掲揚(けいよう)


          1


ひと月に一度の定例集会。今日はメンバーのほとんどが参加している。何か大事な話があるらしいとの事で、集まりはやや緊張ムードが漂っていた。

「みんな、ちょっと聞いて欲しい」

総長直々に、みんなに向かって声を掛ける。 メンバーは全員、彼女に注目した。

「あたしら黒羽は、今やこの街では名の通ったグループだ。最強のチームと呼んでる奴もいる」

そうだそうだと多くの者が頷く。

「でも街には、こすい悪さをする奴、シメてやんなきゃならない連中が沢山いるのも事実だ」

この言葉にも多くの賛同が得られた。

「そこでだ。あたしはそういう輩(やから)に鉄槌を下すべく、黒羽の新しい活動を展開したいと考える」

こんな風に提案されるのは初めての事で、全員黙って話を聞いている。

「具体的には黒羽のメンバーを3隊に分け、それぞれの持ち場を巡回して、悪さしてる奴を片っ端からシメていく。 格好悪い言い方をすれば、街の自警懲悪部隊。

通称“A·RI·SA(アリサ)”だ!」

ここで、用意していた横断幕を 咲楽たち幹部が ちょっと恥ずかしそうに広げる。

そこには「A・RI・SA」と横に大きく書かれた文字と、その下に3部隊の各隊長、以下隊員たちの名前がずらっと記されていた。

メンバー達からは「おおっ!!」と思いのほか歓声が上がり、五人衆全員が心の中で安堵した。

総長が続ける。

「A·RI·SAのアルファベットは各部隊長の頭文字「A」は葵、「RI」は理沙、そして「SA」は咲楽を意味する。各隊にはメンバーの数をおおむね平等に分けて7〜8名ずつ配備。 巡回区域は後で詳しく説明するが、住宅街は引き続き走行区域外とする。但し、対象が当該区域に逃走した場合のみ、追跡もやむなしと考える。 なお、全員GPSを起動し緊急または応援を要する場合は、規模に応じて巡回エリアを越え速やかに対応にあたるものとする。

私からは以上だ」

総長のこれまで見たことのない統率感、そして甦ったかのような覇気と迫力に、一同は静まりながらも心の底から沸いていた。

「では、続いて副総長」

翔子が弥生を壇上に上がらせて入れ替わる。

いつもなら先ほどの様な声掛けは副総長である観音寺が担っている。それゆえ今夜はいつもと違う空気感が集会の場に漂っていた。

弥生は全員を見渡し、コホンと咳払いをして口を開いた。

「え~、今の総長の口上(こうじょう)、格好良かったろ?すっげー練習したんだぜ」

袖から翔子が「言うなって!」と声を出す。会場には笑いと、いつもの和やかな雰囲気が戻ってきた。

「まぁそういう訳だから、みんなこれからはなるべく集まりに参加して欲しい。人数が少ない時は各隊で調整するけど、あんまり少ない時は活動範囲を縮小したり、管轄エリアを省く場合もある。少人数で大きなトラブルにあたる事は避けたいからね。仲間を危険から守る、っていう総長の信念はこれからも継続される。それでも危ない目に遭いそうな時は、各隊で協力し合える様にする。まぁ、黒羽の名前を聞いて挑んでくる奴なんて、そうそう居ないだろうけどさ。 事によっちゃあ私も動くからね」

仁王様が動く。観音様が怒る。

それは民(たみ)を罰する時ではないかと、皆がおそれおののいた。だが、まずそんな事は起こり得ないだろう、とも。

「あの…、あ、押忍。すみません、それでその、隊には名前とか呼び名はあるんでしょうか」

入って間もないメンバーの一人が質問した。 それは便宜上、五人衆も考えてない訳ではなかった。

これには葵が答える。

「数字とかアルファベットだと第一、第二とかA隊B隊とかってなるんだろうけど、どの隊が一番って訳でもないし。今回は名前の頭文字が使われててアルファベットだとややこしくなっちゃうからねぇ。一応、何々組とか名前を使った呼び名にしようかって事にはなってんだけど…」

「だからそれはヤだって言ったじゃん!」 咲楽が口を挟んだ。

「……ね。一部からモウレツな反対があった訳よ」

メンバー達が不思議がっているので咲楽が訳を話した。

「ん〜…他の人はいいよ、"葵組”とか "理沙組”とか別に問題ないじゃん?けどあたしの場合、"さくら組”だよ?幼稚園じゃんそんなの。全然格好つかない」

メンバーの中からくすっと微笑む声も出た。

「えーっさくら組、いいじゃないですか。かわいい!私、咲楽さんの組で良かったなって、本当にそう思います!」

さくら組に配属されたメンバーの一人が言った。 他にも、選ばれた者たちからは嬉しい、かわいい、と好評だった。咲楽の人柄の良さも要因のひとつだろう。

「…だそうです。どうします?咲楽さん」

翔子が笑顔で返答を求める。

「もうっ。名乗る時に「さくら組じゃあ!」って言って、笑われても知らないからね!」

プッと吹き出した翔子につられ、みんなで笑った。咲楽も口をとんがらせながら一緒になって笑っていた。


黒羽の新しい章が幕を開けた。



           2


片側2車線ある幹線道路の右側を1台の軽自動車が走っている。 先の方にある交差点を右折したいのだが、車の流れが多くやっと隙間を見つけて車線を移動出来た。このタイミングならまだ距離があり、気持ちにも少し余裕が持てる。 運転している女性は免許を取って1年を経過していたが、普段乗る機会が少ないため運転には自信がない。そのうえ夜はほとんど運転した事がなく、こんな大きな道路も出来れば避けたかった。だが両親の住む実家へ向かうにはここを通らざるを得ない。 特に今日の様な、急な用がある時は。

あと2つ信号を越えれば目的の場所で右折出来る。そう思っていた矢先、知らないうちに大きな白い車が自分の真後ろに来ていた。

ピッタリと付かれ、右に左に車体をゆらゆらしている。

よけたいが、今車線を左に移ると戻ってくるタイミングが無い。それに、またこの流れに割り込む自信もなかった。

(そんなに急いでるなら左から追い越してくれてもいいのに)

不慣れな運転と接近されている恐怖で彼女はパニックになりそうだった。 バックミラーに映る白い車は、更にライトまでチカチカさせてくる。

どけ、という意味なのは分かっていた。

 もう限界。遠回りになるけど、左に寄せて別

 の道で行くしかない。

お母さんごめん、と思いながら彼女がウィンカーを左に出しかけた時、後ろの方からウォンウォンとアクセルを吹かしながら、今度はバイク集団が走ってきた。

  はぁ~、今日はなんて日だろう。

彼女はウィンカーを出すのをやめ、バイクたちが通り過ぎるのを待った。 ところがバイクの集団はなかなか前に行かない。

もぅっ早く行っちゃってよ、と彼女がミラーを見ると、バイクの一人が鉄パイプの様なものを掲げて白い車を威嚇している様に見える。 何かのトラブルだろうか。

後ろの白い車はバイクに制されるようにスピードを落とし、おかげで彼女は目的の場所で無事に右折する事が出来た。

黒いバイク集団はウオオオオーっと走り去り、白い車は少し間を空けておとなしく走って行った。

右折を終えた彼女は、あのバイク達が自分のために、ひいては白い車への警告のために行動していたとは露(つゆ)程も知らなかったが、黒いバイクの集団はまるでカラスの群れみたいだな、と思った。


