動静
1
キーホルダーの付いた鍵をぼんやり眺めながら、なつきは部屋の机で頬杖をついていた。 クルクル回すと猫のキーホルダーは顔を見せたりあっちを向いたりする。昔飼っていた三毛猫の「トラ」がまだ生きていた頃に買って付けた物だ。
「ほら、トラそっくりだよ!」
そう言って猫じゃらしの様にしてよく遊んだ。 トラも気に入ったのか、時々「あそぼ」という様にくわえて持ってきた。
せめてこの形見だけでも外して持っとこうと思うが、いよいよお別れという感じがして寂しくなる。それに、売りに出して知らない人に乱暴に扱われるかもと考えるとそれも嫌だった。
両親も手放す事を特に急かしたりはしない。でもあれば乗りたくなる。実際今でも乗ってあげたくてうずうずしていた。早く何とかしなきゃとは思っているのだが。
部屋のドアをノックされて、
「はい」と返事をすると、母親が
「お友達が見えてるわよ」と教えてくれた。
最近は顔色も良く、ハリの出てきた声に安心する。
(友達?誰だろ)
ドアを開けたなつきに
「すごく可愛らしくて礼儀正しい子ね」
と母が微笑んだ。
まさか、と思ってなつきは階段を駆け下りた。
「こんちわー。久しぶりだよ〜」
なつきが思った通り、そのまさかの咲楽だった。いつもと変わらない明るい笑顔で、今日は真っ赤な口紅ではなく薄いピンクのルージュを塗っている。服装も可愛い短めのスカートを履いて、"お洒落な女の子”という感じのスタイルだった。
「咲楽さ…」と言いかけたなつきの声を遮る様に
「ごめんねなっきー。急に来ちゃって、びっくりさせたでしょう?」
と声を掛け、合わせてねという感じでウィンクした。
「あ…う、ううん。私も、会いたかったから。
…良かったら上がってって?」
なつきも何とか自然な感じで中へ招いた。
「ほんと?じゃあ、お言葉に甘えて」
咲楽は玄関で靴をきちんと揃えて、「お邪魔します」と母親に会釈して二階へあがった。
「どうぞ」
なつきの部屋に入った咲楽は開口一番
「わぁーっ!可愛い!」
と叫んだ。
まるで雑誌の、"女の子のお部屋”という感じの家具や色使いが咲楽のハートをぎゅっと掴んだ。
「すごーい!なにコレ何これぇ!」
部屋にある色んな小物にも興味津々の咲楽に、なつきはひとつひとつ丁寧に説明した。
「いいないいなぁこんな素敵なお部屋〜。私の憧れのまんまだ」
褒めまくる咲楽にちょっと照れながらなつきは訊いてみた。
「咲楽さんのお部屋はどんな感じですか?」
「えっ、きく?そこ、きいちゃう?う〜ん、あのね… 」
身振りを交えながら咲楽が説明を始めた。
「まずドアを開けて最初に目につくのが洋楽の、誰か分かんない人のでっかいポスター。そんで机の横に置いてある邪魔くっさいギター2本。これが、どこへ持ってってもいつの間にか戻って来ちゃう。それからプレーヤーも無いのに貴重な小さい本棚の半分以上を埋め尽くす、ホコリかぶったレコードの群れ」
その話し方と表情になつきは笑った。
「なんか自分の部屋なのに嫌そうですね」
「嫌だよ〜っ。だってほとんど兄貴の物で、まぁ部屋ももともと兄貴のだったんだけどさ。今は東京の大学行ってんだけど。あ、ちなみにすごい名前の大学じゃありません、念のため。そんで、たまに帰って来るから部屋の物はそのままにしとけって言うの。あっち持ってけば良くない?もうっ私だって部屋をこんな風に可愛くしたいのにさぁ」
むくれる顔も可愛いなぁとなつきは思った。
「お兄さん、居るんですね。いいなぁ私ひとりっ子だから。本当はお兄さんかお姉さん、欲しかったな」
「お姉さんなら、いっぱい居るじゃん」
「あ…」
黒羽の先輩たちの事だと分かった。
「でも、もう…」なつきが言いかけた時、部屋のドアがノックされた。
「盛り上がってますかぁ。お茶、熱いから気をつけてね」
なつきの母が和菓子を持ってきてくれた。
「わぁっ美味しそう!ご馳走になります」
甘いもの好きな咲楽が目を輝かせた。
「お二人はちなみに、どういうご関係なの?」
探る感じではなく、何となくという風に尋ねられた。
「あ、地域で同じ趣味の人が集まるサークルみたいのがあって、そこでご一緒させて頂いてるんです」
……嘘ではない。
淀みなく答える咲楽にさすがだとなつきは思った。
でも、そのサークルに自分はもう居ない。そう思うと少し寂しかった。
「まぁそうなの。この子、内気なところがあるから、これからもよろしくお願いしますね」
「はーい。熱っ」
ほら気をつけて、と微笑んで母親は部屋を出て行った。
微妙な沈黙が訪れる。
咲楽は相変わらず美味しそうに和菓子を頰ばっている。
「ヴァイフ、まら居るんらね」
机の上のバイクのキーを見て咲楽がつぶやいた。
「ああ、そうなんです。なかなか、気持ちが吹っ切れなくて」
「むぐ…ゴクン。大事なバイクだし、そんな簡単には手放せないよ。思い出もたくさん詰まってるだろうしさ」
その通りだった。 むしろ思い出の方が大事で、バイクと一緒にそれも離れてしまう様な気持ちになって踏ん切りがつかないのだ。
「ねぇ、ちょっと見せてもらっていい?」
