第六話

 階段を下りてきたのは一人の男だった。ヨレたTシャツに短パン。そこから見える手足は細くかった。その男はフラフラと頭を横に揺らし、力なくこちらに近づいてくる。

「やぁ、どうも、ははは。市長さん、お久しぶりです」

 彼は立っているのがよっとといった風で、すぐに椅子を引いて座った。ふわりと埃が舞う。

「お久しぶりです。風間さん」

「えっ」思わず声が漏れた。

 私は失礼に気づかず、その男の顔を観察するつもりで見つめた。椅子に座ってこちらを見上げている彼は、写真で見た風間なる人物とはまるで似ていなかった。頬はこけて、肌もガサガサ、生え際も後退し白髪交じり。唯一、白目が反射する光が若者のものだったが、それ以外は60代のそれと言われても疑わないかもしれない。

「老けてるでしょう」風間は自分をしげしげと見つめる視線に言った。

「あ、いえ、そんなことは」と私。

「いいんですよ。気にしないでください」

 そらから風間は何かお茶でも、と立ち上がろうとしたが、ケイちゃんはコツンとマスクを指で叩いて見せた。

「すいません失念してました」

「いえいえ」

 ケイちゃんはどっかからパイプ椅子を引っ張ってきて座った。これで、机を挟んで幼馴染が警官と面と向かって話している構図になるわけだが、方やマスクを付けた市長、方や瘦せこけた私服警官とあっては、シュールな取り調べも良いところだった。

「どーですか?調子は?」ケイちゃんは言った。

「悪いですね、とても」風間は自嘲気味に言った。

 彼はホントに中毒者なのだろうか。見た目こそ末期患者のそれだが、受け答えはしっかりしているし、なによりジョークを言えるのが違和感でしかなかった。

「でも、今日のために頑張って来ましたから」

「ええ、必ずあなたを街の外へ連れ出して見せます」ケイちゃんは自信ありげに言った。「紹介が遅くなりましたが、こちらはワタシの部下です」

 咄嗟に私は会釈してしまった。風間も私に会釈を返す。心外だが、この場で私はケイちゃんの部下ということになってしまった。

「風間さんはここに住んでいるんですか?」私は気になって聞いてみた。

「ええ、まぁ。これでも一応警官ですから」風間は居心地が悪そうに言った。「この街には警官なんてもう必要ないですけどね」

「今は何を?」

「恥ずかしながら、ここに引きこもっていることが多いです。でもそれも、今日で終わりです」

 風間は机に手をついて立ち上がった。「準備をするのでちょっと待っててください」二階に戻っていく彼の背中を私は見送った。


「前に話したと思うけど、この街は来るものを拒まず、去る者を追わずがセオリー。連れ出すだけなら、大して障害はない」風間を待つ間、私はケイちゃんに言われた言葉を思い出していた。「誰を連れ出そうと、誰を連れてこようと、街は何も言わないし、咎めない」

「そんな、街に人格があるみたいに」

「いずれ分かるよ、私たちが戦っているのが人でも組織でもなくて、この街自体だってことに」

 この交番に着くまでのちょっとした時間に話していたこと。マスクのせいで彼女の表情は見えなかったけど、過去を顧みる遠い声色をしていた。

 

「お待たせしました」

 風間さんはまたフラフラと階段を下りてきた。さっきと変わったことと言えば、シワのないシャツに着替えたことくらいに見えた。

「それじゃ行きましょ」

 ケイちゃんは笑顔を見せて立ち上がり、先に外に出た。彼女は戸を引いて、私の横を通った。私は何気なくケイちゃんの横顔を見下ろした。そして、彼女の笑顔が一瞬消え去り、この先に待つ不安に備える固い表情を見せたのをとらえた。一抹の不安を私も覚えながら、私も交番の外に出た。

 ホテルへ戻る道中、3人とも無言だった。先頭を歩くのはケイちゃん、その次に風間、しんがりを私が歩いていた。イエローのせいで視界が悪く、ケイちゃんの背中は時折、黄色い霧の中に紛れて見えなくなっていた。私は風間の背中を追いかけながら、一歩先を行く彼女を見失わないように目で追いかけていた。


 交番を出てから何分が経っただろうか。濃い霧の中にいると、時間の感覚も狂ってくる。私は腕時計を付けてこなかったことを軽く後悔しながら、前を歩く背中を追っていた。

 すると突然、風間は立ち止まった。私も足を止める。

「どうかしましたか?」私は言った。

 私の声が聞こえていないのか、風間はぼうっと突っ立ったままだった。後ろからだとよく分からなかったが、濃い霧の向こうを見据えているように思えた。

「風間さん、大丈夫ですか?」

 私は彼の肩に手を置いた。それでも反応がないので、私は彼の顔が見えるように、一歩踏み込んだ。

 ああ、これはダメなやつだ。直感でもなくそう思った。

 風間の目は、焦点を合わせないままグリグリと非対称に回り続けていた。口は半開きになって、端からは涎が垂れている。微かに痙攣もしていた。吐く息が声帯を震わせ、小さい呻き声となって聞こえて来ていた。

「ケイちゃん!」私は前を歩いているはずの彼女に向けて叫んだ。が、その声は誰にも届かず、黄色い霧に溶けていった。

「どこいったっていうんだ」

 私は辺りを見回し始めるた。それに気を取られていたせいかもしれない。風間の手が、ゆっくりと私の腰に下げてある予備のボンベに伸びてきているのに気が付かなかったのは。

 

 

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