白い高級車をおとなしくさせてから、葵は屈強な右手に握られた鉄パイプを収納して顔をしかめた。

「ホントこの辺りああいうの多いな」

それにしても、最近後部座席でこの役ばっかりだけど、たまには先頭をリードして走りたいな、と少しつまんなそうな顔をした。


白い高級車の運転手は道路脇に車を停め、荒い運転を繰り返していた結果あの黒羽に目をつけられてしまった事を後悔し、その後しばらくはおとなしい安全運転を心掛ける様になった。



          3

 

駐輪場に目を惹くバイクが停めてある。 ちょっとヤンチャな感じも黒塗りされた車体も自分好みだと彼は思った。しかもキーが差したままになっている。

 チョロイ。今日はアタリだ。

彼はほくそ笑んでバイクに跨った。

このツカジという男はバイクを繰り返し盗んでは乗り回し、最後はガソリンをかけて燃やすという悪質な常習犯だった。 今日も何食わぬ顔で獲物のエンジンをかけその場を立ち去る。

この辺りでキーを差したまま置いとくなんて、マヌケな奴も居るもんだ、と鼻で笑った。

バイクのステップ付近に、フレームと呼ばれる鉄の骨格がある。そのフレームに黒羽の紋章が刻まれている事など、彼は知る由もなかった。


24時間営業のホームセンターの立体駐車場。その3階のいつもの場所に、ツカジは盗んだバイクで乗り付けた。

"ツレ”の奴らが、 「おっ!?」という顔で自分を見ているのが気分良かった。

エンジンを止めて、「おう」とドヤ顔でバイクを降りる。

「カジ、すげーじゃん。単車替えたのか」

ツレの一人が早速食いついた。

「まぁな」

改造原付きスクーターからのランクアップ。みんなの反応は思った通りでツカジは満足げだった。

「音もイカしてんじゃん。どこのだこれ?」

別のツレがマフラーのメーカーを尋ねたが、ツカジは

「知らん。俺が付けたんじゃねーし」と答えた。

その一言で、一同は「ああ」と納得した。

「こんなデケーの、よう盗(や)れたな。どこに転がってたん?」

「駐輪場に"乗って下さい”って置いてあったから、じゃあ乗ってやるかって攫(さら)って来た」

全員がギャハハと笑った。

「おめーいつかパクられっぞ」

手癖の悪いダチを茶化しながら、その戦利品を羨ましそうに皆で眺める。

四人で盛り上がっていると、1台のバイクが立駐のスロープを上がって来る音がした。排気音からしてヤンチャなバイクのようだ。 他に誰か呼んだっけと思っていると、駐車場の照明を受けた黒いバイクが姿を見せた。それは迷う事なく四人の方へ向かって来る。

「あっ?誰だ?」

見慣れないバイクに、全員が目つきを険しくした。

だが近付いて来るにしたがって相手が女だと分かり、「おお♡」と全員同じ反応を示した。

女の子はバイクを停めて、四人の所にスタスタと近付いて来る。

「こんばんにゃ〜おねえたん!」

「なになに、だれ子ちゃん?」

彼等の言葉を無視して彼女は黒いバイクの横にしゃがんだ。

「お〜俺のバイクにキュンときちゃった?」

ツカジが声を掛けながら近付く。

「これ、あんたの?」

ステップの辺りを凝視したまま女の子が訊いた。ツカジ好みの、キリッとした可愛い子だった。

「そぉだよ〜お姉ちゃん。良かったら乗っけてあげよっか?」

ニヤニヤ話し掛ける彼に、女の子はスッと立ち上がって振り返った。

「ふ~ん。この上ウソまでつくんだ」

思わぬ言葉にツカジはカチンときた。

「あ?なに言ってんだてめぇ」

ツカジが詰め寄るが、女の子はスマホを操作し 「見つけました」と言ってポケットにしまった。

「おいお前!俺らが誰か分ってんのかよ!あんまナメてっと、攫っちまぅぞコラァ!」

女の子一人相手に少年達が凄んでくるが、黒いツナギに身を包んだ少女はフッと鼻で笑った。

「あぁ?てめ何笑って…」 そう言いかけた時、下の方が騒がしくなってきた。

少年達が手摺り越しに見下ろすと、真っ黒なバイクの集団が施設内に入って来るところだった。

黒い特攻服。

その何人かの背中には、赤いクチバシを持つカラスの紋章が施されているのが遠目でも分かった。

「黒…羽…?」怯えたように一人がつぶやく。

様子を伺っていると、集団はどうやらスロープを上がって来るようだ。

「やべ…。こっち来んじゃね?」

四人は慌てて離れようとしたが、黒の集団は思ったより早く3階まで上がって来た。


ウォンッ!ウォウォォン!