「バイクですか?いいですよ。まだ車庫にしまってあるので」
「よし!行こ行こっ」
残りのお菓子をお茶で流し込んで「熱っ!」と咲楽が叫ぶ。
二人で笑いながら車庫へ向かって階段を下りた。
結んであった紐を解き、掛けられたカバーをなつきがめくると綺麗な車体が姿を現した。
「おお〜…」
咲楽は自分のと同じ型のバイクを、初めて見る様にじっくり眺めてまわる。なつきは何となく照れくさかった。
「すごい綺麗にしてるんだね!」
ひと通り見終えた咲楽がお世辞ではなく褒めた。
「ええ、最後にピカピカにしてあげたくて。全部自分で磨いたんです。」
その言葉通り、普段は目につかない様な所まで丁寧に拭きあげてあった。
「これはいい値がつきそうだわ」
言葉に困っていたなつきに
「ね、この子私に売ってくれない?」と咲楽が振り返った。
「えぇ…。えっ?」
思いも寄らない提案だった。
「あたしのペケ(XJR)くん、結構距離伸びてるし、あちこちガタもきてるんだよね。ほら、みんな乗っけたりするじゃん?レストアして綺麗にするか、いっそ中古に買い替えようかなぁなんて思ってたんだよね」
以前なつきが乗せてもらった時はすごく大事にされてると感じ、そんな事は全然気づかなかった。
「どうかなあ?もちろん大切にするし、その辺の相場よりはいい値段で引き取らせてもらうつもりだけど」
「いいんですか?いえ、お金なんて…そんな」
憧れの人に乗り継いでもらえるなんて、それだけでも充分だった。あげてもいいとさえ思った。
「だめだめ。こういうのは仲間同士だからこそちゃんとしなくちゃ。それに、ちゃんと買い取ったってなれば私も心置きなく自分の物として可愛がれるし。ねっ」
「そうですか。嬉しいです!咲楽さんに乗ってもらえるなんて、本当に願ってもない事です!」
なつきを苦しめていた悩みが一番望ましい形で解決しそうだ。
「よし!じゃあ、決まり!ナンバーはもう外してあるから、あとは私の登録手続きだけですみそうだね。 そしたらだんな、お値段の方でやんすがね…。これでいかがでやんしょ?」
スマホに打ち込んだだけの数字を咲楽は見せた。それはどこに行っても付けられない様な金額だった。色々検索して大体の相場を知っていたなつきはオロオロした。
「えっ。ちょ、ちょっと高くないですか?」
「面白いなぁ。それ買う側の人が言うセリフだよ(笑)。メンテナンスも行き届いてるし、距離も全然乗ってない。あとは個人売買のメリットと、私の気持ちをプラスして。どう?」
なつきは心から嬉しかった。
「ありがとうございます!本当にありがとうございます!」
「よしっ、では交渉成立って事で!近いうちにお金用意して、引き取りにまたお邪魔するね。…それと、これはお願いなんだけど…」
改まった口調になつきは「?」という顔をした。
「いい意味で、もう黒羽のメンツじゃないから先輩後輩って訳でもないし。これからは敬語は無しで、私の事も"さん”付けじゃなくてもいいよ」
そうは言われてもなかなか難しいなと思った。
「私もこれからは"なっきー”って呼ぶから。バイクの事以外でも時々遊びに来てもいい?」
「はいっ!もちろんです!」なつきは目を輝かせた。
「ほら、それそれ(笑)。急には無理だよね。少しずつでいいから。これからは友達として、なっきーと付き合いたいんだ」
咲楽が右手を差し出した。
嬉しかった。
少し戸惑いながらも、なつきも握手しようと差し出した右手に、ポタッと涙が落ちる。
「はい…。あ、うん。これからもよろしく…オネガイシマス…」
「こちらこそ、どうぞよろしくねっ。ずーっとずーっと友達だよ!」
咲楽は力強く手を握り、なつきが震わせているその肩をそっと抱きしめた。
「ほら、ね。お姉ちゃん、居るでしょ?」
ぬくもりと優しさに、なつきはたまらず泣き出した。
新しいご主人を迎えるバイクの側で、二人はしばらく肩を寄せ合っていた。
2
今日の集まりは開始を早めた。参加メンバーが少ないのと、雨の予報が出ているため早目に撤収する予定だ。
みんなが集まり始めた頃、メンバーのひとり、由香里が友達を連れて翔子たちの所に来た。
「押忍、突然失礼します。この子わたしの友達で…。ほら、自分で自己紹介して」
由香里に促され、場に合わない制服姿の少女が名乗った。
「あ、あさいです。浅井 美織といいます」
緊張のせいか声が少し上ずっている。明らかにこういう所は初めてだろう。あまり夜更かしするタイプにも見えない。 由香里が何故こんな子を連れて来たのか翔子は気になった。
「実はこの子、最近ストーカーに狙われています」
由香里が彼女の事情を話し始めた。
少女は本当にごく普通の高校一年生だ。だがこのところ、一人の男に付きまとわれていた。
最初は気のせいだと思っていた。だが彼女が帰る時間、頻繁に校門の外で見かける様になった。 こちらをじっと見られている様な気がするが、怖くて目を合わせられない。 そのうち学校を離れても付いてくる様になり、近頃は自転車に乗って家の側まで付いて来たので、わざと家の前を通り過ぎて別の住宅地に入り、何とか引き離してやり過ごした。 いつか自分の家を知られるんじゃないかと不安で友達の由香里に相談した。
