ペンギン男とおまわりさん
七名菜々
前編
「続いてのニュースです。今日十二時頃、
ソファに寝転がっていた
川瀬見市の南沖に浮かぶ『阿ノ島』に繋がる橋の根元に、桜田の勤める阿ノ島交番はある。そして新阿ノ島水族館、通称『あのすい』は、交番のほど近くにある人気の施設だ。
「ペンギンは現在も行方が分かっておらず、水族館と警察が近隣住民の協力を得ながら捜索を続けているとのことです」
げえっ。
猿や猪に熊。人里に危険な動物が現れれば対応に追われるのは警察の宿命だが、警察官は対動物の訓練など受けておらず、動物の扱いは素人同然だ。ペンギンは危険でこそないものの、海にでも逃げられたら手に負えないのではないか。
「ペンギンは可愛いですが、フリッパーで殴られると骨折などの怪我を負う危険もあります。見つけた場合は不用意に近寄らず、各関係窓口に連絡してください」
いや、危険なのかよ。
ペンギンに殴られて受傷事故なんて、後世まで語り継がれる笑い話になるぞ。
「なお水族館によりますと、フンボルトペンギンの脱走後、館内に残っているペンギンの状況を確認したところ、水族館内のペンギンの数は減っておらず、脱走したペンギンの出所は不明とのことです」
は?
「繰り返します。ペンギンの脱走後、水族館内のペンギンの数は減っておらず、脱走したペンギンの出所は不明とのことです」
繰り返し聞いても意味が分からなかった。
水族館からペンギンが逃げたのに、ペンギンが減っていない? そんなわけあるか。
桜田はテレビを消し、仰向けに倒れた。
嫌な予感がする。
◇
全裸の男がいる、と通報を受けて現場に駆けつけると、そこで待ち受けていたのは想像とは違う状態の全裸男だった。
男は溺れている間に服が脱げてしまったそうで、浜に打ち上げられたところを変態と間違われて通報されたのだった。
桜田が現場に着く頃には救命措置は終えており、男は衰弱してはいるものの、命に別状はなさそうだった。
男の前に屈み、彼の様子を確かめる。
根本の方が黒くなった金髪。切れ長の吊り目に薄い唇。人相が良いとは言えないが、女遊びには困らなそうな危うい色気のある顔だ。溺れたせいか血色は悪く、真夏だというのに小刻みに震えている。
桜田は腕時計に目を落とし、針の位置を確かめた。
「十時二十四分」
「えっ、なんで時間読み上げたんですか」
隣にいた後輩警察官、
「おっと失礼。つい癖で」
「やめてくださいよ。逮捕じゃないんですから」
「すまんすまん」
眉を顰める石川に対して謝罪を口にしてから、桜田は周囲に向かって言う。
「ご協力ありがとうございました。彼の身柄はこちらで預かりますので」
「身柄?」石川に睨まれる。
すまんすまん、と笑って誤魔化し、男を連れてパトカーに乗った。
月曜の病院は混んでいて、一通り検査を終えた頃には昼過ぎになっていた。男の体調に問題なく、今はすっかり回復している。
「ねえ、どういうこと? 俺なんも悪いことしてないけど」
川瀬見南警察署の取調室に連行された男は不本意そうに言った。
「知らばっくれても無駄だぜ。こっちには証拠もあるんだ」
桜田は男の正面の椅子にどさりと腰を落とした。
「何故溺れてたのかは知らねえが、駆けつけたのが消防じゃなかったのが運の尽きだな。おまえ、昨日のオカルトペンギン事件の犯人だろ」
嫌な予感は的中し、桜田は今日朝一番からあのペンギン脱走事件に駆り出されていた。残された証拠を見る限りあの事件は怪奇現象と言う他なく、捜査員一同頭を抱えていたのだ。それがこんな形で容疑者に巡り会えるとは、願ってもない幸運だった。
「オカルトペンギン事件って何? 意味分かんないんだけど」
男はあくまで白を切るつもりらしく、困惑顔で首を捻っている。いい度胸じゃねえか。
「昨日『あのすい』で事件があったのは知ってるか? ペンギンが脱走したのに、いなくなったペンギンはいなかったという、おかしな事件だ。ニュースにもなってたろ」
「そんなのニュースになってたの? 知らなかったな」
男は否認の姿勢を崩さないが、構わず桜田は続ける。
「それで今朝、現場に行って監視カメラの映像を確認したんだ」
捜査員たちを困惑させたその映像の内容を、桜田は説明する。
「日曜の水族館は賑わっていて、ペンギン水槽前も多くの人が行き交っていたが、その中に一人、水槽の前にじっと佇む男がいた。しばらくすると突然映像が乱れて、一瞬だけ画面が暗転した。その直後だった」