駐車場の空気を震わせながら数台の黒羽の群れが現れた。真っ赤な口紅の女が先頭で群れを率いている。

少年達は身動きも出来ずその光景を見つめていた。

二人乗りを含めた計5台のバイクは、彼等の近くまで来てエンジンを止めた。

理沙は盗まれたバイクの所まで来て、やはりステップの辺りを見る。そして最初に現れた少女に

「ご苦労さん」と声を掛け、黒いコートをひるがえして四人の前に立った。

「おい。これ、誰だ」

理沙がバイクを指さして訊いた。

四人が黙っていると、

「誰が乗って来たかって訊いてんだよっ!」

と、広い駐車場いっぱいに怒号を響かせた。 少年達はビクッとしてカジの方をチラ見している。

ツカジはおそるおそる手を挙げて

「ぼ、ぼくです」と白状した。

赤い口紅の女はツカジに歩み寄るとその襟をグイッと引っ張って、くっつきそうなほど顔を近付けた。

「坊や、いい度胸してんな。うちのモンに手ぇ出すなんてよ」

「し、知らないです!黒羽さん達のバイクなんてそんな……」

理沙はツカジの襟を引っ張り下げて地面に膝まずかせた。

「おら、ステップんとこ。フレーム見てみろ」

ツカジが言われた通りに目をやると、そこには黒羽の紋章が刻まれていた。

「そんな、知らなかったです!まさか、知ってたら盗ったりしないです!」

あたふたする彼の顔を理沙はまた自分の方へグイッと向けさせた。

「うちのじゃなかったら盗ってもいいのか?おい。人の大事なもん盗ったりしていいのか?あぁっ?」 ツカジは半ベソをかきながら 「だ、ダメです…」 と声を絞り出した。

「だよなぁ」

赤い口紅女はようやく彼から手を離した。

この後どんな目に遭わされるんだろうと四人の悪ガキ達はビクビクしていた。

「累(るい)!あんたの愛車、迎えに来てやんな」

ルイと呼ばれた女の子が二人乗りのバイクから降りてきた。そしてツカジ達の方をキッと睨んでからバイクに跨る。

真っ赤な口紅女もコートをひるがえして自分のバイクに跨った。

助かった…。

安堵していた少年達に、「おいっ!」と理沙が振り返る。

「黒羽の紋はそことは限んねーぞ。どこに彫られてんのか乗ってる人間しか知らねぇ。今度から人様のモンに迂闊に手ぇ出すんじゃねーぞ!」

頂いた忠告に少年達は

「はい!気を付けます!」と言葉通り気をつけの姿勢で答えた。

「それから一応言っとくけど、うちらのが全部黒だとは限んねーからな」

この言葉にはそこに居た全員が、えっ?そうなの?と驚いた。

「あたしは大野理沙だ。黒羽のテッペン五人のひとり。総長から止められてるから今日は勘弁してやるけどなぁ…」

理沙は赤い口をニヤッと開いて、

「あたしはずっと血に飢えてんだ」

と不気味に微笑んだ。


エンジンと排気の音を轟かせて黒の群れが去って行く。 あとに残された少年達は、これからはむやみに他人の物には触れまいと、命拾いした今日に感謝した。


帰り道、メンバーの一人が理沙のバイクに並んで尋ねてくる。

「理沙さぁん!黒羽のバイクって、黒だけじゃないんですかぁ!」

理沙も大きな声で

「ぜんぶ黒だよぉ!」と返事した。

それを聞いて、「あ、やっぱりぃ!」

と彼女はまた後ろの方へ下がって行った。


これでしばらくは、少なくともバイクの盗難は減りそうだな、とアクセルをひねりながら理沙は思った。



           4


自宅のアパートで、田所 正志(たどころ まさし)は缶ビール片手にテレビを見ていた。

何となく点けてみたが面白くも何ともない。

つまらない顔をしながら3缶目の蓋を開ける。今日は飲まずには居られなかった。

不採用の通知が今朝またポストに入っていた。これでもう6社目だ。

 どいつもこいつも俺の事を分かっちゃいない。

 こんなに真面目で、仕事も黙々とこなす人間

 の価値を正しく評価出来ないなんて、苛立ち

 と落胆を覚える。 そもそもあいつのせいだ。

田所は解雇された会社の同僚の事を思い出した。

 いや、あんなバカ共の集まり、こっちから

 願い下げだ。戻って欲しいと言われても、絶

 対行くもんか。

テレビに映ったタレントがどことなく元同僚に似ている気がして、田所は口を歪めてチャンネルを変えた。が、結局どこも気に入らずテレビを消しリモコンをわざと放り投げる。

ちょうどそこにあったゴミ箱に、"歓·送迎会クーポン”と書かれた飲食店のチラシが捨てられているのが目に入り、田所は「チッ」といまいましそうに舌打ちした。



「今井君。今度の歓迎会の幹事、よろしく頼むよ」

廊下で上司が今井という青年に声を掛けていた。

今井青年は他部門から出向という形で来ていたが、気配りができ、上司からの信頼も厚かった。しかしそれを鼻に掛けることも無く常に謙虚で、同僚の好感度も高く、おまけにイケメンという事もあってか、女性社員たちからも熱い視線を送られていた。 彼には人を寄せ付ける雰囲気があった。

ただ一人、田所 正志を除いては。

田所は今井青年が着任してからずっとこの男が好きになれなかった。自分の持っていないものを全て持っていて、いつか自分の仕事やポジションを奪われるのではないかという疑心暗鬼にとらわれていた。 出向は期間が定められている。今井もいずれは元の部署に戻る予定だったのだが、周りの人間が「出来ればずっと居て欲しいよ」 と言うのを耳にするたびに、自分は用無しだと言われてる様に聞こえ、邪魔者扱いされている、という錯覚に陥っていた。

元々は田所も別の部署にいた。 そこは旅行会社からの依頼を受けPR用の宣材やパンフレット等を企画・デザインする部門だった。

田所はそこで与えられた仕事をそつなくこなしていたが、ある代理店からパンフレットの制作を依頼された際、仕上がったラフ原稿に

"たまには何もない一日を”という文言を付け加えてしまった。

田所としては、ギスギスするこの現代社会で、遠出もいいがたまには日常の中にもあるホッと出来る場所でただのんびり過ごすだけ、というのもいいもんだという思いで入れたもので、悪意は無かった。

しかし送られてきた原稿を見たクライアントから

「旅行にも行くなという事か」と大クレームが入った。

大手ではないが昔から懇意にしてもらっている会社で、一時は取り引きを解消するという事態まで危惧されたが、長い付き合いでもあり、社長自ら赴いて謝罪して何とかなだめ、最悪の事態は回避された。

だが今回の一件でデザイナー、企画・原案の担当者、そして管理する立場にあった者を先方の担当から外すという条件が課された。

田所は異動を命ぜられ、管理する立場にあった部長も監督責任を問われ遠くに飛ばされた。だが部長の赴任先は考慮されず、実質的なクビだった。

最期の出勤の日、部長は田所を呼んだ。 どうせ恨み節を聞かされるに違いないと思い込んでいた彼に、この人物は諭すように言った。

「悔しい時、苦しい時こそ自分に与えてもらったチャンスだ。自身を、そして周りをよく見て、感じ、気づいて、いつの日かこの事を成功の糧にして欲しい」

愛情を込めた言葉を別れに贈ったが、残念ながら田所の胸には届かなかった。 申し訳無さから逃れるため、起こしてしまった事態から己を守るため、「俺は悪くない」という歪んだ信念が根付いてしまう。

その後も彼は自分を省みることはなく、そんな彼に周りも次第に距離を置くようになっていった。 彼自身も仕事以外で他人と関わろうとせず、周囲との壁は高くなる一方だった。

 そんなある日、事件は起こった。

歓迎会の幹事を任された今井が、田所にも参加を求めて声を掛けた。

はなから今井を敵視していた田所は頑なに拒みつづけた。今井は労うつもりで

「キミもたまにはホッと一息ついて、仕事を離れてのんびり時間を過ごした方がいいよ」と笑顔で言った。

全くの偶然だったのだが、田所は今井が自分の失態を知っていてそれをからかわれたと思い込み、カッとなって今井を殴ってしまった。

正当な理由もなく同僚に暴力を振るったとして、会社は田所に自主退社を求めた。

辞職した田所は、職場にも同僚にもそして世間にも妬みを持ち続け現在に至っている。


貯金も底をつき、所有していた自家用車も先月売却した。どうにかしなければと思ってはいるが何度やっても採用に至らない。

彼の奥底に潜むどす黒い部分が表面に出てしまっている事に、本人は気付いてなかった。 更に、なまじ高学歴の田所は常に他人を見下していたのだ。

 どいつもこいつもバカばっかりだ。

 そろそろ親にまた仕送りを催促しなければな

 らないが毎度小言を言われるのが鬱陶しい。

 でも今はそうするしかない。

「くそっ!」

缶ビールを一気に飲み干した時、遠くでバイクの音が聞こえた気がした。 アパートの窓を開けると、わずかにではあるがバイクが数台走っている音が聞こえる。

 バイクなんて嫌いだ。

つい最近のいまいましい出来事を彼は思い出した。


―――高校の近くで彼女をみかけた時、ついに本物を見つけたと思った。 大好きなアニメの主人公そっくりな彼女は清楚で大人しそうで、「悪い虫からあの子を守るぞ」と校門の前で毎日見張っていた。

そのうち「帰宅途中で虫が寄ってきたらいけない」と自転車で尾(つ)いていく様になり、その距離も少しずつ伸ばしていった。

それは田所にとっては二人きりになれる至福の時間だった。

(いつか、影ながら見守る俺の存在に気付き感謝されるだろう。好意を持ってもらえるかも知れない。でもおとなしそうなあの子はきっと自分から言い出せないに違いない。勇気を出して、俺から気持ちを伝えなければ…)

そんな事を考えながらチャンスを窺っていた。

ところがある日、いつもの様に下校時間を待ち伏せていると路地裏でバイク連中に話しかけられているところを目撃した。 あの子が危ない、と思ったが竦(すく)んで動けない。 どうしようかと隠れて様子を見ていると相手は女だった。少しホッとしたが、あいつら一体何なんだと思った。清純な彼女に近づくなと言ってやりたかった。 だがあろう事か、様子を伺っていると彼女は連中と親しげに話し、一緒にバイクに乗って行ってしまった。 何度も目撃するうちに、彼女はそんな連中と親しくしているのが間違いないと分かった。

(清楚で従順な少女だと思っていたのに、汚れた女だったのか…!)