話を聞いた由香里は、隊の先輩たちに相談したが、そういうのは総長に言った方がいいと言われ、分を越えているとは承知の上で今日、本人を連れて来たという事だった。
「すみません、下っ端の自分なんかが総長に直接伺って…」
由香里は恐縮したが、
「大丈夫さ。隊員はみんな仲間だからね」
と翔子は彼女を安心させた。
その先輩たちも面倒事を放った訳では無い。事によっては自分達が動く必要が出てくるかもしれない。が、隊の一員である以上、勝手な事は出来ない。それで先ずは総長に話を通してから、という意味があった。
事実、彼女らは総長の声掛けひとつでいかようにでも動く用意があった。翔子もその事を充分理解していた。
「――そいつは多分、いつか何かやらかすね。もっと大きな事を」
卑劣な男共を沢山見てきた翔子が言い切った。美織という少女は明らかに怯えた表情をみせた。
「だからそうなる前に何とかしなきゃいけない。かと言ってまだ何もしてない奴を殴ったり脅したりする訳にもいかない。シラを切られたら証拠は無いし、下手すりゃこっちが加害者の側になりかねない。そこでどうするか。 ミキ!レイカ!」
総長が呼んだ二人の隊員は、偶然なのか由香里たちが最初に相談を持ちかけた先輩たちだった。
「美織ちゃん、だっけ?学校が終わるのは大体いつも同じ時間?」
「は、はい。部活にも入っていないので、いつも4時くらいに学校を出ます」
それを確認した翔子はミキとレイカに指示を与える。
「平日の朝と午後4時前後、都合のつくメンバーに声掛けてこの子の送迎やって。朝は行ける人間が最低ひとり居ればいい。帰りの午後も2台で充分かな。まずはそれを2週間、毎日続けて。様子を見ながら、必要そうなら延長する。怪しそうな奴が居たらとりあえず写真だけ撮っといて」
「押忍。二、三人は確実に対応できます。もし希望者とかヒマしてるメンバーがいたら一緒に行ってもいいですか?」
翔子は少し考えて答えた。
「いや、あんまり目立ち過ぎない方がいい。朝の迎えも最寄りのバス停とかぐらいにしといて。帰りも学校に近すぎない路地とかがいいと思う」
普通の少女の学校生活を考えての配慮だった。
こんな真面目そうな子が自分達みたいなと連るんでるなんて思われたら、良からぬ噂でも立てられかねない。それだけは避けたかった。
「分かりました。対象の野郎以外にはなるべく見られない様に気をつけます」
「よろしく頼んだよ。さて、そういう訳で由香里、美織ちゃん」
急に呼ばれ、二人揃って「ハイ!」と返事した。
「今後2週間、あなたの送迎はこの黒羽が責任をもって請け負う。こんなナリしてるけど、みんなあなた達の味方だから」
「はい」
「はい、ありがとうございます」
二人は頭を下げた。
「2週間続けて、姿が見えなくなれば2、3日に一度のペースに切り替えて警戒にあたる。日にちを空けていくのは、うちらがいつ現れるか分からない状態にするため。まぁ、黒羽と分かれば大抵は二度と近づかないだろうし、もし分からなくても"こんなの”が頻繁に迎えに来てたらさすがにビビると思うよ」
男が完全に現れなくなるまで、一ヶ月は見守る想定をしていた。
「みおちゃん良かったね!最強の護衛だよ!」
誇らしげに由香里が言った。
「総長、先輩方。ウチとは関係ないのに、お手間お掛けして…。本当にありがとうございます」
深々と頭を下げる由香里にならって、美織もペコリと頭を下げた。
「関係なくは無いさ。大事な仲間の友達だ。それに…」
久しぶりに目をギラつかせて翔子が言った
「あたしは卑劣な男が大っ嫌いなのさ」
予定より早い解散だったが雨は予報通り降ってきた。翔子は帰り道、もしかしたらまた孔雀が出るかも知れないと、バイパスへ向かった。
(あいつが姿を見せてから追ったんじゃとてもじゃないけど間に合わない。どこまで行くのか分からないけど、直線の終わる地点で待てばチャンスはあるかも知れない)
そう考えて、孔雀がこの前走り去った方向のバイパス直線が終わる辺りに、単車と一緒に身を潜めた。
雨は本降りとまではいかないが嫌な感じで降っている。待ち始めて1時間が経ち路面も濡れているが奴はまだ現れない。自販機でおしるこでも買って来ようかと思ったが、その間に行ってしまったら元も子もない、と動けない。
身動き取れないまま3時間。この前出くわした時間は過ぎている。
考えてみたら時間を決めて走ってる訳でもな
いだろうし、気まぐれで走っているだけかも
知れない。だとしたら朝まで待とうが現れな
い。
体が本格的に冷えてきた。もう限界だ。さす
がに待てない。
何で今日は来ねえんだよと舌打ちしながら翔子は単車のエンジンをかけた。
翌朝、見事に風邪をひいた。
3
浅井 美織の送迎は、相談のあった翌日から早速実行された。美織が家を出て、待ち合わせ場所とされたバス停へ向かっていると、制服姿の由香里が声をかけてきた。
「おはよっ。バス停の手前の角を右に曲がろ」
