飛翔
1
抜糸の終わった額の傷を前髪で隠し、翔子は鏡を正面から見つめた。
イメチェンしようと長い髪をバッサリ切ったが、やっぱり少し切りすぎたと思った。ショートにしても咲楽の様には可愛くなれないと痛感しながら、育毛剤って生えてる髪にも効くのかなと思った。
家具が全て無くなった部屋を見渡すと、窮屈に感じていたのに意外と広かったんだと改めて驚く。
今度部屋を借りる時は日常的に掃除をしようと心に誓った。
いつの日になるか分からないが。
住み慣れたアパートの階段を下り、翔子はもう一度振り返ってみる。たくさんの日々を、暮らしを守ってくれたこの場所。
いつの日か、もしまだこの建物が在ったら、やっぱりまた住みたいと思うかも知れない。
その時は、私もこの街も今とは違った風を感じられるだろう。
翔子は駐輪場に置いてある赤いスクーターに跨りエンジンをかけた。
ブビビビビン!とへなちょこな音がしてやっぱり吹き出してしまう。慣れるにはまだ時間が掛かりそうだ。だけど小さくても頑張ってる感が愛おしい。
新しい相棒に乗り、翔子はアクセルをひねって公道に出た。
天気のいい日はまとめて洗濯をするのが弥生の日課だった。母親代わりの自分がやらないと、アホな弟達は汚れたまんま平気で出かけて行く。
あいつらがもう少し大きくなったら、自分の事は自分でやるよう教育してやろう。小・中学生でも家事の出来る男子はモテると思うのだが、アイツらは聞く耳を持たない。
何度目かのカゴの中身を全部干し終えた時、下の駐車場に非力そうな原付きがやって来た。
ヘルメットを脱いだのは「誰?」と思うほどの変貌ぶりを遂げた翔子だった。
恥ずかしいのか、ヘルメットと入れ替わりにすぐ帽子をかぶる。
「お嬢ちゃん、おつかい?」
弥生がからかうと「蹴るよ」とはにかんだ。
「寄っていきなよ。麦茶しか無いけど」
弥生の誘いに「じゃあお言葉に甘えて」と翔子は階段を上がった。
県営住宅の二階が弥生たち一家の住まいだ。父親は土日も働いていて、たまの休みは家でゴロゴロしている。本当はもう少し弟たちと遊んであげて欲しいが、毎日一生懸命働いて疲れて寝ている父に無理は言えなかった。その代わり横になっている父親に、
「お父ちゃん、いつもありがとう」
と弥生が声を掛けている事を彼は知らない。
弥生の住まいを訪れるのは初めてだったが、そこには翔子の憧れのものが詰まっていた。
年季の入った扇風機。一年中はずされる事のない風鈴の奏でる音。そして家族の色んなものが貼ってある壁や冷蔵庫。
生活感あふれる"暮らし”の姿がそこには在った。
1杯目の麦茶を飲み終えた翔子に
「行くんだね」
と弥生が言った。
この街を出る事を弥生だけには伝えてあった。
翔子は静かに「うん」と頷く。
「行き先は、決めてるの?」
「まだ全然。とりあえず遠くへ。そして色んな所を見てみたい」
この街に生まれ、この街で育った翔子にとって、ここは人生の全てだった。
だが、まだ見た事のない世界で様々なものを見聞きしたい、そう思うようになった。
それに今の翔子にとって、この場所は思い出や悲しみがあまりにも大きすぎて、しばらく離れていないと心が潰れそうだった。
いつかこの場所を故郷と呼べる日が来るまで、そして帰りたいと思える様になるその日まで、新しい風を感じながら生きてみたい。そう思うのだった。
「そっか」
弥生は言葉少なに応えた。
「実はね、あたしももう一度チャレンジしようと思うんだ。柔道」
翔子は弥生を見つめた。
「今はまだ在学中だけど、卒業したら社会人になる。そしたら追っ払れた学校柔道連盟とは関係ない、一般人として活動出来る。大会にも参加できるから、また自分の力を試してみたいんだ」
「そっか」
翔子も言葉少なだったが、親友の前向きな姿が心から嬉しかった。
「昔と違って、今は心も体も比べものにならないくらい強くなった。色んな場数を踏んできたからね。あんたのおかげだよ、翔子。あんたと黒羽の」
ありがとう。と言われて、翔子の胸に込み上げてくるものがある。
瞼(まぶた)から想いが溢れてしまう前に、「さぁそろそろ行こうかな」と翔子は腰を上げた。
ちょうどその時、誰かが階段を上がった来る音が聞こえてくる。
「間に合ったみたいだ」
玄関のドアを弥生が開けると、そこには葵と理沙が立っていた。
弥生が二人を招き入れ、驚いている翔子に振り返る。
「ごめん。抜けがけしたって、後で恨まれるの嫌だったから。さっきメールで知らせたんだ」
黙っててごめんと弥生は手を合わせたが、それは自分の方だと翔子は思った。
みんなに会えば決心が揺らぐ。だから黙っ
て旅立とうとしていた。でもそれは自分本
位だ。本当ならみんなにきちんと挨拶して
から発つべきだったんだ。
その機会をつくってくれた弥生に
「ううん」と首を横に振って、ありがとうと言おうとした時、理沙が黙って翔子に抱きついて来た。
「理沙…」
彼女は鼻をぐすぐすさせていたが翔子を責めたりせず、自分の気持ちを伝えた。
「あねご…。ありがとう姉御。姉御に会わなかったら、あたしはひどい人間になってた。取り返しのつかない事してたかも知れない。姉御に、翔子さんに会えたからあたしは自分を、自分の人生をもっと大事にしようって思える様になれた。そして、大切な人達の事も。本当にありがとう」
そんな事言わないで。私の方が泣きそうだ。
「私こそ、理沙に逢えて本当に良かったよ。ずっと慕ってくれたね。私の方こそ救われたんだよ。本当にありがとう」
