後編
「で、なんでスナックなわけ?」
紺野を連れて訪れたのはとあるスナックだ。カウンターに立つホステスの前に紺野を座らせ、桜田は遠巻きにその様子を眺めている。
「麻薬商人の男に化けてほしいんじゃなかったの?」
「その子の姿はただの中継だよ。男はこの店の常連で、彼女にしつこく言い寄っているらしい」
まずは紺野をホステスに化けさせ、三時間の甘いプレゼントと引き換えに男の姿をお借りしようという寸法だ。
「へえ。俺女の子に化けるのあんまり好きじゃないんだけどな。なんかこう、大事なものを失った気がするっていうかさ」
「少しの間だから文句言うな」
その六時間後、ホテルのベッドの上には全く同じ顔の二人の男がいた。
「おい、どっちがペンギン男だ」
「俺だよ」と一方の男が起き上がる。一見善良そうな、しがない会社員風の男だ。「本物の方は気絶しちゃった」
無理もないなと思う。抱こうとした女が突然自分と同じ姿に化けるなんて、とんだ恐怖体験だ。
二人とも裸だが、どこまで行ったのかは聞かないでおこう。
◆
紺野の任務は難しいことではなかった。ワイシャツの第三ボタンに小型のマイクが仕込んであり、桜田たち警察官が外からその音声を聞いている。そして麻薬取引が始まり次第、機動隊を引き連れて会場に突入する、という作戦だ。つまるところ、紺野自身はただ大人しく座っていればいいだけだ。
複合ビルの地下にあるパーティ会場は、一見すると高級レストランのような空間だ。豪勢なフルコースの料理と並行して出される余興の内容は落語に手品にビッグバンドといったもので、特段不審な点は見当たらなかった。パーティが始まってから既に二時間以上経過するが、麻薬などという物騒な単語は一度も耳にしておらず、紺野はごく普通にパーティを楽しんでいる。
ただ一つだけ特異な点を挙げるとするならば、ウェイトレスの格好だろう。
会場内にいる女は全員、ハイレグのボディスーツにピンヒールの靴を履いている。さらに特筆すべきは、尻に付いたふわふわの球体と、頭頂部から天に伸びる長い耳だ。つまり彼女たちはバニーガールだった。
あ、ちょうど来た。「ドリンクのおかわりいかがですか?」「じゃあ、シャンパンで」
バニーガールたちは各々担当のテーブルがあるらしく、紺野の席に来るのはこの、やたらと胸の大きい女だ。
女がグラスをテーブルに置くと、紺野の目の前でその乳が揺れる。悪いと思いつつも、つい視線が行ってしまう。
ボディスーツにはたわわな果実を上から吊るす野暮な肩紐はなく、その実はほとんどカップに乗っかっているだけに近い。さながらコーンに乗ったアイスクリーム、横並びのダブルだ。いや、ぽよんぽよんと揺れるその様は、アイスというよりむしろプリンだ。あれだ、風船に詰められたプリン、分かるだろうか。あの球体のプリンがコーンに乗っかっているような状態だ。果実の先端に咲いているはずの可憐な花は辛うじて隠れてはいるものの、女が身動きする度に零れ落ちてしまいそうで、紺野は気が気でなかった。
あーっ、危ない。零れる零れる。駄目だ、冷や冷やしてしょうがない。どぎまぎするあまり、なんだか胸が苦しくなってきた。恋かな? ぶちっ。
ぶち?
胸元で奇妙な音がした気がして視線を落とすと、そこにはバニーガールのたわわな果実が実っていた。ワイシャツのボタンが弾け飛び、隙間から谷間が覗いている。
しまった!
両手を見ると、骨は細く色が白い。顔に手を当てると、顎が小さく肌が柔らかいのが分かる。ズボンはウエストが緩いのに尻はきつくなっている。
女の身体だ。無意識のうちに三時間も彼女の乳を視線で追い続けていたらしい。巨乳の女に化けてしまった。
うわ、どうしよう。入場時に携帯電話は取り上げられていて、桜田への連絡手段はない。いや、マイクを使えばいいのか。あれ、ボタンがない。そうだ、乳の圧で弾け飛んだんだった。
ボタンを回収せねばと辺りを見回すと、少し離れた所に光る物が落ちているのを見つけた。あれだろうか。
こそこそと立ち上がり、その物体に手を伸ばす。が、直後、突如目の前に革靴が現れ、パキッと嫌な音を鳴らした。
げっ! 何するんだよ!
