私の初恋、ココアの味

音愛トオル

私の初恋、ココアの味

 初めてここを訪れた時、私はまだ自分の持ち物のほとんど全てに「芹山三日月せりやまみかづき」と自分の名前を書いていた――小学生の高学年くらい。自分を小学生であると証明する帽子もランドセルも何も身に着けていないある休日の昼下がり。

 私は偶然にもここを見つけたのだ。


「きれい……」


 坂や小道が多く入り組んだ住宅街の中に、まるで隠れるかのように存在しているある小さな公園。休日の午後にもかかわらず人影は全くなく、その代わりに、背の高い木々の緑が狭い地面を覆っていた。水玉模様のようにできたまばらな光の穴。それを木漏れ日というのだと、まだ知って間もないころ。

 ちょこん、と横たわる砂場を挟んでベンチと向かい合う自動販売機を、私は見つけた。


「これ、なんだろう。お店にも全然売ってない。見たことないやつ?」


 お母さんとよく行くスーパーにもないし、家の周りの自販機にもない、珍しい飲み物が売っていた。その時はお金を持っていなかったから買えなかったが、以来私はよくこの公園――密かに、「木漏れ日広場」と名付けた――に訪れるようになる。

 誰一人、ほかの人間に出会わないこの場所は、自分がまるで月を愛でるファンタジー世界の姫になったような、そんな気分にしてくれる。「三日月」なんて名前、小学生ながらあまり好きではなかったけれど、木漏れ日広場には似つかわしく思えた。

 中学2年生まではその理由から、中学2年生からはまだその特別感を残しつつ、ここに来る理由の大部分が姿を変えていた。


――そして、今。


「もうここのココアを飲まないと、調子が出ないよ」


 高校生になった今、自由に使えるお金が増えたことで、私がここに来る理由の9割がココアを味わうために変わっていたのだった。


「……」


 この日も朝、少し早く家を出て自転車でこの木漏れ日広場に寄り道をしてから、最寄り駅まで向かう。電車の時間は少し遅れるけれど、朝のHRには問題なく間に合うのだ。

 高校生になった私の、それが日常だった。


 そう、この日までは。



※※※



 今朝、私の身に降りかかった偶然は3つ。

 ひとつ、通る信号が全て青だったこと。おかげで駅に10分ほど早く到着した。ふたつ、ちょうど点検で遅延していた電車の運転再開のタイミングで駅に着いたため、普段よりも15分早い電車に乗ることができたこと。

 そして、みっつ。


――いや、正しくは、これこそがだったのだ。


「芹山さん」

「――は、はい?な、なに……秋庭あきばさん」


 朝のHRを1限の予習をしながら待っていた私は、ふいに、クラスメイトの秋庭ゆめに話しかけられた。秋庭さんは右耳で刈り上げたショートカットで、左の頬の横から首のあたりまで髪を垂らした、クールな雰囲気な子だ。その風貌から一部の女子人気が高いと同時に、私のように少し、萎縮してしまう生徒もいた。

 私は三日月のヘアピンで前髪を流した三つ編みおさげの髪型で、たぶん秋庭さんとは対極のグループ。かかわることなんてないと思っていた。


 それが、どうしていきなり?


「な、何かしちゃったかな」

「どうして?何もしてないっしょ。それより――ほら、これ。間違って2つ買っちゃったからさ、良かったら飲んでよ」

「――え!?」


 がたっ、と椅子を蹴って立ち上がった私にクラス中の視線が集まったが、すぐ横に秋庭さんがいたおかげ(かせいか)ですぐに注目は収まった。しかし、私の動揺は収まることはない。

 だって、そこには、私だけの――三日月姫だけのが、あったから。秋庭さんが私の机の上に2つ、あのココアの缶を置いたのだ。


「ど、どうして秋庭さんが……」

「秘密の公園。あたし、あの辺に住んでるんだけど、雰囲気がめっちゃ好きでさ。よく、1人になりたい時とかに行くんだ。それで、今朝もちょっと嫌なことがあってさ。学校に行く前にあそこに行ったんだ」