翔子は理沙をぎゅっと抱き締めた。
理沙はうえぇ〜っと子供の様に泣いて顔を覆った。
葵が眼に涙をためて翔子に近づく。
「姉さん…」
今度は翔子の方から抱きついた。彼女は黙って翔子を抱きしめる。大怪我を負った左腕も、こんなに力がついたんだよと伝えるように力強かった。
「感謝しかないよ姉さん。相良翔子は最強で最高のリーダー。これからも、ずっとそうだよ」
翔子は葵の胸に顔をうずめた。
(涙、止まれ。出てくるな。私は自分の想い
で旅立つんだ。笑ってさよならするんだ。だ
から、もう少し堪えていて。この温もりだけ、
覚えさせていて)
葵はそっと翔子を離した。そして向こうを向いてすーはーすーはー息をしている。翔子に涙を見せまいとする彼女の心遣いだった。
翔子は弥生を振り向いた。
「やよ……」
弥生は明るい声で応える。
「あたしゃまだ泣かないよ。別に永遠(とわ)の別れって訳じゃないんだから。地球に居る限り、いつか翔子は帰ってくる。…多分だけど。その日まであたしはここに居るから、思いっきり見てきなよ。自分が見たかった世界を。
そうしていつか帰って来たら、土産話を存分に聞かせておくれ」
「ぷっ!」
お婆ちゃんのような言葉にみんなで大笑いした。
みんな涙が出るほど、笑っていた。
弥生を先頭に玄関に集まるみんなに
「じゃあ、ここでいいから」と翔子は声を掛けた。
「おすっ!」弥生は力強い握手で見送った。
「弥生さんちょっとしゃがんでよ、私が見えない…」狭い玄関で懸命に顔を出そうとする理沙とそれを巧みにブロックする弥生。
「ちょっとー!」
「まぁまぁ、いつか帰って来んだから。多分だけど。あっ、ベランダから見送ろう!」
理沙が我こそは、とダッシュする。翔子は足早に階段を下りた。
ベランダの三人に手を降って翔子はスクーターのエンジンをかける。ブベベベベという愉快な音を聞いて、「いい音させるなぁ」と弥生がにんまりした。
翔子がスタンドを戻してアクセルをひねろうとした時、
「カーラスーがなーくかーら帰ぁえろっ!」
と、弥生が大きな声で歌った。
翔子は左手をサッと挙げて振り返らずに走り去った。
泣いてる顔をみんなに見られたくなかった。
「行っちゃったね…」
葵が寂しそうに呟いて理沙と一緒に部屋の中に戻っていく。
弥生は頼りなさげなスクーターの音をいつまでもにんまりと聞いていた。
涙はその口元まで、頬を伝ってこぼれていた。
2
道路はこんなにも遠く果てしないものだったのかと翔子は改めて思った。
排気量400cc の単車に比べると、僅か50ccしかない原付きバイクは気の遠くなるほど遅かった。
かなりの時間をかけてようやく県境に差し掛かった頃には辺りはもう薄暗くなっていた。
翔子は休憩の時に調べておいた道の駅に立ち寄った。規模の大きな施設で裏手にはアスレチックを備えた大きな公園がある。
24時間開いてる食堂や売店はもちろん、高速のサービスエリアも兼ねているせいか長距離ドライバーやバイカー達に人気の宿泊施設まである。宿泊施設とは言っても、畳2畳分ぐらいの部屋が左右にズラリと並んでいて 中は簡易ベッドと僅かなスペースがあるだけ。テレビもテーブルさえも無かったが、施錠式の扉で個室になっていて少し行けばワンコインで使用出来るシャワー室もあり、公衆用の綺麗なトイレも近かった。
旅慣れてない翔子にとっては大満足で、何よりベッドで眠れるというのがありがたい。
世の中にはこんな便利なものがあるのかと、まだ始まったばかりの旅なのに未知の世界で翔子は早くも感激していた。
今の時期は観光シーズンでもないので部屋の空き具合は問題なさそうだ。
広い駐車場にはバイク専用スペースもあったが、大型バイクや高そうなバイクが巨体を並べる中、さすがにスクーターをちょこんと停める勇気は無かった。
翔子は駐車場の端のほうに、なるべく目立たない様にスクーターを停めた。
とりあえず空いてる部屋に入り荷物を置く。スクーターには荷台が無いため大きめのリュックに全て詰め込んでずっと背負っていた。
何処かでキャンプも出来る様にとそれなりの道具も入れたのだが、考えてみたら必要な時に購入すれば済むわけで、今はただ邪魔なだけの装備を今後どうするか考えねばなるまいと思った。
サッとシャワーを浴びて部屋に戻る。馴れない乗り物と長距離を移動したせいか、思ったより疲れていたようで、ベッドに横たわり30分も経たないうちに眠り落ちた。
―――夢の中で、私は小学生に戻っていた。
父が車庫からバイクを押して出てくる
どこへ行くのと声を掛けると
今日は天気がいいからちょっと、と答える
一緒に来るかと言われて私は大喜びする
後ろの席に私を軽々と持ち上げて乗せ、
抱っこ紐で自分と私をくくりつける
しっかり掴まってろと言われ、私はその腰
にぎゅっとつかまる
父がエンジンをかける
息を吹き込まれたバイクは雄叫びをあげる
バイクの音、走る振動、吹き抜ける風
風を遮ってくれる父の大きな背中
何もかもが心地良くて
私の胸は幸せに満たされる
バイクが家に戻るたびに、私はもっと乗り
たいといつもせがむ
また今度なと言われるのが残念でもあり
その笑顔で "また今度”が楽しみにもなる
ベッドで父が眠っている
白いシーツを掛けられ
顔にまで布が被せてある
母がベッドの側で泣いている
私はベッドに近づき そっと布をめくる
父が穏やかに眠っている