「おまえ、何してんだよ!」
頭上から鋭い声が降ってきて、紺野は顔を上げた。そこには黒服の男が立っている。
「なんでスーツなんか着てんだよ。さっさとバニーに着替えろ!」
男に強引に引っ張られ、紺野は更衣室へ連行された。
◇
バキッ! という嫌な音を最後に、紺野からの通信が途絶えた。まさか中で何かあったのだろうか。
「逃げたんじゃないといいですけどね」と石川が言う。「ほら、例えば虫に化けたりしたら、もう逃げ放題じゃないですか」
ありえるかもしれない。紺野はその能力こそ使えるものの、人間性については全く信頼できない人物だ。裏切りも考えるべきだろうか。
「ちょっと様子を見に行こうかな」
桜田が言うと、石川は顔を顰めた。
「危ないですよ。警備ガチガチでしたし、部外者が侵入したらどうなるか」
「拳銃持って行きゃなんとかなるだろ」
「警察官だってばれたらどうするんですか。今のところ普通のパーティを装ってるみたいですし、証拠隠されたら台無しですよ」
「ぐぬう」
石川の言う通りだ。
「もう少しここで様子を見るか」
「それしかないですよ」
◆
パーティ会場の照明が落ち、スポットライトでステージが照らされた。
「さあ皆様。いよいよお待ちかねのこの時間がやってまいりました!」
司会が高らかに言うと、優雅なバラードを演奏していたビッグバンドの曲調が華やかなダンスナンバーに変わる。
困難とは続け様に起こるもので、紺野が更衣室に入ると、偶然そこにいた本物の巨乳バニーガールとばったり出会し、彼女は泡を吹いて倒れてしまった。直後に黒服に呼び出され、やむを得ず女のバニースーツを剥ぎ取り彼女と入れ替わった紺野は、わけも分からぬまま引き摺られ、今は何故かステージの上にいる。
「それでは早速、当社の新製品をご紹介しましょう!」
司会が言うと、客席から歓声が上がる。状況が理解できず、紺野は周囲の様子を窺った。
ステージ上に並ぶのは、一面のバニーガールだ。どうやら会場内のバニーガールが全員集められているらしい。一体何が始まるのか。
そこで再びBGMの曲調が変わった。まるで英雄の凱旋を喜ぶかのような、荘厳なファンファーレだ。
音楽と共に数人の黒服がそれぞれ一台ずつのワゴンを押して入場する。その一つ一つに金属製のドームカバーが乗せられていた。
「最初にご紹介するのは、こちらの商品です!」
左端のワゴンにスポットライトが当たる。焦らすようなドラムロールの後、ラッパの合図でドームカバーが開いた。客席から再び歓声が上がる。
そこから先は、凄まじい光景だった。
商品名らしい聞き慣れない単語の後に、効果や使用方法、依存性の高さなどが説明され、陽気な音楽に合わせて次々にバニーガールがそれを服用していく。抵抗する者もいれば自ら進んで使用する者もいたが、使ってしまえば皆同じ。精神がこの世のものではなくなってしまっていた。側から見れば不気味でしかないが、本人たちは至って幸福そうで、その乖離が恐ろしく思えた。
狂気は左から順に伝播し、いよいよ紺野の番が回ってくる。錠剤や煙草のような物、様々なタイプがあったようだが、ドームの中から現れたのは。
「ひえっ」
注射器だ。
お薬事情はよく知らないが、一番危ないやつなんじゃないの、これ。
本能的に逃げ出そうとする紺野を、屈強な黒服ががっちりと羽交締めにした。
◇
勢いがあれば案外どうにかなるもので、警備員の制止を振り切ってパーティ会場への侵に成功した。そこで桜田は、信じられないものを目にする。
暗い会場内で唯一煌々と照らされたステージの上には、数名のバニーガールと黒服の男がいた。マジックショーか何かだと思いたいところだったが、生憎そのような楽しげな雰囲気ではない。バニーガールたちの様子が、どう見ても異様なのだ。
一見すると泥酔状態に近いものがあるが、それよりもっと悪質だ。奇声を上げる者、服を脱ぎだす者、失禁している者。症状はそれぞれ違うが、皆正気を失っている。それはまさしく地獄絵図と称するに相応しい光景のように思えた。
しかし、そこで立ち尽くしてしまったのは不味かった。すぐに警備員が追いかけてきて、桜田を見るなり殴りかかってくる。
大振りな男の動きを躱すのは難しいことではなかったが、俄に周囲がざわつき始める。会場中の警備員が集まってきて囲まれてしまったのは厄介だった。
