏡をかけた清掃員は片眉を跳ねた。

「随分と妙なものを連れているな」

 やはりビデオカメラに視線を合わせていた。画面の外から手が伸びてきて、映美の腕を掴んだ。そのまま引き寄せる。

「ちょっと、キョーコ?」

「私から離れないで」

 戸惑う横顔が画面端に映る。地面に突き立てたデッキブラシの柄を握って顎を乗せた清掃員は、頬を歪ませた。

「俺のことがわかるのか」

 煙草を口にくわえたまま、彼は続ける。

「ならばなぜ、この霧の中に入ってきた。お前たちはこの町の住人じゃないだろ」

 二人を置いてけぼりにしたまま、痩せぎすの男は顔に手を当てて濃霧の空を仰ぐ。

「自殺志願者か。勘弁してくれ、俺は別件でこの町に来たというのに。今は忙しいから、後で死んでくれないか」

 勝手に嘆息する中年の男に、彼女たちはどう話しかけていいかわからなかった。もしかしたら、関わってはいけない人物に声をかけたかもしれない。

 こわった面持ちで、映美が口を開く。

「あたしたち、大学のオカルト研究会に所属していて……ネットの噂を知ってこの町に来たんです。ずっと霧が晴れない町があるって」

 制帽の男は怪訝けげんそうな顔をした。

「そいつは妙な話だな。この災害が起きたのはほんの数時間前だ。俺は人間社会にはうといが、広まるにはちと早すぎる」

 映美とビデオカメラが向き合い、顔を見合わせる形となる。再び花壇の中にいる清掃員を画面の中央に映し、今度は撮影者が口を開く。

「災害って、何ですか」

 どこかぎこちない口調になった。目の前の相手に対して、警戒心を滲ませている。

「町の住民を一人も見かけなかっただろう。おかしいとは思わなかったのか。呑気な連中だな」

 煙草を指に挟んで、中年の男はせせら笑う。映美の横顔は明らかにむっとしていた。

「花壇の中に入るのは、大人としてどうかと思いますよ」

「映美、止めて」

「そうかい。どうも人間のことわりはよくわからんね」

 どうにもけむに巻いたことばかり言う。映美がさらに食ってかかろうとして、突然ビデオカメラの映像が上下する。撮影者が大きく咳きこんだのだ。

「キョーコ、どうしたの。大丈夫?」

「うん、平気だから……」

 口を押さえているのか、くぐもった声音で言う。真正面にカメラのレンズを向けると、男はどこか皮肉げな表情をしていた。

「これらは生きた人間の血肉を好む。今は空腹でなかったことに感謝するんだな。だが、長居すればこの町の住民と同じ末路を辿ることになる」

 煙草の先端を宙で回す仕草をする。

「いい加減にしてください。この町の人たちはどこに行ったんですか。事件なら、警察に」

「いい加減にするのはお前の方だ。いつまで――」

 言葉が途切れた。丸眼鏡をかけた男はふと後ろを振り返る。ビデオカメラの液晶画面はその現象を写し出していた。小学校の校舎に大きく描かれた、落書きである朱い鳥居の内側が黒々とした闇に塗り潰されている。その奥から尋常じんじょうではない大きさの手が現われ、清掃員の全身を握り締めた。剛毛と鋭い爪が生えた、赤銅しゃくどう色の腕だった。

 デッキブラシと骨が折れる音が響き、丸眼鏡の男は吐血した。青い紫陽花の花々を無残に散らし、突風とともに彼を平面であるはずの鳥居の中へ引きずりこんだ。

 倒れたバケツと折れたデッキブラシの先端だけが、荒れた花壇の上に残された。

 映像が小刻みに震えていた。短い間隔で呼吸が繰り返される。朱い鳥居の内側は、やはり底知れない暗闇が渦巻いている。呆然としていた撮影者は、我に返って傍らの映美にビデオカメラを向けた。

「映美」

 愛用の鹿撃ち帽を地面に落とし、彼女は尻餅をついていた。しゃがみこんで無事を確かめる。その目線は奇妙な鳥居ではなく、もっと上を向いていた。

「大丈夫、怪我してない?」

 心配する言葉には答えず、震える手で校舎の上を指差した。その指先に従ってビデオカメラを回す。レンズはその光景を捉えた。

 霧に包まれた教室の窓という窓から、数え切れないほどの赤い眼光が二人を見下ろしていた。

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