影の商人

洞貝 渉

影の商人

 知っている。

 私はここを知っている。 

 秋の山は実りが多い。

 だからすこしでも足しにしようと思い、ここに来たんだった。

 ああ、違う。

 それはもうずっと昔の話だった。

 まだ幼いころの話だった。

 酷く怒られたんだ、あの山には入っちゃいけないと。

 ならば、なぜ私は再びこの山に来てしまったのか。

 はやく帰らないと、また山に入ったのかと怒られてしまう。

 ああ、それも違う。

 私はここに連れてこられたんだった。

 誰かが私をここまで運んでくれた。

 厳しい山道を、私を担いで、大変だったろうに。

 ここは山のどこだろう。帰り道がわからない。

 私をここまで運んでくれた誰かは誰で、どこに行ってしまったんだったか。

 誰かは確か泣いていたはずだ。

 あの子は昔から泣き虫だった。

 はやく抱きしめて、背中を撫でてやらないと。


 日が暮れる。

 この時期は、日が暮れればあっという間に凍える寒さになる。

 家に入って暖かくしなければ。

 ここはどこだったか。

 見渡す限り、木々が生い茂っている。

 知っている。

 私はここを知っている。 

 秋の山は実りが多い。

 だからすこしでも足しにしようと思い、ここに来たんだった。

 ああ、違う。

 それはもうずっと昔の話だった。


 私の影がゆらりと揺れて、こんにちはとあいさつをする。

 私も私の影にこんにちはと返すと、影は気づかわしげにお困りのようですねと言ってくる。

 影は商人と名乗り、私の話と引き換えに私の望みをきいてくれるのだと嘯いた。

 

 私は試しに、寒さを和らげるのと引き換えに両親の話を聞かせてやった。

 話終わると、肌寒さがすっと消え、仄かなぬくもりを感じる。

 取引が成立したようだ。

 

 他に望みは?

 影に促され、私はここがどこで帰り道はどこなのか尋ね、代わりに子どもの話を聞かせてやった。

 話が終わると、ここが姨捨山で帰り道は険しい山道のため私の足腰ではとうてい歩き通せないことがわかる。

 取引が成立したようだ。


 他に望みは?

 影に促され、私は帰りたいのだと懇願し、故郷のことをコンコンと話して聞かせた。

 長い長い話が終わると、私は足腰がしっかりとした若者になっている。

 取引が成立したようだ。


 するどい西日が、影を長く大きくしている。

 夜が迫っていた。

 私はずっと忘れていた軽やかな動きを取り戻し、山を駆ける。

 一歩踏みしめるたび、胸の内に喜びが弾け、ますます足取りが軽やかになっていく。


 下山する私の視界に村が見えてきた。

 喜びにあふれていた私の胸が、急に萎んだ。

 あれは、なんだ?

 あなたの故郷ですよ、影が言う。

 私の故郷? 知らない、なんだあれは?

 帰ることと引き換えに、故郷の話をいただきましたので。

 影がひっそりと返答するが、私にはなんのことかわからない。

 帰る、そう帰りたかったのだ。

 でも、どこに? 何のために?

 なにか大切なものがあったような気がする。

 それが悲しんでいるから、慰めたいと願ったのだ。

 しかしそれが何だったのか、もう思い出せない。


 私は再び山の奥へと走り出す。

 日は極限まで絞られ、夜に追い立てられようとしていた。

 そろそろ店じまいになりますが、最後に、なにか望みはございませんか?

 影の言葉に、ないと答えかけて止めた。

 あの人のところへ行きたい。先にいってしまった、あの人のところへ。

 私はそう願い、今までの人生について、何を想いどう生きてきたか、端的に話して聞かせた。


 完全に日が落ち、影は消えた。

 夜の山は真っ暗で、若返ったこの目でも一寸先も見えない。

 木の根に足を取られぬよう慎重に歩みを進めると、やがて柔らかな人の声と薄ぼんやりとした光が前方からやってくる。

 私を呼ぶ、あの人の懐かしい声がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

影の商人 洞貝 渉 @horagai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画