その時から次第に興味が冷め、もう会いたいとは思わなくなった。―――


嫌な事を思い出しイライラした田所は、アパートの外階段を下りた。外の静けさはバイクの音をより不快なものにさせる。ふと道路脇を見ると、1台の軽自動車が駐車されているのが目についた。

(近所のじじいだ。またこんな所に停めてやがる)

この車はアパートの管理人の老人が、息子が帰って来る週末の夜だけ 通行の妨げにならない様に周囲の許可を得て停めているのだが、そんな事は知らない田所は自分に無関係でも目障りだった。

運転席を覗くと、キーが差したままになっている。 田所はアルコールのせいで正常な判断が出来ないまま他人の車に乗り込み走り出してしまった。



          5


今夜の巡回はめずらしく静かに終わりそうだ。

列の最後尾を走りながら咲楽は思った。

街のトラブルやいざこざを全て解決する事は出来ない。自分達も少なからず、人にとっては迷惑になる事もあるだろう。でも黒羽の現在の活動は、日に日に実っている。 咲楽はそう実感していた。

以前自分が説教したあの若者グループ。そのうちの一人、金髪だった少年が頭を丸坊主にして先週佐竹ジムに入会に訪れた。

「彼女のお腹に赤ちゃんが出来ました。大事な家族を守るために、本当の強さを手に入れたいんです」

館長と話しているのを聞いた時、咲楽は心から喜んだ。

「三国先輩、いつか自分とスパーリングお願いします」

久しぶりに名字で呼ばれた咲楽は、あぁ私かと振り返り、

「オッケー。でも相当鍛えてから挑んだ方がいいよ」と笑顔で答えた。

もちろんです!と "元”金髪少年は、初めて少年ぽい笑顔を見せてくれた。

 本当に楽しみだ。

咲楽が嬉しそうに目を細めた時、バックミラーに車のヘッドライトが映った。


「見ぃつけたぞぉ、このぉ。街のゴキブリどもめぇ」

田所は完全に酩酊し、座った目つきで前方の黒いバイク集団を睨みつけた。

(こいつら群れなきゃ何も出来ないくせに。俺なんかいつも一人で闘ってるんだぞ)

口元に歪んだ笑みを浮かべ、 「ちょっとビビらせてやるかぁ」と田所はアクセルを踏み込んだ。


 ヤバいのが来る。

咲楽は警戒を最大にした。

前を走る仲間達に知らせたいが、自分がパッシングして彼女達が「何だろう?」とスピードを落としでもしたらかえって危険だ。 咲楽は後方から近づいて来る車にバイクの存在を知らせるため、ブレーキランプを数回光らせた。 そして自分たちに構わず追い抜いて行ってくれる事を願った。


「おらどけぇゴキブリどもぉ。人間様に道を空けろぉ〜、ヒック」

最後尾のバイクがランプをチカチカ光らせる。田所はからかわれているのだと思った。 彼は前の集団をよけさせて自分が悠然と走り抜ける姿をイメージした。スピードメーターは見ておらず関心も無かった。 目の前のバイク達に対して、"人様の迷惑も考えないバカ共に正義の鉄槌で驚かしてやろう”という偏狂的な心で満ちていた。


 まずい。こいつは突っ込んで来る。

咲楽は相手の常軌を逸した動きから、まともじゃない事を本能的に悟った。前を走る仲間たちは気づかない。

(みんなを守らなきゃ)

彼女は咄嗟に、前後のブレーキを全力でかけた。


「早くどけぇ。おらおらもう距離がないぞぉ〜」

田所はアクセルを踏む足にいっそう力を込める。 その時、最後尾を走っていたバイクのブレーキランプがまばゆく光った。

「うおっ!?」

ほぼアクセル全開のまま、車はバイクに衝突した。

「ドンッ!」

という衝撃とともに、乗っていた人間は宙を舞い、バイクは何度も横転して、火花を散らしながら激しく滑走していった。


田所が我に返ると、車は前方から白い煙を吹き出しながら止まっている。

(ヤベェ、ヤベェ、ヤベェ!轢いた、轢いちまった。轢いちまったー!)

無我夢中でエンジンをかけ、震える手でハンドルを握り、車をUターンさせて現場を立ち去った。 バックミラーを見ると、異変に気付いた他のバイク達が引き返して集まるところだった。

(悪くねぇ。俺は、俺は悪くねぇ!)

パニック状態の田所の精神は限界寸前だった。 その彼の本能は自己防衛のためまたしても歪んだ形で働く。

(俺は悪くねぇ。そうだ。世間に迷惑かける連中に制裁を加えてやったのだ。少しくらい痛い目を見たほうが、奴らのためでもあるのだ)

「へ…ヘヘッ。ゴキブリ退治だ」

田所の思考は、この車をどうしようかという自分本位な方向へ早くも切り替わっていた。



           6


廃校グラウンドには、先に巡回を終えた理沙組が到着している。メンバーのひとりが理沙にそっと近づいて話し掛けた。

「理沙先輩、そういえば孔雀と対決するって話、あれからどうなりました?」

わくわくを隠さず訊いてきた彼女に、理沙は正面から見据えて呟いた。

「…おばけ」

「えっ?」

「オバケとは、競えない」

「マジすか…」

理沙は神妙な面持ちで「…マジ」と答えた。

「ヤッバ。こっわ!すみませんありがとうございました」

彼女はそそくさと立ち去り、別の仲間に「やっぱアレ、亡霊らしいよ…。」と伝えた。告げられたメンバーの子は「うっそ!えっぐ!あたしもう雨の日は環状走らないどこ」と顔をこわばらせて、二人でうなずき合っている。