その冷たくなった頬を私はぺちぺちと叩
いてみる
父は目を覚まさない
今度は体を揺すって、お父さんと呼んでみ
る
父はその目を開かない
口を開けて返事もしない
今度は激しく揺さぶって大きな声で父を
呼ぶ
早く起きて、バイクに乗せてと大声で叫ぶ
父は目を覚まさない
私は泣きながら何度も父を呼ぶ
知らない大人が、父の顔に布をかける
私は大声で、それをやめてと訴える
目を覚ました時、びっくりするから
息をする時、苦しいといけないから
知らない大人が私を引っ張る
私は暴れて振りほどこうとする
やめて
私をお父さんから離さないで
私が起こしてあげるんだから
早く起こしてバイクに乗るんだから
父は目を覚まさない
バイクに乗るぞと、起こしてくれた父が
今度は私が起こしてあげたいのに
さあバイクに乗ろうよって、
起こしてあげたいのに―――
目を覚ますと、涙がこめかみを伝って耳の側までこぼれていた。
悲しい夢を見ていた気がする。
翔子はさっさと着替えを済ませ、トイレの洗面台へ顔を洗いに行った。
「ひっどい顔!」
目は腫れぼったくなり、涙の痕と、口元にはヨダレの痕までついている。
急いで顔を洗って誰にも会わないように気を付けながら部屋に戻った。
夢を見て泣いたんだろうか。それとも疲れと寝不足のせいか。
アメニティキットで軽くメイクを済ませてからスマホを見ると、14:05を表示していた。
一瞬、何の表示かと思ったが、どう見てもそれは現在時刻だ。
ゆうべは疲れていて目覚ましをセットした覚えはない。急ぐ旅ではないが、こんな所で寝過ごしてしまった。こんなにたっぷり寝といて寝不足も何もあったもんじゃない、と翔子は急いで支度をした。
部屋を出て食堂を通り過ぎながら、ゆっくり食事も楽しみたかったと後悔した。
そういえば、夢の中に父が出てきた気がする。
いつだったか。学校の帰り道、工事をしていたので別の道で帰った。その道で、小さなバイク屋を見つけた。
"木戸モータース”と書かれた古い看板の店だったが、店の前に並べてあった1台のバイクを見た時、足が止まった。
――父のバイクだ。
正確には翔子の父親が乗っていたのと同じ型のCB400だったのだが、彼女は父親がバイクの手入れをする時いつも側で見ていたので細部まで記憶していた。
その日以来、翔子はその道を通学路にして毎日の様にそのCB400を見ていた。
ある日、ぼーっと立ち止まっている翔子に気付いたバイク屋の主人が
「この単車、気になるかい」と声を掛けた。
“たんしゃ”というのが何の事か分からなかったうえに、突然声を掛けられて驚いた翔子は「すみません」とその場をあとにした。
人の良い主人は
「またいつでもおいで!」と、走り去る翔子の背中に声を掛けた。
数日の間はその道を通らなかったがどうしても気になり、再び木戸モータースに行った。
多少の入れ替わりはある様だがあのバイクはまだ店に置いてあった。再来した翔子に、
「こいつはCB400っていう単車でね。長年バイクを造ってきた歴史あるメーカーの、俺は最高傑作だと思うんだよね」と熱く語ってくれた。
詳しい事はよく分からなかったが、翔子はそのバイクに釘付けだった。
「最近じゃちょっとヤンチャな子達に人気があるけど、おじさんそこいらの小僧に乱暴に乗り回されるより、お嬢ちゃんみたいな子に乗ってもらいてぇな。そんなに気に入ったなら乗ってやってくれよ。お嬢ちゃんが免許とって乗れる様になるまでとっとくからさ」
モータースの主人は、特別な人間が持つ何かを、この少女のバイクを見つめる瞳に感じていた。
だがこの時はまさか、彼女が本当に買いに来るとは思ってもみなかった。
翔子は懸命にアルバイトして、欲しいものも全部我慢して免許を取りに行ったのだ。
彼女の本気度に感激した主人は、納車前に出来る限りの事をしてやろうとメンテナンスを施し、車体もピカピカにして待っていた。
翔子はお礼を言って鍵を受け取ると、長い間眠っていたバイクに初めて自分でエンジンをかけた。
息を吹き込まれたバイクが雄叫びをあげる。
その音は父が、そして幼い自分が愛した物と同じ音だった。
誰も見ていない所で一人、翔子はしばらくの間バイクのハンドルを握って泣いていた。
「お父さん…」
翔子にとってCB400は愛馬であり相棒であり、そして父の背中だった。
運転中は父を乗せているつもりで走り、スピードを出すときは「お父さんしっかり掴まって!」と心の中で呼びかけた。それは黒羽にいる時でも変わらなかった。
道の駅、駐車場の隅っこでポツンと持ち主の帰りを待つ赤いスクーターを見た時、
「あぁそうだった」と思い出した。
今はこの子が相棒だ。
あの日、大切な人の仇討ちのために犠牲にしてしまったCB400。
信念で行動した事に悔いはなかったが、しばらくは「お父さん、ごめん」と立ち直れなかった。
赤い相棒に跨りエンジンをかける。
ブビン!ブベベベベ…。
頼りない音に愛情と笑いが込み上げてくる。新しい相棒と一体になれるにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
お父さんも苦笑いしてるかな、と翔子はそっと思った。
3
県境を越えると、いよいよ新世界に突入した気持ちになる。
どんな世界が私を待ち受けているんだろう。
信号待ちをしていたら内ポケットから着信の音が聞こえた。だが、もぞもぞしてるうちに呼び出しは切れてしまった。
誰だろう?