ペンギンが現れたのは。
「水槽の前から男が消えて、代わりに同じ場所にペンギンがいた。それはまるで」
馬鹿らしくて口にするのも憚られるが。
「男がペンギンに変身したみたいに」
こんな突拍子もない話をしているのに、男は表情を変えなかった。この件に心当たりがあることの証左だろうか。
「もちろん変身なんてありえない。映像については今鑑識が詳しく調べているが、恐らく犯人が何らかの方法で偽装したんだろう。実際に現場にペンギンが現れていたことについては、多分、犯人がどこかから持ち込んだんだ。そして、現場に残されていたのがこれだ」
桜田は足元にあった段ボール箱を拾い上げ、机の上に置いた。
「これはあんたの物だろ。
箱の中を覗き込み、「あー!」と男が叫ぶ。
「俺の荷物じゃん!」
そこに入っているのは、黒い革財布と、その中身をビニール袋に小分けしたものだ。免許証サイズのカードは新阿ノ島水族館の年間パスポートで、目の前の男そっくりの顔写真の横に『紺野彩人』と印字されている。さらに箱の底に置かれたビニール袋には、男物の衣服まで入っていた。全てペンギンが逃げ去った跡に残されていたものだ。
「お、認めるのか。わざわざ現場に犯人の手掛かりを残してくれるとは、ご親切なこったな。あの事件、一体何がどうなってたのか説明しろ」
「いやあ」と紺野は困ったように眉を下げた。「説明って言われてもな。見たまんまだよ。おまわりさんの言った通り」
「つまりおまえが映像を偽装したと」
「違う違う。言ってたじゃん、『男がペンギンに変身した』って」
「変身した?」
「うん」
「誰が」
「俺が」
「ペンギンに?」
「ペンギンに」
「意味が分からない」精神病院送りにしてやろうか。
「だからそのままの意味だって」
紺野は面倒臭そうに頭の後ろで手を組み、椅子の背にもたれかかった。
「俺さあ、呪われてんだよね」
「呪いだあ?」ますます胡散臭い話になってきたぞ。
「大昔に俺のご先祖様の色男が女狐を誑かしたらしくてさ。その色男の家系に生まれた男子は全員、自分の意に反して化けてしまうっていう、女狐の呪いを受けてるんだ。最初は目が合った瞬間その相手に化けるって条件だったみたいだけど、今じゃ随分呪いの力は弱まってて、俺の場合は三時間視界に入れ続けた相手に化けるようになってる」
「なんだ、そのおかしな呪いは」作り話にしてももう少しましな設定を考えたらどうだ。
「多分、元は色男が他の女とまぐわえなくするためだったんじゃないの? 一度も目を合わせずにセックスするのって至難の業だし」
「な、なるほど」筋は通っているのか。
「いやあ、普段は気をつけてるんだけどね。昨日はつい夢中になって、うっかりペンギンに化けちゃったってわけ。咄嗟に逃げたけど、化けた相手がフンボルトペンギンでよかったよ。エンペラーペンギンなら暑さで死んでた」
まあ『あのすい』にはフンボルトしかいないんだけどね。いつかエンペラーも見に行きたいなあ。などと、どうでもいいことを言って紺野は笑っている。
全く意味が分からない。分からないが、一旦はこいつの話を聞こう。
「つまりおまえは、三時間もペンギンを見ていたのか?」
「うん」
「それでペンギンに化けてしまって、慌てて海に逃げたと?」
「そゆこと」
「で、溺れたのか。ペンギンのくせに」
「そう。一晩中泳いでたら疲れて寝ちゃって、変身が解けて溺れたんだ。寝ると変身解けちゃうんだよね、俺」
「はあ」
一体どうしたものか。こんな話を調書に書いたら、俺の方が精神病院送りにされてしまう。
しかし紺野の方も嘘をついているようには見えず、信じられはしないまでも、これ以上の尋問に意味があるとも思えなかった。
今日家帰れるかな。と、桜田は腕時計に視線を落とした。その針は十三時半の少し前を指している。
「お、ちょうど三時間だね」
桜田は思わず、勢いよく顔を上げた。目の前の人物から発せられた声が、つい先程までの紺野の話し声と全く違う、しかしよく聞き馴染みのある声だったからだ。
「じゃあ、俺はそろそろ失礼するよ」
自分の目に映ったものが信じられない。紺野がいたはずの場所には、桜田と同じ顔をした男がいた。
まさか、本当に紺野が化けたというのか?