彼女たちのやりとりを背中越しに聞いていた理沙は、たまらず「ぶはっ!」と堪えていた笑いを吹き出した。

そんな様子をいつもの階段で微笑ましく眺めていた翔子。

彼女のスマホが、突然着信を告げる。

「もしもし」

冷静を保ちながら電話に出る翔子の様子を、隣の弥生は身を固くして窺っていた。

副総長の自分にならともかく、総長に直接かけてくるなんて非常事態としか考えられない。 胸騒ぎを感じながら弥生は電話が終わるのを待った。

「…うん。…うん、そうか。場所は?…分かったすぐ行く」

電話を切った翔子は弥生に

「咲楽が事故った。詳細は分からない。私は現場に向かうから、戻って来た組から解散して帰して」

と要件だけ伝え、 「この件はまだ誰にも言わないで」と付け加えてエンジンをかけた。

「分かった」

弥生の返事を待たずに翔子は猛スピードでグラウンドを出ていく。

翔子のただならぬ様子と、電話越しにかすかに聞こえた涙まじりの焦った声。弥生は眉間にしわを寄せ、唇をキュッと噛んだ。

―――どうか無事であってほしい。

満天の星空の下で、彼女は目を閉じて祈った。



メーターなど、見ている余裕は無かった。そのせいか翔子は救急車よりも早く現場に着いた。


川沿いの道路脇に、河川敷へと傾斜する土手がある。高さはおよそ5m。

咲楽の体はその土手を越え、草の生い茂った地面に横たわっていた。

救急隊に電話で状況を伝えているメンバー。傍らで肩を寄せ合って泣きじゃくる子たち。 そして、今なお懸命に咲楽へ心臓マッサージを続ける少女。

さくら組に入れて喜んでいたあの子だ。

みんな翔子が駆けつけると

「翔子さんっ!」と呼びかけた。

翔子は頷いて、静かに咲楽の元へ近づく。

外傷はほとんど見当たらないが口と耳から出血している。蒼白で目を閉じたままの顔は眠っている様にさえ見えた。

だが、ひと目見ただけで絶望的な予感がした。

「翔子さん…」

汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら必死に救命措置を続けてくれた少女に、

「ありがとう。もう いいよ」

と翔子は声を掛けた。

手を止めた彼女は「うぅっ…」と堪えていた嗚咽を漏らし、翔子に場所をあけた。


「咲楽、起きて。もう帰るよ」

動かない咲楽に、普段の様に声を掛けた。 血の気が無いせいか、その愛くるしい顔は美しさを際立たせている。よっぽど怖かったのか、両手は硬く握り締められ、顔には苦しそうな悔しそうな表情が見てとれた。

「……痛かったね。…こわかったね」

翔子は咲楽の頭をそっと撫でた。

ふと見ると、右の耳たぶが切れ、お気に入りだったピアスも何処かへ行ってしまっている。

どれ程の衝撃を受けたのだろう。

咲楽が笑うたび、振り返るたびに耳元でキラキラと踊っていた桜のピアス。

どうして右耳にしか付けないのかと尋ねたら「片っぽ空けたら思ったより痛かったから」と笑いながら言っていた。

せめてそれだけでも手元に返してあげたいと思い、付近を探してまわる。だが夜の闇と草むらに阻まれて全然見つからない。

やがて、けたたましいサイレンの音が近づいて来た。

 ごめん、咲楽。見つけてあげられない。

救急とレスキューの隊員達が機材と担架を手に慌ただしく土手を降りてくる。彼等の活動の邪魔にならない様、翔子たちは場所を空けた。

AEDで心機能の回復を試みる隊員。その電気を浴びるたびに咲楽の体は跳ね、首が力なく揺れた。

「先に担架乗せて、搬送しながら続けろ!」

救急車の中に運び込まれるまで懸命な蘇生措置が続けられる。

「どなたか、一緒に乗って頂けますか」

救急隊員の問いかけに

「私が」と翔子が手を挙げた。

「あたしのバイクはそのままでいいから、みんな今日はこのまま帰りな。他のメンバーにもそう伝えてあるから」

グラウンドにはもう誰も居ないはずだ。


救急車へ向かう翔子に、

「翔子さん。咲楽さんは、咲楽さんは助かりますよね?」

と汗も涙も拭わずにあの子が訊ねた。

「……分からない」

そう言って翔子は救急車に乗り込んだ。

命を救うサイレンを鳴り響かせ走り去って行く車を見送りながら、少女は手を組んで祈った。



―――分からない。 正直にそう言うしか無かった。

「きっと」などと無責任に希望を持たせる言葉は言えず。かといって…。 翔子には答えられなかった。

救急車は猛スピードで夜の静けさを切り裂いていく。処置が続けられる車内で、翔子は生まれて初めて 「神様…」と呟いた。



          7


民家も街灯もない山中に田所は居た。 車が通った形跡も殆どない山道をあてもなく走って、この荒れ果てた空き地を見つけた。もとは畑だったのか、広さは充分にある。

改めて、持ってきた物をを確認する。

24時間営業のホームセンターで購入したノミとハンマー。ガソリンを満タンにした20リットルの携行タンク。

これをスタンドで給油する時、やる気の無さそうな店員がグズグズして苛立ったが、通常はルールとされている免許証の提示も求められなかったし、名前を書くよう渡された紙には偽名を使った。

グズも時には役に立つもんだと思った。

車の荷物スペースから折りたたみ自転車を降ろす。途中でアパートに寄って積んできた物だ。

「よし」

田所は声を出してまずは車の給油キャップを外した。が、ここにガソリンを入れる訳では無い。車がほぼ満タンなのは確認済みだ。キャップを開けたのは、うまくすれば燃料タンクに引火すると考えたからだ。

自動車の燃料タンクは頑丈に作られている。火あぶりになっても燃えないかも知れない。出来るだけ燃やし尽くすにはタンクの燃料にも引火させる必要があった。

ボンネットを開け車台番号の位置を確かめると、そこをノミとハンマーで思い切り叩き始めた。

全ての自動車には "車台番号”という個体それぞれのナンバーが刻印されていて、同じものは存在しない。いわば車の指紋の様なものだ。車体に直接刻まれているため簡単には取れない。過去に自動車メーカーで働いた事のある彼はそれを知っていた。

仮に車が全焼して骨組みだけになったとしても、この番号からアシがつく可能性がある。田所はそれを恐れ徹底的に叩いて識別出来ない様にした。

だがそれでも不安だったので最後はノミを打ち込んで切る取る事に成功し、それを山の中に放り投げた。幸い立ち並ぶ木々には当たらず、遠くまで飛んだようだ。

満足した彼は口笛を吹きながら携行缶のガソリンを車のいたる所にかけ始めた。

荷物スペース、座席、ダッシュボード、そしてエンジンルームに至るまでかけ終えて、空になった缶は後部座席に置いた。

ポケットからジッポライターを取り出して火を灯す。

一つしかない大事なものだったが今はこれを使うより他にない。

ライターにしっかり火がついた事を確かめて、それを空いた窓から放り込んだ。

「ボンッ!」

と音がして一気に火がまわる。

予想以上の燃え方に危うく尻もちをつきそうになった。

車を包み込みメラメラと燃える炎を見ていると言い知れぬ興奮を覚えたがいつまでもこうしては居られない。

田所は自転車にまたがり、荒れ地からフラフラと道路へと抜け出した。


来た道を下り、何度目かのカーブを過ぎた時、後ろの方から「バーン!!」と爆発音がした。

振り返ると木々のすき間から、先ほどの場所で炎が大きくなったのが見える。

彼の思惑どおり、燃料タンクに引火したようだ。

「うっへへっ。た~まや~だ」

田所は意気揚々と夜の山道を自転車で駆け下りて行った。



          8


「処置中」と書かれたランプが消え、程なくして中からドクターが出てきた。

廊下の長椅子で待っていた翔子に頭を下げ、沈痛な面持ちで伝える。

「手は尽くしましが。残念です」

 しばらく沈黙したあと、

「…死因は何ですか」

と翔子が尋ねた。

ドクターは目を逸らさずに答える。

「強い衝撃を外部から受けた事による、外傷性ショックです。高い位置から落下した際、体を地面に強く打ち付けられたと考えられます。その時点で心肺は停止。申し上げにくいのですが、ほぼ即死の状態だったと思われます」

―――ソクシ。

翔子の心臓がドクンと跳ねた。

この身震いする様な恐ろしい言葉を前にもどこかで聞いたような気がするが、思い出せない。

「お世話になりました」

翔子はドクターに頭を深く下げ、病院を出た。 そこからどう歩いて帰ったのか覚えがない。 不思議なほど、悲しみすら感じなかった。

彼女の脳が全ての思考を拒否していた。無意識に足を動かし、ただ呆然と歩いた。

自分のアパートに着くと翔子はベッドに倒れ込み、そのまま意識を失うように眠り落ちた。



 (一緒について行ってもいいですか?わたし、

  三国 咲楽といいます)

 (翔子姉、今度バイパスで競走しようよ)

 (カラスって名前、良くない? ”黒羽 “って

 書くの。全員黒で統一してさ。格好いいで

 しょ?)