そこは袋小路になっていて付近の住民のゴミ捨て場があるが今日はゴミの日ではない。
「ゴミ捨てーション」と書かれた看板の所に2台の真っ黒なバイクと、背中に"黒羽”と描かれた上下服(ツナギ、または特攻服と呼ぶらしいのを美織は後で知った)を着た女の人達が待っていた。
「おはよう美織ちゃん。今日はうちら二人が送ってくね」
知らなければ避けて通るような人たちが優しく声を掛けてくれる。
「ごめんね、あたしも学校行かないといけないから。帰りは迎えに行くからね。では先輩方、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げ、由香里はバス停へ走って行ってしまった。
美織は心細くなる。
「はい、じゃあこれ被って。ちょっと大きいけど顔も隠れるからね」
ツナギ姿のスタイルのいいお姉さんが、フルフェイスのヘルメットを渡しながら自己紹介した。
「わたしは志織だよ。一文字違いだね。送迎のメンバーは入れ替わり立ち替わりだから名前はいちいち覚えなくてもいいけど、念のため。ねっ」
にっこり微笑んでくれた一文字違いのお姉さんに美織の緊張が少し和らいだ。 初めて乗せてもらうオートバイに美織は横向きにちょこんと腰を掛ける。
「ふふっ。自転車じゃないんだから(笑)。バイクはこうやって跨がるんだよ。あ、そうそう先にコレ履いて。汚れてもいいやつだから」
そう言って貸してくれたのは少しぶかぶかのジャージだった。おかげでスカートでも安心して跨る事が出来る。
「それから、ヘルメットは頭に乗っけるんじゃなくてここまで被るっ」
美織が帽子のようにしていたヘルメットを志織が押し込んで、あご紐をカチッとしてくれた。
何から何まですみません、と思っていたが言えなかった。降りたらきちんとお礼言わなきゃ、と思った。
エンジンがかかると、バイクは「ウォン!」と吠える。ヘルメット越しでも美織はビクッとなった。 走り始めたら志織の腰にしっかりしがみついて、美織はずっとドキドキしっぱなしだった。
学校近くまで来ると、2台のバイクはエンジンを止めて静かに路地裏に入って停まる。学校に気づかれないための配慮だった。
「帰りもここで待ってる人が居るから。その時は由香里もいるし。全員同じような格好だからすぐ分かるよ」
志織はニコッとしてエンジンをかけ、去って行った。
2台のバイクの咆哮が遠ざかってから、美織は「あっ」と、お礼も言えなかった事を申し訳なく思った。そしてもう誰も居なくなった路地の向こうに深々と頭を下げた。
「今朝思ったんだけどさぁ、朝の迎えはもう少し離れた場所にするわ」
今朝送ってくれた先輩が由香里に言った。
「今日はたまたまゴミの日じゃなかったから良かったけど、近所の人が来る様な所はマズい。あと場所自体もちょいちょい変えるから、前の日にでもあんたから彼女に連絡するようにしといて」
色々な配慮に由香里は恐縮しきりだった。
「色々すみません。本当にありがとうございます」
「礼なんていいよ。総長直々の命令なんだから」
「そう…ですよね。すみません」
「それに、大事な仲間の友達だもんな!」
肩に腕を絡めて本心を語った先輩の言葉に由香里の表情がほころんだ。
「そのストーカー野郎ってのも気に入らないしね」 横で聞いていた志織があごでしゃくった先に、一人の男がウロついている。
「あいつ、さっきもあそこ通った」
つぶやく志織にならって二人もそれとなく姿を確認する。
「もうすぐ下校時間だ。由香里、あんた今日制服だし校門の近くまで迎えに行ってやんな。そんでちょっとアイツの様子も探って来て」
「押忍」
午後4時を目前にして、三人はそれぞれ警戒態勢に入った。
4
「ピピッ。ピピッ」
検温完了の音がしたので体温計を脇から取り出した。
37度3分。何とか一日で治りそうだ。それにしても我ながらバカな事をしたもんだと翔子は思った。
待ってる場所はあそこでいいと考える。もし反対車線を走って行ったらその時は仕方ない、次の機会を狙う。ただ次回は雨がもっと強い日にしようと思った。初めて見た時も激しい雨の夜だったのだ。
それにしても、何であんな危険な事をするのか。目立ちたいとか、伝説づくりなら他に方法もありそうなもんだ。ヤツには何か、別の目的があるんじゃないだろうか。伝説だの幻の存在だのと騒いでいるのは勝手に周りがそうしてるだけで、本人はそんなつもり無いのかも知れない。では、どんなつもりなのか。何の目的があるのか。 過去にバイクで死亡事故が起きた、あの危険なストレートで。
亡霊……。
バカな。 でも一瞬だけ寒気がした。
翔子は少し身震いしながら、ゴホゴホと咳をしてまた布団に潜り込んだ。
「みお!おつかれさま!」
校門の外から由香里が元気に手を振っている。待っててくれた親友の顔を見て、美織もホッとして手を振り返した。
「よその制服だから、外で待ってたよ」
通りすがる男子生徒達が「誰あれ?」「かわいくね?」とヒソヒソして行ったが、由香里の耳には入ってなかった。
