第五話
「ナオくんの分もあるよ」
彼女は車のトランクを開けた。そこにはケイちゃんのつけてるのと同じマスクと、水筒ほどのボンベが二十本ほど入っていた。
「一本でだいたい30分もつ。二人で合計5時間動ける計算になるね」
私はそこで初めて怖くなった。情けない話だけど、あれだけの現実を見ても、まだ私は自分にその火の粉が降りかからないと思っていたのだ。それがこのマスクとボンベで打ち砕かれた。怖い。今は素直にそう思う。
「大丈夫。フォースとともにあれば」シューシュー言いながらケイちゃんは私の肩に手を置いた。「山のふもとまでは車で行く。そっからは歩き」
どうして彼女は平気なんだろう。軽い冗談を言いながら、ハイキングにでも行くような口ぶりだった。私はケイちゃんの背中を見ながら思った。
マスクはこれだけのために作った特注品だとケイちゃんは言った。つけてみると、それが本当だと分かる。形は完全にガスマスクだけど、呼吸の部分は全然違う。息を吸うと酸素ボンベからは新鮮な空気が送られてくる。そして吐く息は酸素ボンベに戻らず、横の排出口から出ていく。おそらくは一方通行の弁になっていて、装着車の呼吸に合わせてそれが空いたり、閉まったりしているのだろう。よく考えられている。これなら黄色い煙を吸い込むことはない。
「ボンベは予備と一緒に腰に下げとくの。交換の仕方は」
ケイちゃんはボンベとホースの接続部分を捻って外して見せた。それから今のと逆の動作をして、ボンベをもとにもどした。
「ボンベを外してる間は呼吸が出来なくなるから気をつけてね」
「一つ聞いても?」
「どうぞ」
「ホントにこれ安全なのかな?」私はボンベのバルブが閉まっていることを確認して言った。「どうにも信用できなくて」
「ふむ」
ケイちゃんは私を無視して歩き出した。はぁ、私はそんなこと言うべきではなかった。彼女は一人ずつ街から救い出しているといった。であるならば、これをつけて何度も街に入ってるということだ。そして生還している。それだけで、このマスクの性能は折り紙付きだろうに。私の細い神経が不安を口に出さなければ耐え切れなかったのだ。それが彼女への非礼だとも気づかずに。
反省の言葉を考えながら、私はケイちゃんの背中を追いかけた。すると、彼女は私が歩幅を合わせるタイミングで振り返り、私の顔面に何かしらのスプレーを吹きかけた。反射的にのけぞり、うわっと声を出す。
「ふふふふ。これはメイドインアメリカの催涙スプレーだよ」ケイちゃんはしゃがみ込む私にスプレーを手渡した。ラベルには赤地に黒く英語が書かれていた。「なんともないでしょう?」
「確かに、なんともない」
「伊達じゃないんだよ。このマスクは」
また歩き出した彼女の横に私は追いついた。不安は少し解消された。でも、「こんなものまで必要になるの?」また新しい不安が湧いた。
「備えあれば憂いなしだからね。ホントは拳銃持ちたいけど」
「そっか。大変なんだな」
「(…冗談なんだけどな)うん。大変」
車で走った時より、街は移動しやすかった。視界は相変わらずだったけど、どっかにぶつかる心配はない。頭に入れてきた地図も一助となり、私とケイちゃんは目的地まで最短距離を歩けていた。
ただ一つ、道端でうずくまる人を見るのは車のときより恐ろしかった。車内で見た時と何ら変わらずに根を張っているように見えたが、彼らが息をして、肩を少し膨らませるだけで私の心臓はギュッと小さくなる思いだった。おかしな反応だと思う。私は、彼らが生きているのがたまらなく怖かった。
「目を合わせなければ何もしてこないから」
私の心情を見透かしたようにケイちゃんは言った。そこで気づく、私と彼らを遮る壁がないことに。今、彼らに襲われたら、もしその拍子にマスクがはぎとられたら、そんな考えが頭をよぎった。はぁ、今朝から私は自分がとんでもない小心者だったことを発見し続けている。嫌になるよ、全く。
地図に従って街を西に進んでいると、駅前に出る。と言っても、駅は名ばかりの廃墟同然になっていた。列車が来るはずのトンネルには、何かの資材や木材が高く積まれていて、列車どころか人さえ寄せ付けない。
異様な光景に違いないのだが、今日の私の目的は驚きを隠さないことじゃない。駅前に置かれた交番。そっちに向かって私とケイちゃんは歩みを進めた。
交番はすぐに見つけられた。市民を守るための小さな建物は、この霧の中にあっても、個性的な存在感を持っていた。
「すいませーん」
ガラスの引き戸を開けて、ケイちゃんは元気よく入っていった。私はおっかなびっくりと彼女の後に続く。
交番の中はがらんとしていた。机が目の前にあるだけで誰もいない。使われてる形跡もあまりなかった。煙のせいで見えにくかったが、放置された椅子にはうっすら埃が積もっていた。
「誰もいないみたいだね」私はいった。
ケイちゃんは私の声が聞こえていないようだった。マスクで声がくぐもってるせいかもしれない。
「すいませーん。市長の森岡ですけどもー」
「(そんな自己紹介あるのか)出直そう。長居はマズイ」
私がケイちゃんの肩に手を置き、外へ促そうとしたときだった。ギィ、と音がした。それは断続的に聞こえてきて、段々と近づいてくる。誰かが階段を下りてくる音。この交番には二階があった。
私は彼女の肩に手を置いたまま固まって、降りてくる者を見定めようと階段の方を凝視した。
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