信号が青に変わったのでとりあえず最寄りのコンビニに寄る。
着信画面を確かめると弥生からだった。そのまま折り返すとすぐに彼女が電話に出た。
「もしもし?どうした、やよ。もう恋しくなっちゃった?」
弥生は笑いながら、「まぁそれもあるけどね」と否定しなかった。
「あのさ、手塚さんいるじゃん?手塚沙織さん」
ちょっと懐かしくなる名前だ。
「あぁ "元" 孔雀のね。あの人がどうした?」
「う~ん、あの、また聞きの又聞き何だけどさあ。彼女入院したらしいよ」
一瞬、翔子はぶるっと身震いした。
(沙織が入院?どうして?まさか事故?…でももう無茶な走りはしないって、あの時言ってた)
翔子は眉間に力が入ったまま「何で?」と、なるべく冷静に尋ねる。
「う~ん、ごめん。詳しい事は分からないんだけど…なんせ又聞きの又聞きだから」
弥生は申し訳無さそうに言ったが、情報をくれた事は有り難かった。でも今の翔子は不安しかない。
「どこの病院か、わかる?」
「名前とかは分かんないけど、県内でも大きい所とか言ってたかな」
もし県内で一番大きい病院だとすると、広域総合メディカルセンターというのがある。そこかどうかは分からないが、まずは行ってみようと思った。弥生の情報網は決してデマなどではないはずだ。
「ありがと。ちょっと行ってみる」
「うん。あ、翔子!」
少し慌てて切りかけた電話を、翔子はもう一度耳に当てて「ん?何?」と訊いた。
「あ、ごめん。その…。電話って、いいね」
何だそんな事かと思いかけたが、弥生の気持ちもよく理解出来た。
どんなに離れてても、声が聴けると側に居る様な不思議な安堵感がある。
「ふふっ。そうだね、いいよね」
「うん。あ、ごめん邪魔して。じゃあ気を付けて」
「ありがと。そんな急いぐ旅じゃないから、沙織の所もだけど、あちこち寄り道してみるよ。じゃ、またね」
「うん、またね」
電話を切った後、弥生は翔子の "またね”という言葉が嬉しかった。
翔子は少し落ち着きを取り戻していた。弥生のひとことで止められなかったら、すぐさまアクセル全開で走り始めていただろう。
焦る必要も、意味もない。急いだところで事故のリスクを負うだけだ。
自分の安全は誰かの安心でもある。自らがそうである様に。
遠く離れても、私はもう、一人じゃない。
翔子は深呼吸して、まずは目的の場所を調べた。
原付きスクーターでもここから1時間とかからなそうだ。
少し戻る格好にはなるが、まずはそこへ向かおう。安全に。
翔子は赤い相棒のアクセルを、ゆっくりひねってスタートした。
4
「総合」と名のつくだけあって、そこはびっくりする大きさの病院だった。
外科、内科、小児科はもちろん、眼科、耳鼻科それに歯医者さんまで入っている。まさに医療の中枢施設だ。県内外を問わず24時間患者を受け入れ、屋上にはドクターヘリまで常駐している。
翔子は初めて訪れたが県内にもこんな施設があるとは知らなかった。
だがその大規模さが、かえって彼女を不安にさせた。
こんな所で、沙織はどんな状態なんだろう。
はやる気持ちを抑えながら、ひとまず「中央出入口」と表示のある大きな自動ドアに向かった。
中に入ると、その規模に更に圧倒される。
受付だけでも7つのブースがあり、会計、お薬渡し、医療相談、総合案内などが軒を並べ、まるで空港の搭乗窓口の様だった。
翔子は一番手前の総合案内へ向かい、「あの、友達が入院してて」と戸惑いながら用件を伝えた。
「ご面会ですね。患者様のお名前をお伺いします」
「あ、手塚沙織さんといいます」
係の女性は速やかに端末を操作して「テヅカ・サオリ 様ですね。西棟の3Fになります。各フロアにナースステーションが御座いますので、ご身分の証明できる物をお持ち頂いて三階、ナースステーションでご提示下さい」
"ご面会者様”と書かれたネックストラップを受け取り、翔子は西棟へと足を運んだ。
なるほど。ここまで大きな病院だと誰が何の目的で来ているのか明確にする必要がある、と。セキュリティ管理も徹底してるようだ。
翔子はケースに免許証が入ってるのを確認して、"ご面会者様”カードの裏にプリントされている地図を頼りに目的の場所へ向かった。
西棟に入るとすぐエレベーターがあった。大型の扉はベッドなどを運ぶための物だろう。
3つある普通サイズのエレベーターの真ん中に乗り、3Fのボタンを押す。
エレベーター内にある各フロアの案内を見た時、翔子は あれっ?と思った。
3階は「内科」となっている。怪我じゃなかったのか。同じ名前の別人とか?
でもこんな大病院で、てきぱきと手慣れた感じのあの女性が間違えたとも思えなかった。
3階・ナースステーション。まずはここで訊
いてみよう。
“ご面会者様”のストラップを下げた翔子が「すみません」と声を掛けると、職員の女性が「はい」とすぐ来てくれた。
「手塚沙織さんにお会いしたいのですが」
翔子がおずおずと免許証を提示しながら尋ねると、職員は「失礼します」と言って面会カードと免許証をスキャンした。
そしてインカムを使って
「手塚沙織様へ、相良翔子様がご面会です。A室お通しはいかがですか」と伝える。
しばらくして
「大丈夫だそうです。ご案内致しますね」と職員はナースステーションを出て廊下を先導してくれた。
身分を伝えてOKが出たという事はやはり沙織に間違いないのだろう。
それにしてもハイテク過ぎて色々ついていけないな、と翔子は思った。
廊下の両側に「335、336、337A、337B…」と数字のついた部屋が並んでいる。開いてるドアをそっと覗くと、アルファベットがふってある部屋は個室らしいというのが分かった。
それにしてもこの桁の数、一体何室あるんだ
ろう。
翔子はここでも驚嘆した。
「こちらです」
一番奥の部屋、「358A」のドアを職員がノックする。中から「はい」と返事があり、名前のプレートには「手塚沙織 様」と書いてある。
「手塚さん、ご面会の方がいらっしゃいました。さ、どうぞ、お入りください」
職員に促され、翔子はドキドキしながら部屋に入った。
部屋の窓からは綺麗な夕日が差している。
その光を背に受けベッドに座っているのは間違いなく沙織本人だった。
翔子が入室すると「失礼します」と職員はドアを閉めて案内役を終えた。