校門を出てぐるりと裏手に回る。途中から例の男が微妙な距離を保ちながら付いて来たが、二人は気づかないふりで歩き続けた。
路地に入って由香里がチラッと後ろを伺う。男は路地裏の黒いバイクを見て立ち止まっているようだ。
「ようよう可愛い子ちゃん達ぃ。お姉さん達と一緒にデートしな〜い?」
今朝乗せてくれた人が笑顔で迎えてくれて、美織も顔をほころばせた。
「どうだった?」志織は小声で由香里に状況を尋ねる。
「間違いないですね。ずっと校門の辺ウロウロしてたのに、この子が出てきたら間空けて付いて来たもん。分かり易すぎ」
「オッケ。決まりだな。 よしっじゃあ可愛いキミには、これ!」
今朝と同じ、顔が隠れるヘルメットだが、横にタンポポのシールが貼ってある。
「かわいい!ありがとうございます!」
美織は本当に嬉しく、そしてやっとお礼が言えた。
「フフン♪いいでしょ?あたしのアイデア。いつも使ってる自分用っぽく見えるでしょ。ちなみに花もあたしがチョイスしたの」
志織は誇らしげに胸を張った。
「志織さん良かったですね!あのね、さっきキミが来る前に、もし不評だったらウチが貼ったことにしてくれって気にし…イテッ! メットの上から叩かないで下さいよぉ。脳天に響くんだから!」
「言っちゃダメでしょ言っちゃあ!」
みんなできゃいきゃいしながら志織が振り返るとそこに男の姿はもう無かった。
「初日は まずまずじゃない?」
「ですね」先輩の言葉に由香里も同意した。
2台のバイクに二人ずつ跨り、全員でその場を後にした。
5
いつものテキストをこなして、のどかは学習塾を出てきた。 中学も三年になると追い込みがキツくて嫌になる。たまには息抜きしたいが、なつきが辞めてから集まりには行ってない。そもそもバイクに乗れないのどかは、いつもなつきの送迎で連れて行ってもらっていた。 迎えに行くからいつでも言いなよと言ってくれる人たちもいるが、なつきの居ない集まりは淋しくてまだ行く気にはなれない。
ふぅっ、とため息をついて さぁ帰ろうとした時、
「あれ?のどかちゃんじゃない?」
と声を掛けられた。
「あれ?咲楽さん!びっくり。どうしたんですか?」
咲楽はTシャツに短パン姿で、袋の様なバッグを後ろにしょっている。
「あぁ、あたし週3ぐらいでここに通ってるんだ」
咲楽は学習塾の二階を指さした。そこはボクシングを教えているジムだ。
そういえばキックボクシングをやっていると誰かに聞いたことがある。
「トレーニングだから続けないとすぐ萎えちゃうし、ここだと身に着けるもの以外は全部タダで貸してくれるんだ。シャワーもあるし」
濡れたショートヘアは格好良くいい匂いもして、同じ女の子なのに色っぽく感じ、少しドキッとしてしまった。
「のどかちゃんは?こんなとこでどうしたの?」
のどかは塾の事を何となく隠したくて
「あー…。あっ、あのコンビニにタバコ買いに来たんデス」
と隣のコンビニを指さしてハッタリの嘘をついた。
「あ〜いけないんだぁ」
咲楽の笑顔に少し胸がチクッとしたが、仮にも黒羽のメンバーである自分が学習塾に行ってましたとは、とてもじゃないが言えなかった。何だか格好悪くて言いたくない、というのが正直な気持ちだった。
「もう帰る?あたし向こうのコインパにバイク停めてるから、良かったら送ってあげよっか」
「えっ、本当ですか!ありがとうございますっ」
のどかは憧れの先輩に有り難く甘える事にした。
コインパーキングまで歩きながら、話題は自然となつきの話になる。
「本当にスッパリ辞めちゃったね。だいぶ悩んでたみたいだけど、芯は強い子だったから」
「そうですね…」
のどかは言葉が続かなかった。
自分には告げずに去って行った親友。何でも話し合える仲だと思っていた。そう思っていたのは自分だけだったのだろうか。
沈黙の中で、咲楽がポツリと呟いた。
「言いづらい事って、あるよね」
「えっ?」
「いやほら、言いにくい事ってあるじゃない。あたしもそうなんだけど、嫌な事とか辛い事ほど相手に言えない時。特に相手の事を想ってる分、言いづらい事ってあるよなぁって」
そう。のどかにも分かっていた。
きっとなつきは、彼女自身も辛かったと思う。何も言わずに去ってしまう事も、それを後で知って傷つく私の気持ちも、分かっていたけど言えなかったのだろう。ただそれでも、最後のお別れだけはちゃんと言いたかった。今までの感謝の気持ちも、きちんと伝えたかった。 もうそれが出来ないと思うと歯がゆくて悔しくて、悲しかった。
「あのさぁ。今あたしが乗ってるバイク、なつきちゃんのお下がりなんだよね」
「えっ!そうなんですか!?」
「そう。手放す方法を悩んでたから、あたしが買い取ったんだ。あたしのペケくんもだいぶくたびれてたしね」
そうだったのか。なつきは黒羽を辞めただけじゃない、バイクも辞めたんだ。
ショックに似た寂しさの様なものがこみ上げてきた。
今はどうしてるんだろう。私と同じように、寂しさの中にいるんだろうか。それとも、もうバイクとは関係のない新しい友達と青春を謳歌しているだろうか。 それはそれで少し淋しい気もするが、なつきにポツンと孤独の中に居て欲しくない。 のどかはそっちの方が辛いと思った。