 (このクチバシはねぇ、血の色なんだよ。

 群れの中で最も血肉を貪った者の証…。

 てな感じ、どう?)

 (私たちは赤い口紅を塗ろうよ。クチバシと

 同じ色の赤。これが五人衆のトレードマー

 ク)

 (すっごくいいとこ見つけたの!翔子姉、今

 度さぁ…)

 (ねぇねぇ、翔子ねぇ……)


目を覚ますと夕方になっていた。

一体いつの夕方だろう。どれくらい眠ってたんだろう。

電線にカラスが何羽か集まってカァカァ鳴いている。夕暮れのカラスを見つめていた翔子の目から涙が頬を伝った。

「……お別れに、行かなきゃ…」

翔子は布団から這い出して、咲楽の自宅の住所を手に、三人に電話をかけた。



          9


消防による現場検証はまだ続いている。

今日の早朝、ふもとの住人が日課の散歩をしている時、山の方からうっすら煙が見えた。そこは地元の人間でさえ行かない、畑も何も無い

"捨てられた山”だった。

通報を受け、山林火災の疑いがあるため10台近くもの消防車両が駆けつけ一時騒然となったが、現場には燃え尽きて骨組みだけになった車が燻(くすぶ)っているだけだった。 火は側にある木の枝に一部燃え移っていたが、広い場所が幸いして大事には至らなかった。

事件性があるため所轄の警察にも要請が入り鑑識なども待機しているが、署長に呼ばれて現場に臨場した平八と浅間の二人は彼らより1時間も長く待たされている。

「呼んどいて何だよ」 坊ちゃんはふてくされたが、平八も同じ気持ちだった。

その坊ちゃん、今はスマホに夢中になっている。 一体何がそんなに面白いのか平八には分からない。だがこうしてただ待たされるだけというのも酷なので、好きにさせといてやろうと思った。


忙しそうにしている消防関係者を平八が眺めていると、一人の男に目が留まった。

「ちょっと出てくる」

返事もしない相棒を残して、平八は指揮にあたっている顔馴染みの男に声を掛けた。

相手もすぐに気付いてくれた。

「やあ荻野さん、あなたが居らしてたんですか」

本庁時代から何かと縁のある人物で現在は隊長になっている彼が、ダンディーな日焼け顔に少年のような笑みを浮かべる。

平八は何とか中に入れてくれないかと掛け合ってみた。 体格の良い指揮隊長は少し考えて、活動の妨げにならない事を条件にこっそり規制線をくぐらせてくれた。


近くに来てみると未だガソリンの臭いが漂っていて、おどろおどろしい焼け痕が相当な勢いで燃えた事を伺わせた。誰かが起こした事件である事は間違いない。

徹底的に痕跡を消すつもりだったのか、ナンバープレートはおろか車台番号まで切り取られている。知識のある人間の仕業に違いなかった。

鉄の部分に残ったマークから大手国産メーカーの車体だということは判明したが、同じ車体は複数の車種に使われており、特定は難しいだろうと思った。

ただ、前側のフレームが内側に歪んでいる。何らかの外力が加わった証拠だ。

昨夜のひき逃げ事件との関連も疑われるが、紐付け出来る根拠は今のところ何ひとつ無い。

今どき黒羽の連中相手にあんな大胆な事をする奴らが居るとも考えにくかった。

平八はある物を見つけて腰をかがめた。何か、携行缶のキャップのようだ。

犯人がこういう手口に慣れてる人物なら、こんな所に痕跡を残したりしない。犯人はおそらく素人だ。それも、黒羽の存在も知らない様な、ただの一般人。 そして…。

平八は更に低く視線を下げて地面を凝視した。ちょうど自転車のタイヤぐらいの轍(わだち)が道路の方まで続いている。

おそらくこれは、単独での犯行だ。


旧知の隊長に礼を言ってキャップを手渡し、平八は車に戻った。坊ちゃんはまだスマホをいじっていた。

「何か分かりましたぁ?」

画面から目を離さず、興味無さげに訊いてくる。

「まだ分からん。だが、必ず見つけ出す」

若い命を奪った犯人を、平八は絶対に許せなかった。

「一旦署に戻る。昨夜の事故と関連が無いか、先に向こうをもう一度洗い直す」

坊ちゃんは少しうんざりした顔になった。

「まぁそんな躍起(やっき)にならなくてもいいじゃないスか。ただの族が一人死んだだけでしょ」

それを聞いて、平八は彼の襟をガッと掴んだ。

「おい若僧よく聞け。相手が誰であろうが人の命が奪われたんだ。ふざけた事は二度と抜かすんじゃねぇ。分かったか!」

浅間はスマホを落とし、びっくりした顔で何度も頷いた。

平八は睨みを効かせたまま、乱暴に襟から手を離す。 自分を落ち着かせようとフゥッと息を吐き、一度ゆっくりまばたきをしてからエンジンをかけた。

助手席の若い刑事は大事なスマホを拾い上げ、傷が無いかあちこち見まわした。そしてシートベルトを締めながら独り言の様に「まぁでもこうやって潰し合って迷惑な連中が勝手に減ってけばいいのにな…」と呟いた。

浅間がフッと運転席を見ると平八が鬼の形相と化し、拳で思い切り殴りつけてくるところだった。



後日、浅間は一身上の都合により所轄を異動したいとの嘆願書を出し、署長の萩野は、同日付けでこれを受理した。



「対策準備室」と掲げられた、ただパーテーションで仕切られただけのデスクで平八は情報を整理する。

放火による車両火災。河川敷道路でのひき逃げ事故。そして、住宅地での車両盗難事件。

これらは全て一晩のうちに起きている。時系列で見ると1台の車で同じ人物が関係してると思えてならない。

平八は自分の思い込みやこじつけでは無いかもう一度ひとつひとつ冷静に確認する。

住宅地での車両盗難…。

平八が何かを思い付きかけた時、

「へぃ…じゃない、荻野警部。ちょっといいかな」

と、パーテーション越しに萩野が顔を覗かせた。

「何でしょうか。始末書はもう提出しましたし減給処分にも同意しましたがね。あ、懲戒免職にならなかったのは感謝申し上げます」

平八はやや早口でぶっきらぼうに言った。

「まぁまぁ、今日はその話じゃないから。君に、新しい相棒を紹介したいと思って…」

「はぁ?冗談でしょ?誰かと組んでおんぶするのはもううんざりです。一人でやらせて下さい!若い奴らに理解して貰えないのはもう充分わかりましたから!」

ついたて越しでも響き渡る鬼の大声に、他の署員たちは静まり返る。

「すまん。だが今回は私の頼みじゃない。本人たっての希望なんだ。君、こっちへ」

何か言おうとする平八にタイミングを与えまいと、萩野署長は急いで手招きをして若い刑事を呼び寄せた。

「失礼します。三方署から配属されました、須栗 啓太と申します」

爽やかな青年は礼儀正しく頭を下げた。

「須栗くんはね、向こうの署でも独自に色々調べてて、何かと力になれると思うんだ。君、そうだね?」

「はい。今回の一連の事件と "黒羽”と呼ばれるグループ、紐付けられると考えて間違いないと確信しています」

「ほぅ…」

好青年の立ち居振る舞いもそうだが、自分と同じ考えを持つこの人物に平八は少し興味を持った。

その反応を見て、少し安心した萩野署長は

「それじゃあね、今日から二人で協力して捜査にあたってくれたまえ。よろしく頼んだよ!」と話を終え、立ち去り際、平八にだけ分かる様に 「な・か・よ・く!」と口パクして出ていった。