改めて沙織を見ると、彼女は少し痩せたように感じた。
「来てくれたんだね」
もの静かな口調で沙織は嬉しそうに微笑む。
「うん」翔子はベッドに歩み寄り、備え付けのパイプ椅子に腰掛けた。
「びっくりした。入院したって聞いたから」
沙織はクスッと笑った。
「誰にも言わなかったから。すぐ出るつもりだったし、お見舞いに来てもらうなんて考えて無かった」
「そっか」
翔子は少し安心した。長い入院生活や大きな治療が必要という訳では無いらしい。
「でも」
目を細めて沙織が翔子を見つめる。
「来てくれて嬉しい。私も本当は翔子に会いたかった」
翔子は少し照れ臭くなって「あれ以来だもんね。すごい久しぶり。少し、痩せた?」
と彼女の印象を思ったまま伝えた。
「そうね。ずっと、あんまり食べてないから」
その言葉を聞いて、翔子にはピンとくるものがあった。
「もしかして、虫垂炎(ちゅうすいえん)?」
いわゆる盲腸炎の事だ。
「まぁ、そんなとこ」
翔子はふぅっと息を吐いた。
「こんなデカい病院だからさ、何事かと思って心配したよ。大怪我でもしたんじゃないかって」
「そうだよね。ごめん。うちの実家がこのすぐ近くだから、ここの方が何かと便利なんだよね」
それで色々合点がいった。虫垂炎だと、治る時にアレだから、若い沙織には個室の方が気が楽なのだろう。
「まだかかりそう?」
「ううん、もうすぐだと思う」沙織が答えた。
「ところで、髪型も変わったけど服装がすごくアクティブ。どこか行くの?」
翔子の身なりを見て沙織が訊いた。
「ちょっと、ね。あたし今までこの街にどっぷり浸かって生きてきたから。黒羽も解体したし、少し新しい風を感じてみたいな、なんて思って」
「そっか」
口には出さなくても、見慣れた日常に咲楽が居ない事を実感するのは心が受け入れ難いのだろう、と翔子の胸の内を沙織は察した。彼女の死は沙織にとっても、人生観が変わるほど大きなものだった。
「移動は?やっぱりバイク?」
「うん、まぁ。今まで乗った事のない貴重な代物だよ。何と排気量50ccの、ブベベベベって頼りなく走る原付きスクーター」
「え、何それ?あはははっ面白すぎるっ。さすが翔子!」
沙織の楽しそうな笑い声に翔子も嬉しくて一緒に笑ったが、「あ、ダメダメ!今そんなに笑ったら傷口が開いちゃう……って、あたしが笑わせたんだけど」
ゴメンと手を合わせた。
「ううん大丈夫。なんか、久しぶりに笑った気がする」
笑い泣きした涙を沙織は拭った。
コンコン、と少し遠慮がちなノックがあり「すみませんお邪魔して。手塚さん、回診のお時間です」と看護師の声がした。
「はーい準備します」沙織はドア越しに返事をした。
「ごめんね。せっかく来てくれたのに」
心から残念で、申し訳無さそうな顔だった。
「ううんこちらこそ、急に押しかけて来ちゃって。でも沙織の顔見れたら安心した。早く退院出来るといいね」と腰を上げた。
「うん」
寂しそうな彼女に翔子は付け加えた。
「あたしまだしばらくはこの辺ウロウロしてるから、また来るよ。意外と近くにも珍しいものが色々あるって分かったからね」
急ぐ旅ではないのだ。また来週にでも来ようと翔子は思った。
「うん。ありがと」
「じゃ、またね」
回診の邪魔にならない様、翔子は椅子を片付けて荷物を背負った。ドアへ向かいかけた時、
「翔子」
と沙織が声を掛ける。
「ん?」翔子が振り返ると
「来てくれて、本当に嬉しかった」と沙織が微笑み、
「ありがとう」
と心のこもった声でお礼を言った。
窓から吹き込んだ風がカーテンを仰いで、ベッドに座る沙織の髪をサラサラと揺らす。
夕日に照らされたその姿は息を呑むほど美しかった。
「うん。またね」
笑顔で手を振り、翔子は病室を出た。
5
一週間を待ちきれず、翔子は再びメディカルセンターを訪れた。
前回作ってもらった面会カードを携えて今日は直接西棟へ向かう。3階ナースステーションの横にある機械にカードをかざすと、「認証」の文字が表示されてそのまま病室エリアへ向かう事が出来た。この方法は病院のホームページに掲載されている情報から得た知識だ。
大きな建物でも行き先と方法さえ理解していれば何て事ない。途中売店で何か買ってってあげようかという余裕さえあったが、何が食べれるか聞いてから後で来ようと思い直した。
358Aは西側の端の個室。綺麗な夕日が眺められる特別な場所、ここだ。
ノックしようとしてふとネームプレートを見ると名前が無い事に気付いた。変だなと思いながらノックをすると返事はない。
そぉっと押すとドアは簡単に開いた。が、ベッドは空っぽで開け放たれた窓からの風がカーテンを揺らしているだけだった。
やらかした。格好つけずナースステーション
で確認して来れば良かった。
翔子は来た方向へ戻りながら、もしかして退院したのかとも考えたが、それならメールか何かで知らせてくれるはずだ。病室を移ったに違いないと思った。
改めてナースステーションで声を掛ける。
「あの、すみません。手塚沙織さんのお見舞いに来たんですけど…」翔子は恥ずかしそうにちょこんと面会カードと免許証を出す。
看護スタッフが面会カードをじっと見て、
「師長」と看護師長を呼んだ。
何だろう。何か問題でも?このカードで勝手に入ってはいけなかったのだろうか。
貫禄のある看護師長がこちらへやって来る姿に翔子は少し身構えた。
「相良翔子さん、ですね」
カードにもそう書いてあるが、翔子は小さく
「はい…」と答えた。
何か言われるのかと思ったが師長はステーションを出て「こちらへどうぞ」と丁寧に案内した。
それは358Aとは逆方向の廊下だ。
やっぱり病室が変わったんだ。
翔子は何となく自信無さげに師長の後をついて行く。
「どうぞお入りください」
そこは "談話室”と表記された部屋だった。中に入るとテーブルにソファー、テレビなどが置いてある。
ここに沙織を呼んでくれるのだろうか。
「こちらへ、お掛けになって下さい」
翔子は何となく落ち着かない気持ちで、勧められたソファーにゆっくり腰を下ろす。師長もテーブルの向かいに座った。
彼女の落ち着きと貫禄を兼ね備えた雰囲気が、刑事に尋問される様な連想をさせて嫌だった。
早く沙織に会わせて欲しいと翔子はのどまで出かかった。
「手塚沙織さんですが」