「会いたい?」
咲楽がのどかの顔を覗き込んで訊いた。
「えっ、あ、はい。…会いたいです」
まるで心を見透かされた様な気持ちでのどかは答えた。
「よしっ!じゃあ会いに行こう!」
「えっ!?」
自分は今日、何回おどろかされるんだろう。と のどかは思った。
「実はこないだバイクの引き取りの時、"黒羽は辞めてもずっと友達だよ!”宣言をしたんだ。だからあたし達三人で、今度なつきちゃん家でお茶会しよう。友達同志で!」
のどかは嬉しかった。
黒羽だけで繋がっていた友情が、これからまた、まだまだ築いていけるんだ。友達として。咲楽さんと三人で。
「はい!ぜひ、是非お願いします!」
咲楽は、あどけない少女のようやく見せてくれた笑顔を愛しく思いながら、なつきのお母さんが"今度来る時は手作りケーキを用意して待ってる”と言ってくれたのを思い出して、早くも舌舐めずりしながらニコニコしていた。
「お姉ちゃん達、どこ行くの〜?」
素敵な気分が一瞬にして壊される。いかにも頭の悪そうな三人組が、ニタニタしながらこっちを見ている。
「別に、どこも行かないよ。家に帰る」
咲楽がいかにも不機嫌そうに、そっけなく答える。のどかの本能は危険を察知し、鼓動を早めた。
「えーまだ早いじゃん。週末なんだしどっか行こうよ」
金髪の若者が近づきながら話し掛けてきた。
「ああ、それいいね。早くどっか行っちゃいなよ」
咲楽が冷ややかに言い放った。
「あぁっ?かわいいから優しく声掛けてやってんのに、んだテメェ。調子こいてんじゃねぇぞコラァ!」
咲楽さんやばいよ刺激しちゃ駄目だよ早く逃
げようよ。
のどかは心の中で念仏の様に繰り返していた。
「はぁ?別に調子なんてこいてないよ、本当にかわいいもん。…だけじゃないけどね」
最後の一言までは耳に届かず、三人組は咲楽たちを取り囲んだ。 のどかは周りをキョロキョロしたが人影はない。それに気付いた若者の一人が嫌らしく言った。
「誰も居ないみたいだねぇ。声出しても聞こえないねぇ。まぁこっちにゃ都合いいけど」
咲楽がフッと笑う。「ほんと、好都合…」
「あ?」
男が言いかけた時、咲楽のローキックが彼のふくらはぎを直撃した。
「っだあああぁぁぁ〜!」
悲鳴の様な叫び声を上げて男が倒れ込む。
「あにしやがんだテメェ!」
向かって来た二人目の若者も、叫び声と共にローキックに沈んだ。
「おらクソ女!てめえぶっころ、おおおぉぉぉあぁぁぁ…!」
相手に物言う時間も与えず、咲楽は最後の一人もローキックでギブアップさせた。
三人組は逃げようとするが、激しい痛みでうまく立ち上がる事も出来ない。金髪男の髪を掴んで、咲楽が話し掛けた。
「はぁ…情けな。あんな意気がってこれ?マジかわいそ」
別の若者のあごを掴んで説教する。
「あんたら強いのかも知んないけどさぁ。女の子相手に凄んでんじゃねえぞコラァッ!!」
空気がビリビリする様な怒号だった。
「力ってのはなぁ、誰かを守るために使うもんなんだよ。分かったか!」
「はい…すいません…」
痛みに苦悶の表情を浮かべながら若者が謝った。
咲楽は最後の一人の所へも向かう。
「自分が情けねぇって思ったらもっと鍛えな。ここも!ここも!」
頭と胸を指で突いて咲楽が説いた。
「コンビニのとなり、2階に"佐竹ジム”ってのがあるから、そこでイチから教えてもらいな。もうちょっとマシな男んなったら、あたしが稽古つけてやるよ」
わっ。咲楽さん宣伝までしてる。
のどかは一連の流れる様な出来事にしばし茫然としていた。
「お待たせっ。行こっか」
振り返った咲楽はいつもの可愛い笑顔に戻っていた。
今まで憧れも尊敬もしていたが、これからはこの方を「咲楽様」と呼ぼうとのどかは心に決めた。 そして黒羽の外でも、真っ赤な口紅じゃなくてもこの人はこんなに強くて格好いいんだと改めて大好きになった。
コインパーキングに向けて再び歩き出したところで、のどかはやや興奮気味に話し掛けた。
「すごいですね!足を蹴っただけで男の人を三人も懲らしめちゃうなんて」
「ああ、翔子姉からハイキックはするなって止められてるんだよね。もし頭に当たっちゃったら相手をこ◯すかも知れないからって」
…分かる気がする。
のどかは今日たくさん驚いた日だったが、この出来事が一番おどろかされた。
6
「一体いつまで写真と記録をながめてるんですか。情報収集はもう充分でしょう。早くあいつらを検挙しましょうよ!」
いつまでも動きを見せない平八に、若い刑事は苛立ちを募らせていた。平八は カッカする坊ちゃんに向き直る。
「検挙、何の容疑でだ。暴行か?恐喝か?」
いずれの件でも被害届は出されていない。起訴もされてない。
「そりゃあ…、ほら色々あるじゃないですか。集団暴走行為とか、危険運転の罪とか」
坊ちゃんは何にしても早く実績を上げて本庁に戻りたいらしい。
「集団暴走ったってなぁ…。あいつらただ集まって走ってるだけだぞ。信号も守るし、むやみやたらに空ぶかしもせん。おまけに奴ら何でか知らんが、住宅街は極力避けて走る。したがって騒音の苦情ひとつ入ってねぇ」