その時だった。
「アキ!」と、女の声が会場内に響いた。
アキ? と振り返ると、壇上のやたらと胸の大きいバニーガールが黒服に羽交い締めにされているのが目に入る。
「アキ! 助けて!」
考えるより先に桜田は駆け出した。緊急事態と判断されたのか会場の照明が点灯され、視界が晴れる。ゲストを避難させる声、武器を構える警備員、全てを置き去りにして壇上に駆け上がる。
「コン!」
注射器を構える男を体当たりで突き飛ばし、バニーガールを羽交い締めする男の顎に拳を入れた。男はバランスを崩し、彼女は解放される。
「コン! おまえコンなのか?」勢い余って転んだバニーガールに駆け寄る。
「どっからどう見たってそうでしょ!」
「どっからどう見たって違えよ!」
その瞬間、バニーガールが青褪め息を呑んだ。「危ない!」と叫んだ時にはもう遅かった。
頭に激しい衝撃が走り、視界が消えた。気付けば桜田は床に崩れ落ちていた。後頭部に手を当てると、ぬるりと嫌な感触がする。痛いのかどうかよく分からない。いや、やっぱ痛えな、これ。
どうにか首を捻れば、背後にパイプ椅子を振りかぶる男がいる。ああ、殴られたのか。と、ようやくそこで理解した。
「くそ、油断した」
不味いな。頭がぐらぐらして、まともに前が見えない。これでは走るのは難しそうだ。
桜田は床に這いつくばろうとする身体を無理やり起こし、パイプ椅子の男に飛びついた。
「コン! 逃げろ!」
しかし紺野は動かない。
「応援は呼んだ! 早く逃げろ!」
紺野は青い顔で小さく頷き、走り出した。
バニーガールの乳が揺れる。
巨乳のバニーガールの夢を見ていた。
サイレンの音で目を覚ますと、そこにいるのはバニー姿の金髪男だった。
「お、起きた」男が桜田の顔を覗き込む。
「おかしいな」朦朧とする意識の中、上手く回らない舌で桜田は言った。「巨乳のバニーガールに膝枕されてたはずなんだが」
「おやおや。随分おかしな夢を見たもんだね」
「夢?」
「夢だよ」
「そうか、夢か」
よく考えたら、ペンギンに変身する男なんているわけがない。そうか、あれは最初から夢だったのか。
「おい」
ふと、その瞬間だけ頭が冴えた気がした。
「おまえ、ちょっと寝てただろ」
「げっ。ばれた?」
◇
広い館内をしばらく進むと、そこに目的の男はいた。
本当にいるのかよ。と、半ば呆れの入り混じった感動を覚えながら、男に近寄る。
「おい、ペンギン男」
桜田が声をかけると、男は振り返りもせずに、水槽に映った瞳を丸くした。
「おまわりさん! 奇遇だね、こんな所で」
「わざわざ探しに来たんだよ。やっと見つけたぞ」
「え、俺なんも悪いことしてないよ?」
「違えよ。頼みがある」
「嫌だね。あんなの二度と御免だよ。それに俺は今、忙しい」
そう言って紺野は、目の前のプールにぷかぷかと浮かぶ、やたらと大きなペンギンを指差した。
「この子、さっきまでずっと陸の上でじっとしてたんだけど、今やっと水の中に入ってきたんだよ」
はあ、でっかいなあ、可愛いなあ。と、溜め息混じりに紺野は言う。
「おまえ、いつからここにいるんだ?」
「時間? 知らないよ。開館してすぐ来たと思うけど」
入場ゲートで受け取ったパンフレットを開いた。そこには九時三十分開館と書かれている。続けて腕時計を確かめる。今の時刻は。
ひやりと背中を冷たいものが伝った。
「おいコン」
手遅れだった。
顔を上げると、金髪男がいなくなっている。代わりに同じ場所に、服に絡まってもがく巨大なペンギンがいた。
「おい!」
桜田は慌てて服ごとペンギンを抱え上げた。
「重っ! 臭っ!」
周囲の客に奇異の目で見られながら、桜田は走った。
ぐえ、と間抜けな声でペンギンが鳴く。
*
続いてのニュースです。今日十二時三十分頃、
犯人は現在も逃走中で、警察が捜索を続けています。
なお水族館によりますと、事件後に館内に残っているペンギンの状況を確認したところ、水族館内のペンギンの数は減っておらず、連れ去られたペンギンの出所は不明とのことです。
繰り返します。事件後、水族館内のペンギンの数は減っておらず、連れ去られたペンギンの出所は不明とのことです。
ペンギン男とおまわりさん 七名菜々 @7n7btb
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