看護師長は静けさの中に緊張を含んだ口調で告げる。
「彼女は三日前にお亡くなりになりました」
翔子の周りの、全ての音が消えた。
やがて師長の姿だけを残して、周りの景色が白くなっていく。
その師長の姿も、遂にはグラグラと定まらなくなった。
看護師長は機敏な動作で翔子の体を支える。
「大丈夫ですか。ゆっくり息をして」
翔子は言われた通りにゆっくりと吸って吐いて息を繰り返した。
師長は看護師に何か指示をしているがその声も何を話しているのかよく聞こえない。
やがて次第に意識を失った。
―――――――――
1台のバイクが真っ直ぐな道路を走って来る。
孔雀だ。
陽の光の下なのに美しい羽根を広げている。
猛スピードのそれは翔子に近づいてくると
スピードを落とし、ふわっと地面を離れた。
次の瞬間、孔雀だったものは輝く羽根と美しく長い尾を持つ鳳凰(ほうおう)へと姿を変え、
翔子の頭上を二度、三度と廻ったかと思うと
やがて天(そら)高く舞い上がった。
どこまでも高く、どこまでも遠くへと
まばゆい光の粒を舞い散らせながら。
――――――――――
ゆっくりと目を開けた翔子はベッド型になったソファーに寝かされていた。
腕にはテープが巻かれ、点滴の雫が一定の間隔でチューブの中を落ちている。
その雫を眺めながら、そうか自分は病院に来たんだと少しずつ意識が戻って来た。
側のテーブルで書き物をしていた看護師長が翔子の様子に気付き、「あぁ。ご気分はいかがですか」と優しく声を掛ける。
「少し、落ち着きました」
動こうとする翔子に「あ、点滴が終わるまでそのままで大丈夫ですよ」とパックの残量を確認しながら師長は言った。
「すみません」
翔子は再びソファーベッドに体を横たえた。
いつの間にかけられたのか、柔らかな毛布は洗いたてのいい香りがした。
しばらく天井を見つめていた翔子は
「沙織のことを、聞かせて頂けますか」と口を開いた。
師長は少し迷った様にしていたが
「分かりました。お話しします」
と沙織について語り始めた。
手塚沙織は 慢性骨髄性白血病だった。最初に確認されたのは彼女がまだ小学生の時だ。幸い発見も早く初期治療だけで進行が抑えられたため、本人も病気は治ったものと思い日常生活を送っていた。だが沙織が17歳を迎えた頃、病魔は再び目を覚ます。この時は本人もかなりショックを受け、これ程の期間を空けて再発するのは病院としても初めての症例だった。更に彼女を追い詰めたのは、当時の医療技術ではこの病に三度目の治療法はない、という事だった。そのため彼女も院側も、今この時に絶対に完治させるという強い思いで、新薬を投入するなど懸命な治療にあたり、新薬による辛い副作用にも耐え何とか日常生活を取り戻した。だが、諸悪の根源が死滅した訳ではなかった。成人前、定期検診で最も恐れていた三度目の影が見つかる。
この頃から彼女は生きる事への意欲を徐々に失っていった。
翔子は思った。白血病といえば血液のガンだ。だが最初に出会った時、彼女はタバコを吸っていた。
あの頃すでに沙織は生きる事に気力も意味も失っていたのかも知れない。それに、あの無謀とも言える走り。いつ命に関わる事故を起こしてもおかしくなかった。彼女をその行動に駆り立てたのは病に加えて愛する人まで亡くし、自分の人生と命に意味を見出せなかったからかも知れない。
「でも、ふた月ほど前、病院にいらした手塚さんから“時の許す限り 自分の命と生きる事にしっかりと向き合いたい”とお申し出がありました」
二か月前。ちょうど咲楽が命を奪われた頃だ。
「手塚さんは再び治療に専念して私共も国外での治療を検討するなど出来る限りの手段を講じました。…しかし病はすでに、私達の努力の届かない所まで進んでいたのです。
手塚さんは以前の様に取り乱される事もなく、一度ご実家に戻られてご家族と過ごされた後はずっとこちらに居らっしゃいました。そしてどなたにもお知らせする事もなく、ほとんどお一人で日々を過ごされていたようです。
時々庭に出て花を眺めたり、時にそれを絵に描かれたり。
“今まで気付かなかった目に映るもの全てが、命あるものが愛おしい”と口癖の様におっしゃられてました」
看護師長は瞼を拭った。
多分この人は、沙織が初めて来た時からずっと彼女を見てきたのだろう。そして何としても彼女を救いたいと思ったに違いない。
それは、気持ちの上では看護師という職務を超えていたのかも知れない。
この人の無念さをも思うと、翔子は胸が痛んだ。
「私に個人的に、手塚さんからあなた様へお手紙をお預かりしています」
「手紙?わたし、に?」
師長はお辞儀して一旦部屋を出て行き、一通の封筒を手に戻って来た。
「前回お見舞いに来て頂いた後、"もし自分がもう一度彼女に会うことが出来なかったら、この手紙を渡して欲しい”と」
看護師長は翔子のソファーの背もたれを起こして
「点滴が終わりましても、この部屋はそのままお使い頂いて大丈夫です」と伝え、別の看護師を呼んだ。現れた看護師のネームプレートには「チーフ」と書かれていて、師長は自分が許可を出すまで誰もこの部屋へは寄越さない様に指示し、翔子に一礼して自らも静かに出て行った。
翔子は目の前の封筒をじっと見つめる。
表に「しょうこへ」と書かれているだけの、何の飾り気もない普通の封筒だ。
だが、その か細く美しい文字を見ていると、彼女の想いがこの中に宿っている事を感じ、胸が詰まり手はかすかに震えていた。
封もされていないそのふたを、翔子はそっと開けて中身を取り出した。
翔子へ
翔子、ごめんね。黙っていて、ごめんなさい
私はずっと逃げてた。
自分が病気だという事実からも、
それを抱えながら怯えて生き続ける事からも。
誰かに会って、これが最後かも知れない
そう思うとこわくて悲しかった。
ずっと、何もかもから目を逸らして
生きてきました。
だけどあなたにだけはどうしても伝えたくて
知って欲しくて。
あなたがお見舞いに来てくれた後
この手紙を書きました。
自分の事ばっかりで書き方も下手だけど、
私の心の中も全部、伝えたいと思います。
6
幼い頃 私に病気があることが分かりました。 その時は自分の病気について余り理解できず お医者さんも必ず治ると言ってくれたのと、
一定期間のあとは大した治療も必要なく、