平八は続けた。
「危険運転にしたってそうだ。あいつら以外に日頃どんだけの人間が危険な運転を繰り返してる?こないだの速取りの奴の方がよっぽど危険だったぞ」
つい先週、交通課と合同で速度違反の取り締まりを実施していた。そこへ1台の車が減速もせず警察官の停止合図を無視して突っ込んできた。 すんでの所で合図係の警察官は避け、幸いにも軽い擦り傷程度で済んだが車はそのまま逃走。 覆面パトカーで待機していた平八たちが後を追ったが、逃走車両は信号無視。更には対向車線の逆走や歩道にまで乗り上げて走り、市民を巻き込みかねない危険で無謀な運転を続けた。
何とか前に回り込んで道をふさいだ覆面パトに逃走車はためらう事なくぶつけ、尚も逃げようと悪あがきをする。 応援のパトカー数台で挟み打ちにして全力で車を止め、平八が窓ガラスを叩き割って運転手を引きずり出しようやく"御用”となった。
運転していた若い男は違法な物を吸引しており、意味不明な言葉を叫んでいた。
「そりゃまぁ、そっスけど…。でもだったらこの部署の在る意味って何なんスか?」
…うば捨て山だ、と平八は言いたかったが黙っていた。
新設されたはずのこの部署は間もなく「対策"準備室”」と名を変える。異例のランクダウンだ。 この若い刑事には話してない。あまりにも哀れだと思った。
「まぁもうちょっと待て。大きな動きがあればすぐ着手する用意はある。上(署長)にも話を通してるしな」
分かりました、と仕方なく若い刑事は引き下がった。
大きな動きなど、俺が定年するまで無いかも知れんな…。と平八は思った。
7
浅井美織の対ストーカー作戦が開始されてから二週間が過ぎた。 毎日ウロついてた男は次第に見かける日が少なくなり、最近は全く姿を現さなくなった。怖そうな人達といつも一緒にいる事でついに諦めたのかも知れない。
この二週間で、美織は黒羽のほぼ全メンバーと顔を合わす事が出来た。 今回の件を任されていたミキとレイカが本日をもって一応の終了を告げる。最終日の今日はこの二人が送ってくれた。
「終了とは言っても完全に警戒を解く訳じゃないから。これからも希望するメンバーは、あなたの了解を得て送迎出来る事を伝えてある。あなたにはいつでも黒羽が付いている事をヤツに思わせるためにもね。まぁまた何か気になる事とか不安があったらいつでも由香里に言って」
「分かりました。…あの、こんな何の関係もない私なんかをずっと守って下さって、本当にありがとうございました。何とお礼を言っていいか分かりません」
丁寧な感謝の言葉にミキはふっと微笑んだ。
「あなたは本当にいい子だよ。ウチラはもともと総長の命(めい)に従っただけだから、礼なんていいのさ。とはいえ、命令だからってだけじゃない。大事に想う気持ちがあったのも確かだよ」
「それに、」レイカも言葉を添える。
「こんなあたしらでも、誰かのためになれるってのは嬉しいもんさ。翔子さんが大事な仲間を守りたいって気持ちも少し分かった気がする」
そうだね、とミキもうなずいた。
「まあとにかく、男がらみで何かあったら翔子姉は絶対に許さない人だから(笑)。ただ、ウチらみたいのとあんまり直で関わるのは好ましくないから。困った事があったら由香里を通して相談してよ。じゃっ!」
走り去って行く2台のバイクを美織は感謝の思いで見送った。 バイクが見えなくなっても、その音が聞こえなくなるまでずっと頭を下げていた。
8
日向 春日(ひなた·はるひ)はバイクが大好きだ。 しかもカウルと呼ばれるカバーの付いてない、いわゆるネイキッドタイプが好みだった。そんな彼女が黒羽に惹かれたのはバイクのスタイルも勿論だが、全員女性である事、そして何より仲間達の優しさと絆の深さに感動したからだった。
総長以下"黒羽五人衆”と呼ばれる上の人たちも最初は怖くて近づく事すら出来なかったが、今では総長の翔子には母親の様な安心感を、五人衆の人たちには姉のような頼りがいを感じている。 かと言って畏れや敬いを軽んじる事は無かったが。
大好きなバイクも黒羽で一番詳しい、と本人は思っている。
先ず、総長の乗るCB400は昔の"単車”と呼ばれていた時代の物で、あそこまで綺麗に現存しているのはかなり貴重である。
副総の弥生さんはカワサキのゼファー。こちらも旧車の部類だ。
葵さんも同じゼファーだが、マフラーが違うのか排気音が異なる。しかも葵さんは片手でも運転しやすい様にクラッチやギアに工夫が施されているらしいが詳しくは教えてもらえない。意地悪じゃなく、いわゆる「企業秘密」というやつだろう。それもまた格好いい。
大野 理沙さんが乗るホンダのCB400SF (スーパーフォア)は乗りやすくて心地いいと本人が言っていたが、自分もスタイルはバツグンに好きだ。
咲楽さんの愛車はヤマハのXJR。ペケ·ジェイ·アールの呼び名から咲楽さんは「ペケくん」という愛称で呼んでいる。なつきさんから受け継いだ二代目だ。