「荻野警部、捜査にご一緒させて頂いて光栄です。どうぞよろしくお願いします」

須栗は改めて頭を下げた。

「お世辞は要らんよ。定年前のオヤジの相手を任されて、おたくも大変だな」

「いいえ。あなたが本庁に居らっしゃった時から、お噂は聞いていました。警部に憧れて、自分は警察官を志しました」

平八はこの青年がうわべだけ述べている様には感じられなかった。

若い刑事は少し声のトーンを落として言った。

「あの、本庁の時に兄が大変お世話になりました」

「ん?」

スグリ。珍しい名字をどこかで聞いた事があったのを平八はやっと思い出した。

「須栗。そうか。お前、須栗 龍也の弟か」


本庁就任時代、平八は少年課に身を置いていた事もある。その頃出会ったのが啓太の兄、りゅうやという少年だった。

彼は喧嘩っ早くとにかく粗暴で、補導された数は数え切れない。

上の歯の両側が八重歯になっていて、ニヤッと笑うとキバの様に見えることから「龍の牙」と恐れられた。

平八は幾度となく龍也と関わるうちに、彼の心の中に在るどうしようもない憤りと悲しみに触れ、その奥底に眠る素直さ、純朴さに気付かされた。

彼は幼少期から酒癖の悪い父親に暴力を振るわれ、いつも守ってくれる心の拠り所であった母親は離婚と同時に家を出た。

彼女は裁判で親権を得ることが叶わず、龍也は母の愛に飢えていた。

荒れた生活を送り悪い仲間と連るみ何度も警察の世話になる日々が続いていた。

そんな彼を平八は我が子と同じ様に叱り、ときに愛情をもって導き、少しずつ社会性を身につけさせて、本来持っていた人間性を取り戻させていった。

本庁を去る時、

「いつか必ず恩返しがしたい」

と涙ながらに龍也は平八を見送った。


「――そうか。それでお前がその "恩返し”って訳だ」

啓太には意味が分からない様子だったが

「いや、何でもない。それよりこの事件について、君の考えをもう一度よく聞かせてくれ」

二人は事件に関して一から情報精査を始めた。



           10


司法解剖を終え自宅へ帰された咲楽の体は、家族とともに一夜を過ごした後セレモニーホールへと移されていた。この会場で故人との別れを告げる告別式が本日執り行われる予定となっている。

老若男女を問わず多くの人が弔問に訪れ、彼女の生前の人柄が偲ばれた。

翔子たち四人は喪服で正装して、受け付けの順番を待っている。

メンバーの子たちも来たがっていたが、余り大勢で押しかける訳にもいかないので、四人が代表でみんなの想いを預かり訪れていた。

自分たちの順番になり、参列者名簿に名前を書こうとした時だった。

「あんたら黒羽か」

やや荒っぽく、一人の男性が声を掛けてきた。喪服を着ているので親族の人だろうと四人は理解した。少し顔が赤らんでいる。

翔子は男性に向き直り、

「はい。そうです」と答えた。

すると彼はみるみる険しい顔つきになって声を荒げた。

「よくもまぁノコノコ来れたもんだなえぇ?おいっ。咲楽ちゃんを連れ回してた連中だろうが!お前らのせいでなぁ、お前らせいであの子は死んじまったんだぞっ。お前のせいだ!」

指を突き付けられて、翔子はズキンとなった。

「まだ若いのに。これから何だってやれたのに。優しくて、明るい子だったのに。本当に…」

言いながら男性はうぅっと泣き出した。 その姿に、翔子は辛い気持ちで目を閉じる。

「あの子の母親はなぁ、ショックで誰にも会えなくなっちまったんだぞ。ここにも来れてねぇ。どんな気持ちか分かるか!お前らの顔なんざ見たくもねえや! おいっ、誰か塩持って来い、塩!」

大声で騒ぎ出したため周りの人達が「落ち着きなよタツさん」「ちょっと飲み過ぎだよ」「タツさん、咲楽ちゃんの前だぞ」と諌(いさ)めたが、

「うるせえ!あんないい子が、どうして…。お前らなんか誰が呼んだ!?とっとと出て行きやがれ!」

と今にも翔子に掴みかかろうとする勢いだ。

(この人の言う通りだ。私たちの、私のせいで、咲楽は…)

親族の一人が、暴れるタツさんを抑えながら

「悪いけどおたくら、もう帰ってくれないか。この人は口が悪くていつもこんな感じだけどさ。誰もここまで言わないけど、みんな同じ様な気持ちなんだよ」

と告げた。

「申し訳ありません」

と翔子が頭を下げた時、抑えられていたタツさんが

「おら、それよこせ!」と誰かが持っていた塩を皿ごと翔子に投げつけた。

ガツッ!と音がして翔子の額から血が流れる。

「ちょっと!あんた何て事するの!」

奥さんらしき人がタツさんに声を荒げた。

「るせぇ!こんなもんカスリ傷じゃねぇか!あの子はもっと、もっと大きな怪我したんだぞっ!…死んじまうなんて…。死んじまう程の大怪我なんて…。ううぅっ…」

タツさんはその場に座り込み、むせび泣いた。

四人は居たたまれない思いで頭を下げ、全員その場から身を退いた。



誰も何も言わず、とぼとぼ歩く。

「翔子、大丈夫か?」

弥生が声を掛けたが翔子は短く

「うん」と言ったきり、また沈黙が続いた。

 (お前のせいだ)

さっきの言葉が頭に何度もこだまする。

 そう、私のせいだ。 私が街の巡回などさせな

 ければ。私がチームなど作ったりしなければ。

 私が咲楽と、出逢いさえしなければ…。


「あの、すみません」

背後から翔子たちを呼び止める声がした。

振り返ると、喪服をきちっときた男性が立っている。この方も親族だろう。

走って来たらしく、男性は汗をかき息も少し上がっていた。

「あの、黒羽の人達ですか?」

翔子は相手に正面を向いて名乗った。

「はい。私が代表の、相良と申します」

「やっぱりそうでしたか。せっかく来て頂いたのに、身内の者がすみません」

男性は頭を下げた。

「いいえ。こちらこそ皆様のお気持ちも考えず、大変申し訳ありませんでした。あの、失礼ですがあなた様は?」

翔子の問い掛けに、男性は

「申し遅れました。私は咲楽の父です」

と応えた。

四人はハッとして背筋を伸ばす。

そんな彼女たちに、男性は穏やかに尋ねた。

「あの。もし良ろしければ少しだけお時間を頂けませんか」

「はい。もちろんです」

翔子の言葉に他の三人も頷いた。

ではこちらへと促され、全員で来た道を戻って行く。

物腰は柔らかいが、この後どんなに罵倒されても翔子は受け入れる覚悟でいた。それが償いになる訳でも無いが、この人の想いに従おう。そうする権利がこの人にはある。 そう考えていた。