時々検診があるだけで普通の生活を送れていたので、ずっとそういうものだと思っていました。
でも高二の夏、授業中に倒れて病気の再発が
判りました。
治療を受けるなか、担当医の方から辛い告知を受けました。
それはこの病気に、今は三度目の治療法が無い、という事。
だから出来る限りあらゆる方法で完治させる
というものでした。
私はかなりショックを受けましたが、全力を
尽くすとおっしゃって頂いた先生方の言葉を
信じて色んな治療を受けました。
卒業まで殆ど学校へは行けませんでしたが
そんな時、いつも寄り添ってくれた同級生が
いました。
彼はいつも面白くて優しくて、体調のいい日は外に出て、時々バイクに乗せてくれる時もありました。
私は彼のことが大好きでした。
彼も彼のバイクも私の憧れで、いつか自分も
風のように翔けたいと思いました。
早く病気を完治させて、自由に遠くまで、一緒に走りたいと願いました。
でももうすぐ二十歳になる頃、三度目が見つかりました。
一人で居られなくなって、その夜に彼に電話を
かけました。
でも感情的になってしまって、今すぐ会いたいと、つい彼に無理をさせてしまいました。
彼にも言えなかったけど、私は本当は彼との
間に新しい命を授かりたかった。
私の生きた証が欲しかった。
でもそれは、永遠に叶わなくなりました。
望むものはもう手にできないと、絶望的な日々を過ごしました。そうしてある時、どうせ死ぬなら彼に迎えに来てもらおうと、今思えば幼稚で短絡的な考えからバイパスで無茶をするようになりました。
でも、いざその時になると、自分から何かに
ぶつかったり転んだりする勇気がなくて、
どうして早く迎えに来てくれないのか、もう
居ない彼に文句を言ったりもしました。
でもね。もしかしたら彼は、ずっと傍に居たのかも知れません。
迎えに来ないんじゃなくて、馬鹿な事をしようとする私の事を、彼はずっと側で守っていてくれてたんじゃないかって。
今ではそう思えます。
あのね、翔子。
あなたとあなた達黒羽は、ずっと私の憧れでした。
あなた達はいつも、どんなに向かい風でも、吹き荒れる嵐でも、時に追い風が吹いても、
仲間と前を向いて翔んでいる。
私にはそう思えました。
かけがえのない咲楽さんが亡くなった時、
辛くて悲しい想いをみんなで分かち合っている姿を見た時、私の中にも悲しみと一緒にひとつの想いが芽生えました。
それは「生きる」という事。
この尊くて儚く、そしてかけがえのない奇跡
があるんだと言うことを。
それは私の中にもあるんだという事を、
咲楽さんと翔子、そして黒羽のみなさんが
教えてくれました。
それは誰にも等しく与えられたたったひとつの確かな光。
庭に咲く花の様に、色んな形や色があって。
時々強い風に吹かれて、折れそうになってしまう事もあるけれど、私も自分の命を精一杯に生きよう。そう思いました。
ねぇ翔子。
あなたが病室に来てくれた時、私ほんとうに
嬉しかったんだよ。
神様がね、もし居るんだとしたら、最後に会わせてくれたのかなって。
私の人生はね、翔子。あなたに出会えた事で
本当に本当の宝物になったんだよ。
世界中どこを探しても、ここにしかいない、
たった一人の翔子に出会えて、
私はとっても幸せだったよ。
あなたが今日を生きて、明日を変わらず迎えられて、時々の辛い事もいつの日か大きな幸せにつながる様に、祈っています。
彼が私を守ってくれたように、私はずっと翔子を見守っているよ。
だから。ねぇ翔子。
時々私の事を思い出してくれるかな。
そしてあなたはとってもかけがえのない、世界でたった一人の宝物なんだっていう事を、時々思い出してくれたら、嬉しいな。
大好きだよ 翔子
ありがとう
ずっと忘れないよ
本当に本当に ありがとう
どうか幸せになってね
――沙織――
談話室からいつまでも聞こえる泣き声に、看護師達が何度となく足を運んだ。入口には看護師長が居て、
「私がついてるから」という様にゆっくり頷いた。
彼女の瞳もまた、涙で濡れていた。
まだしゃくりあげる声が続いていたが、師長は医療の立場から飲み物を携えてドアを軽くノックした。返事は出来ないであろうという事は分かっていたので、彼女は「ごめんなさいね」と声を掛けてそっと部屋に入った。
入口にはまだ「入室禁止」と掲げたままにしてある。
「ゆっくりでいいから、少し飲んで下さいね」
冷たい水の入ったケトルとコップをトレーに乗せてテーブルに置いた。
目を真っ赤に泣き腫らして、未だひっくひっくと肩を震わせる姿をたまらない気持ちで見つめながら、優しい口調で用件を告げる。
「手塚さんがナースステーションで記入されたのは ご実家の住所らしいんですけどね」
看護師長は沙織が息を引き取る直前、弱々しい声で直接頼まれていた事があった。
「相良翔子さんがお見えになったら、手塚さんのご実家の方に寄って頂くよう伝えて欲しいって」
そっと差し出された紙にはここの近くの住所が書き記されていた。
7
その家は高台の閑静な住宅地にひっそりと佇んでいた。
高台から見下ろすと、町の風景の中にメディカルセンターを眺める事が出来る。
翔子は住所を確かめて「手塚」と記された表札の下にあるインターホンを押した。
はい、という声に続いて中から背の低い女性が姿を現した。その顔立ちと優しそうな眼差しは沙織の母親に違いないとひと目で分かった。
「相良翔子さんですね」
小さくもしっかりした声に翔子は静かに頷いた。
「沙織から伺っています。どうぞ中へお入りください」
翔子は母親に案内され、居間の向かい側の部屋に通された。
落ち着いた色合いのカーテン。電気スタンドの乗った小さな机と椅子。様々なものが並んでいる低めのカラーボックス。
ここは沙織の部屋だったことは想像に難くなかった。
カラーボックスの上には はにかんだ笑顔の沙織の写真が立てられ、その横には仏具、そして沙織の納められているであろう四角い箱が、綺麗な白い布で包まれていた。
「ごめんなさいね。うちには仏壇が無いものですから」淋しそうに母が詫びた。
娘に先立たれた親の気持ちはどれほどのものか。翔子には想像がつかなかった。
母親は片隅に寄せられている座布団を一枚、カラーボックスの前に用意した。訪れた人は皆ここで手を合わせるのだろう。