又聞きだがなつきさんからバイクを引き取る時、キーホルダーの猫に良く似たぬいぐるみで、撫で方で色んな鳴き声を出すおもちゃをプレゼントしたそうだ。なつきさんは泣いたらしい。いかにも咲楽さんらしいなと思った。
さて、バイクに詳しいと自分では思っていたが、コンビニに停めてあるこのバイクは初めて見た。側で綺麗なお姉さんがタバコを吹かしていて、店内の彼氏でも待っているのかと思ったが客は自分一人だった。どうやらこのバイクの持ち主らしい。気になってチラチラ見ていたら
「なぁに?何か用?」と気づかれてしまった。
柔らかい喋り方に少しホッとする。
「あ、すみません。ちょっとバイクに興味があって。何ていうかその…、男前なバイクですね」
慌ててつい本音が口を出てしまった。気を悪くしないだろうか。
お姉さんは長い髪をスッとかき上げて
「嬉しい事言ってくれるじゃない」と微笑んだ。
良かった…。ドキドキが落ち着きを取り戻した。
「このバイクはね、"トライアンフ”っていう英国生まれの名馬。買ったのは日本だけどね。タイプは種類があるけど私は不整地でもぐいぐい走ってくれるこの子が気に入ってる」
英国…。どうりで見たことがない訳だ。頭の中のバイクライブラリーに追加しておこう。
春日は更に詳しくバイクを観察してみる。 見た事がない所は他にもあった。
後輪の横あたりに信号機の様なランプが縦に並んでいる。しかも左右で10個も。
バイクを光らせるのは黒羽にもやってるメンバーが居るが、こんな数を色とりどりに並べてる人は居ない。こういうのも流行ってるのか今度聞いてみようと、春日は次の集まりの日をスマホでチェックした。
「どう?少し乗ってみる?」
思いがけない誘いだったが春日は残念さを隠さずに答えた。
「ありがとうございます。でもごめんなさい、私免許持ってないんです」
せっかくのチャンスだったがこればっかりは仕方ない。もうすぐ16歳になったらすぐに免許を獲りに行って早く先輩たちに追いつきたいと思っていた。
「なんだそっかぁ。じゃあ後ろ乗ってみる?ちょっと乗りづらいだろうけど」
「ほんとですか!わっ、お願いします!」
春日は遊園地の乗り物の様にわくわくしながら、後ろの席によいしょと跨った。
確かに彼女の言う通り、足を置く場所にちょうどカラフルランプが付いていて踏ん張るのはキツそうだ。それを察してか
「大丈夫。そっと走ってあげるから。"男前”なんて、私が一番嬉しい事言ってくれたお礼だよ」
と彼女が言った。
こんな機会は滅多にない。春日はランプの隙間に何とか足を潜り込ませて
「オッケーです。お願いします!」
とスタンバイした。
「オッケ。じゃあこれ」
お姉さんがヘルメットを貸してくれた。そういえばそうだった。だがメットは1人分しか無い。
「あ、え?お姉さんは?」
「ゆっくり走るから大丈夫」彼女は余裕の表情を見せる。
「でももしお巡りさんに見つかったら…」
「見つかれば、ね。そん時は飛ばすよぉ!」
どこまで本気か分からないが、このチャンスを逃したくない。春日は好奇心の方が勝り、彼女を信じて委ねる事にした。
「じゃあいくよ。しっかりつかまってて!」
エンジンがかかると「ドルルルルン!」とバイクが吠える。今までに聞いたことの無い独特な音だった。 春日は言われた様にしっかり腰につかまった。こんなバイクを乗り回してるとは思えない程、華奢な腰周りだった。
"ゆっくり走る”とは彼女にとっての「それ」であったと、走り出してすぐ春日は気付かされた。 だが不思議と不安は感じなかった。スムーズなコーナーリングも少し速いストレートも、この人にしがみついていればどこまでも付いて行ける、そう感じさせるライディングだった。彼女とバイクは一体になっている。春日にはそう思えた。
15分程走ってバイクは元のコンビニに戻った。あっと言う間な気もするがとても充実した時間だった。
エンジンを止め、彼女は「どうだった?」と春日に尋ねた。
「素敵でした…」
少しうっとりしながら春日が呟く。
しなやかな走り、風に煽られて香る髪の匂い、髪と共に両耳でキラキラなびくピアス。
全てに憧れてしまい離れるのが惜しかった。
「ありがとうございました」
ヘルメットを返しながら春日はお礼を言った。
「こちらこそ。人を乗せて走るのは初めてだったけど、楽しかったよ」
お姉さんがにっこり微笑むと、耳元でまたキラキラとピアスが揺れる。
「どっかでまた会えるといいね。じゃあおやすみ」
彼女は再びエンジンをかけ、颯爽と夜の闇に消えていった。
加速がさっきとは明らかに違う。やはりゆっくり走ってくれていた事を春日は察した。
しばらくぼんやりしていたが、春日は何だか黒羽の人達に申し訳ない様な気持ちになった。メンバー以外の人に乗せてもらった事、そして他の誰よりも憧れてしまった事が仲間を裏切ってしまった様な気がしたのだ。
今夜の事は誰にも話さず、自分だけの大切な
思い出にしよう。
春日はまだドキドキしている胸に誓った。
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