もう一度時計を見る。確かに紺野を保護してから、ちょうど三時間が経過していた。
桜田の顔をした男は段ボール箱を掻っ攫うと、呆然とする本物の桜田の横を擦り抜けて、颯爽と取調室から駆け出していった。
桜田はしばらく放心した後、はたと我に返った。
「しまった、やられた!」
慌てて部屋から飛び出したが、そこにはもう男の姿はない。
「くそっ、あのペンギン男!」
翌朝紺野はあっさり捕まった。無防備にも市内の公園のベンチで眠りこけていたからだ。眠ると変身が解けるというのは本当なのか、その顔は元の金髪男に戻っている。
「もう逃さねえぞ、ペンギン男」
寝ぼけ頭で混乱気味の紺野に向かって、桜田は言った。
「食い逃げに万引きに女遊び。人の顔で随分好き放題してくれたな」
紺野は桜田に化けたのをいいことに大層羽目を外したらしく、『阿ノ島交番の警察官が問題を起こしている』という苦情が警察署に大量に寄せられていた。
ベンチから起き上がった紺野は、へらへらと腹立たしい笑みを浮かべる。
「おっかしいなあ。今頃俺の代わりにおまわりさんが逮捕されてるはずだったんだけど」
「ばーか、甘えよ。おまえがやらかすのは目に見えてたから、俺のアリバイ作りは完璧だ」
「えっ、じゃあもしかして俺、今から真犯人として逮捕されちゃう感じ?」
「いや、それはやめた」
「へ?」
「検察への説明があまりに面倒だ。それよりおまえ、仕事手伝え」
「は?」
「近々市内で大規模な麻薬取引パーティが開催されるらしいんだ。今そこに警察が潜入しようと画策しているが、パーティは招待制で、警察官が身分を偽って潜入するのは不可能に近い。だから、おまえが潜り込め」
「はあ?」
「招待客に一人、目星が付いてる奴がいるんだよ。そいつに化ければ行けるだろ」
はーあ? と紺野の声がひっくり返る。「嫌だよそんなの! 危ないじゃん!」
「まあ、確かに危険は伴うな。断られるのは仕方ない。ただ、協力してもらえねえなら、やっぱりおまえのことは逮捕しなきゃなんねえな」
「うわ、汚い! 最低!」
「なんとでも言えよ。警察ってのは汚ねえもんだ」
桜田は紺野の前に屈み、その瞳を見据えた。
「さあ、どうするか選べよ。言っておくが、俺は本気だぜ?」
紺野は呻きながら頭を引っ掻き回した後、「あーもう!」と叫んで右手を差し出した。
諦め口調で紺野は言う。「俺のことは『コン』とでも呼んでよ。おまわりさん、名前は?」
「桜田だよ」
「下は?」
「
「お、いいね。じゃあ『アキ』だ」
「はあ? なんでだよ」
「『こんとあき』って知らない? 伝説のバディなんだけど。それみたいでかっこいいじゃん」
「ありゃ名作絵本だろうが。どうしておまえの脳内はそうファンシーなんだよ」ペンギンだの絵本だの。
「仕方ないから今回だけ付き合ってあげるよ。よろしくね、アキ」
桜田はにやりと口角を上げ、紺野の手を取った。
「頼んだぜ、ペンギン男」
「コンって呼んでよ」
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