翔子は母に頭を下げ、座布団の上に正座して写真の中の沙織を見つめた。
いつ頃に撮られたものだろう。翔子が出会った時より快活で、輝きを感じさせる姿だった。
だが翔子の知る彼女の整った顔立ちは、この写真の美しさのままだ。
翔子は線香を一本手に取り、母親が灯してくれたロウソクで火をつけ、香炉の灰の中にそっと立てる。
そして手を、写真に手を合わせようとするのだが、心のどこかがそれを拒んだ。
認めたくないものを認めてしまう、そんな感じがした。
息を吐き、やっとの思いで小さく震える手を合わせる。
こんな日が来るなど、思ってもみなかった。
沙織の写真を見つめ、そっと目を閉じた。
留(とど)めていた涙が静かに頬を伝う。
目を開けて、合わせていた手をおろした。沙織は写真の中で変わらず笑みを浮べている。
息が苦しくなる。
なおも涙をこぼしながら写真を見つめる翔子に、沙織の母親がハンカチを差し出してくれた。かすれた声で小さく礼を言い、受け取ったハンカチで涙を拭いた。
ハンカチにはキンセンカの花が刺繍されている。
同じものが、机の上のスケッチブックに描かれていた。沙織が病院の庭で描いたものに違いなかった。
最後のとき。病院の庭で花を愛で、それを描いた沙織の姿を思い浮かべて、どんな想いだったんだろうと翔子はまた涙が溢れた。
翔子の気の済むまで、母親は静かに側に居てくれた。
写真の傍らにバイクのキーが置いてある。
彼女の命を最後まで守り、孔雀という伝説を築いた。彼女と、彼の形見のバイクだ。
「……覚悟は、していたつもりだったんですけどね。いざ本当に居なくなってしまうとこれ程までに淋しくなってしまうものかと…。
今はとても、まだ受け入れることが出来なくて、なんとかこうして お手を合わせに来て頂ける方々にお会いさせて頂いては居るのですが。今は、それが精一杯で…」
翔子は胸が締め付けられる想いだった。
無理もない。
他人の自分ですらこれ程の喪失感で苦しくなっているのだ。実の娘を、ましてやたった一人の我が子を亡くした悲しみなど、想像する事さえ憚(はばか)れた。
翔子は少し迷ったが、先ほど貸してもらったハンカチを、自分が使ってない方に折り返して差し出した。自分はハンカチを持って来ていなかった。
沙織の母は、「ありがとう」と小さく礼を言って涙を拭いた。
8
「翔子さん。実は、沙織からあなたへと頼まれている事があるんです」
「何でしょう」
沙織の母はカラーボックスに手を伸ばして
「これです」とバイクのキーを差し出した。
「これ、は?」
どういう事だろうと翔子は尋ねた。
「先日病院から一時帰宅を許された時、あの子は身の回りの物を整理していました。綺麗にして、感謝を込めて。そしてこの鍵を私に預けてこう言いました。
“翔子さんという人が来たら、これを渡して欲しい”」
翔子は差し出されたバイクの鍵を見つめた。
「 "もし翔子に受け取ってもらえたら、本当に嬉しい”そう、あの子は話しておりました。
私は乗り物には疎(うと)いのですが、オートバイは裏の車庫に仕舞ってあります。よろしければご案内しますので。どうぞおいで下さい」
翔子は母親の後をついてガレージへ向かった。
シャッターが開けられると、カバーに覆われた個体があった。母親が結び目をほどいて、馴れない手つきでカバーをめくる。
そこには、沙織の愛したトライアンフが、主を失った名馬が、ただ静かに佇んでいた。
翔子は困惑していた。
「あの、よろしいのですか?お母様やご家族の皆さんにとって、彼女の大切な、その…形見ではないかと。それを、私なんかが…」
沙織の母は優しく微笑んだ。
「あの子の願いです。大切なものだからこそ、あなた様に託したんだと思います。使って頂けたら、きっと喜んでくれると思います」
オートバイをよく見てもらうために、母親はしばらくその場を離れた。
限られた貴重な時間に、沙織が懸命にこの車体を磨く姿を翔子は思い浮かべた。
いや、限られた時間だったからこそ、この自分の分身であり彼の形見でもあるバイクに、精魂を注いだのかも知れない。
孔雀と呼ばれるきっかけになった鮮やかなランプは全て外され、車庫の隅にしまわれている。
ふと、燃料タンクの上に小さな紙が貼ってあるのに気付いた。
そこには沙織の手書きの綺麗な文字で、
“風立ちぬ いざ生きぬやも”
と記されていた。
それは沙織からの最後のメッセージ。
きっとここに来ると信じて翔子に宛てた、彼女の想いであり願いであり、そして祈りだった。
翔子はタンクにしがみついて、一人 わぁわぁと泣いた。
人生には辛い事がたくさんある。悲しい事
も、苦しいことも。
時にはそれが続けざまに起きて打ちのめさ
れそうになる時もある。
生きるのが、辛くなるほどに。
それでも風は吹いている。
この世のある限り。人生が続くかぎり。
さぁ。生きていこう。
あの日沙織が話してくれた言葉が胸に蘇った。
それでも私たちは 生きてゆくんだ、と。
翔子は辺りを見廻して先の尖った道具を探した。
それを手に取り、沙織の手記をそっと剥がしてポケットに入れ、そのメッセージをタンクに刻みつけた。
いつ、どこにいても彼女の想いが目に触れるように。
それを目にするたびに、沙織や咲楽、そして自分の命の尊さを思い出せるように―――。
――――――
バイクの登録手続きが完了したとの連絡を受けて、翔子は再び手塚家を訪れた。
手続きは全て沙織の父親がやってくれていた。翔子が乗ってきたスクーターも、各種の手続きなど、全てやってもらえるとの事だった。
沙織の両親が見守るなか、翔子は初めてのバイクに息吹を吹き込む。
ドルン!ドルルルルル…
小気味よい排気音を奏で、トライアンフは再びその声を上げた。
新たな主の到来を待ちかねたかの様に、エンジンは力強くうなり車体を震わせる。
両親に丁寧にお礼を言い、翔子はバイクに跨った。
心なしか二人の目が潤んでいるように見えた。
翔子は沙織のメッセージを胸ポケットに入れ、そこにしまっておいた桜のピアスを耳につける。
そしてヘルメット越しに深くお辞儀をして愛馬と共に走り出した。
両親は寄り添いながら、いつまでもその姿を見送っていた。
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