男性は敷地内に在る"休憩室”と書かれた建物に四人を案内した。

室内にはいくつかのテーブルとソファーが並んでおり、大きなガラス張りの外には小さな庭園の様なものがある。

カウンターには係の女性が一人いるだけで、今は利用者は居なかった。

「どうぞ、掛けて下さい」

咲楽の父は四人にソファーを勧め、相手が遠慮しない様に自らが先に座った。

翔子たちもテーブルを挟んだ向かいのソファーに静かに腰を下ろす。

カウンターの女性がテーブルにお茶とお菓子を持って来た。

父親は「悪いけど、しばらく人を入れないで」

と女性に頼み、彼女は「かしこまりました」と答えると、お茶の用意を整えて自分も席を外した。


お茶を一口すすって、咲楽の父が四人に話しかける。

「あなたが、一番上の翔子さんですね。それからあなたは弥生さん。そしてあなたが葵さんで、あなたは理沙さん、ですね」

名前を呼ばれて、全員驚いた顔をした。

「お会いするのは初めてですが、咲楽から色々と話を聞いていました。大丈夫。あなた方がどんなグループであるかも、私は承知してます」

黙っている四人に、咲楽の父が目を細めて微笑んだ。

「話に聞いていた通り、みんな頼もしいお姉さん達みたいだ。咲楽は私にたくさん話をしてくれましたが、あの子がそんな風に賑やかになったのは皆さんの仲間に、黒羽に入ってからなんです」

父は話を続けた。

「私事で恐縮ですが、私は仕事が忙しくて出勤するのはあの子がまだ寝ている時、帰宅するのはあの子が眠ってから、というのが殆どでした。母親も自分の店を、小さなお弁当屋さんですが、一人で切り盛りしていたので。私共は夫婦揃って彼女に親らしい事は何もしてあげられませんでした。親の愛情を一番欲している時に、一緒に居てあげられなかった。きっと寂しかったに違いありません。思春期になって、ようやく時々一緒に過ごせる様になった頃には、もう挨拶もしてくれませんでした」

意外だった。明るく元気な咲楽にそんな一面があったとは。 自分たちは黒羽の咲楽しか知らない。

「だからバイクに乗ってどこか出かけるようになっても、私にはそれを咎める事は出来ませんでした。ただ毎日無事に帰って来てくれさえすればと、それだけを願っていました。母親は猛反対で、よくあの子と口喧嘩になりましてね。今思うと母親の心配してた通りになってしまったのですが」

父親は声を落とした。翔子たちも沈んだ想いに支配される。

「ああ、すみません。皆さんを責めるつもりで言った訳では無いんです。それどころか皆さんには、感謝の気持ちを申し上げたい」

戸惑う四人に、父親はその意味を語った。

「あの子が皆さんと一緒に過ごすようになった頃から、少しづつ表情が変わっていきました。戻ってきた、と言っていいのか。あの子は集まりがある度にそれは嬉しそうな顔をして。時々私に、集まりであった事や仲間達の話をしてくれる様になりました。おしゃべりが大好きだった頃のように、無邪気で明るく、いつも楽しくてしょうがない。そんな様子でね」


咲楽はいつも笑顔だった。

明るくて元気だった。

みんなに愛され、咲楽もみんなの事が大好きだとよく言っていた。

それは、黒羽だったから?

それは全部、黒羽のおかげだった?

「皆さんの事もそうですよ。たくさんお姉ちゃんが居て幸せだとよく言ってました。寂しい思いをさせてきたから、本当に有り難かった。素敵な仲間に恵まれて、あの子は幸せだったと思います」

四人は胸が熱くなった。

何かが込み上げて溢れ出しそうだった。

「あ、ちょっと待ってて下さいね」

父親が一旦建物を出る。

四人は何も言わず、それぞれが在りし日の咲楽に想いを馳せていた。

しばらくして戻った父親は、右手に何か箱の様な物を持っていた。

「お待たせしました」

再びソファーに腰掛けて、彼は箱の蓋を開いて見せる。 全員が息を呑んだ。

そこには、桜のピアスが収められていたからだ。

「……警察の方の話では、娘は即死だったと聞かされました。しかし私は、あの子は最後、僅かに意識があったのではないかと思っています。そうでなければ、これの説明がつきません」

目の前のそれに釘付けになりながら、 「これ、どこにあったんですか?」

と翔子は尋ねた。

「あの子の右手の中です。しっかりと握りしめられていました」


翔子はあの夜の、咲楽の事を思い出した。

硬く握り締められた両手。切れてしまった右の耳たぶ。

まさか咲楽が、自分で、引き外した?

「あの子は最期、かろうじてとりとめた意識の中で、このピアスの事を考えたんだと思います。でもきっと緩めて外せる様な、そんな状態じゃなかった」

父は辛そうに言葉を続ける。

「そこで、自らの手で引きちぎった。そして自分の胸に握り締め。…息を、引き取った」

憂いげな顔で、父親は話した。

 どうしても見つけられなかった咲楽のピアス。

誰一人声を発せず、目の前の大切な遺品を見つめている。

「翔子さん。私はこれを、貴女に持っていて欲しいと思います。それが、あの子が最後に残した大切な願いだと、そんな気がするんです」


 (翔子姉、これ預かっといてよ)


咲楽がそう言って笑っている様な、そんな気がした。

翔子は箱を両手で包んだ。

かろうじてとどまっていた涙がポタポタと手の上に落ちる。

「……たいせつに。大切に、お預かり致します…」

父親は安心した様に、ゆっくりと頷いた。

みんなのすすり泣く声が小さな建物に重なり合った。

トントン、とドアが遠慮がちにノックされる。

「はい」 咲楽の父が応じると

「おそれ入ります。住職様が喪主の方をお探しになられてます」

と先ほどの女性の声がした。

「分かりました。すぐ参りますとお伝え下さい」

父親はドアの外へ声を掛けて四人に向き直った。

「すみません、行かなければならないので。この部屋は皆さんがお出になるまでは使わない様に云ってありますから」

席を立ち、咲楽の父は改めて四人を見つめた。

「今日おいで頂いて、本当にありがとうございました」

父はしっかりと、深く頭を下げ、建物を出ていく。

箱の中のさくらのピアスは、いつもの様に可愛く、綺麗だった。



バス停までの帰り道、翔子は箱を大事そうに胸に抱き、みんな何も言わず歩いている。

日は西へ傾いて夕暮れの準備を始めていた。

坂道を上がった所から遠くの景色が見えた。

カラスが何羽か鳴き声をあげながら飛び回っている。

翔子は立ち止まり、その美しい光景に目を向けた。

他の三人も同じ様に、優しい夕暮れの光をその瞼に映した。

 咲楽も夕焼けが好きだった。そこに映える、

 カラスの群れも。

「走ろっか」

翔子が呟いた。

弥生、葵、理沙が彼女を見つめる。

「みんなでさ。仲間達みんなで。咲楽の走った道、咲楽の好きだった場所、咲楽の愛したこの街を。 あの子と一緒に、みんなで走ろう」

三人は、涙を拭って頷いた。


翔子は桜のピアスを箱から出して、胸のポケットに大切にしまった。


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