「……も、もしかして」


 私の、。今朝、公園でココアを買う所を秋庭さんに見られていたこと。

 何年も通っていて誰かに会うなり見つかったりするのは、これが初めてだった。そういう意味でも、これは驚くべき偶然だった。


「うん。見つけたんだ。芹山さんのこと」

「あ……」


 秋庭さんは、私の目をまっすぐと見つめる。そして、普段は鋭い眼光が、ふにゃ、と柔らかく下がった目じりと、優しさがにじみ出た唇と、微かに除く歯と、漏れ出た吐息が可愛らしい、木漏れ日のような微笑みを浮かべた。

 私は、秋庭さんに釘付けになってしまった。


「――い。おーい、芹山さん?芹山三日月さーん」

「……姫だ」

「え、え?」

「私の、姫……」


 私だけの公園を知っていて、こんなにかっこよくて可愛い秋庭さん。身長は同じくらいだけど、そのおかげで顔が良く見える。

 その髪型は、どこか三日月のようにも見えて。


「……ねえ、姫ってあたしのこと?」

「――あっ、いやちが……!い、今のは忘れて……っ」

「はは、いや、いいって。なんか、王子さまって言われることは多かったけど、姫は新鮮だな。ちょっと、嬉しい。初めてちゃんと話したけど、芹山さんって楽しい子だね」

「……た、楽しい?」


 いつの間にか私の隣の席に(秋庭さんのは全然違う席)腰かけていた秋庭さんにならって、私もぽすん、と椅子に半ば落ちるようにして座った。それで久しぶりにあのココアが見えて、そういえば秋庭さんも木漏れ日広場を知っているって言ってたな、と思い出す。

 周回遅れな私のせいで飛んで行った会話は、しかしさらに予想もしない方向へと向かった。


「うん。芹山さんって委員でもないのにたまに花瓶の水換えたり黒板消したりしてるでしょ」

「……み、見てたの!?」

「あはは、ごめんごめん。でも、あたしそういうのしないからさ、すごいなって。素敵、だと思ってた。だから実は――」


 続く言葉に、私は息が詰まった。


「話すきっかけ、探してたんだよね。仲良くなりたくてさ」


 まさか私があのココアの存在を忘れてしまう日が来ようとは。よく冷えたアイスココアの缶がかく汗も、見慣れたパッケージも、私の視界には少しも入ってこなかった。

 ただ、照れ隠しに頬をぽりぽりと掻いて笑う秋庭さんが、素敵で。


「ねえ、良かったらさ、名前で呼んでもいい?」

「な、名前」

「うん。あたしのことは夢って呼んでよ」

「――ゆ、夢ちゃん」

「へへっ、うん。三日月」


 秋庭さん――夢ちゃんのアルトが、私の耳を撫でる。私の、名前と共に。

 それに胸が高鳴って、どきどきして、私はどうかしてしまったんだろうか。


「それでさ――」


 夢ちゃんの声を遮るように鳴った朝のHRの予鈴。私はその音で我に帰り、今自分があの秋庭夢ちゃんと話しているのだと今更ながら自覚した。

 そう思うと場違いな気がしてきて、この胸の高鳴りも釣り合わない気がしてきて。さっきまでは一瞬でも目を離したくなかった夢ちゃんの顔を、私は見れなくなってしまった。

 それをどう取ったか、夢ちゃんは何も言わずに立ち上がると私の机に置いた2つのココアのうち1つを手に取り、颯爽と自分の席へと――戻る、その直前だった。夢ちゃんは少しだけ屈んで、私にそっと耳打ちしてきたのだ。


「ね、今日一緒に帰ろう?それでさ、あの公園に行こうよ――


 夢ちゃんは私の返事を待たずに自然な動作で遠ざかっていった。その後ろ姿を目で追った私は、少しずつ、夢ちゃんの言葉を理解していき、全て咀嚼した時、盛大に膝を机にぶつけた。

 驚いて、身体が跳ねて、それで、だ。


――でも。


「……夢ちゃんと、一緒に」


 私は想像する。

 三日月の姫は、ある夕暮れ、異国の姫と出会う。木漏れ日の差す秘密の広場で、2人は束の間、秘密を語らうのだ。

 2人の姿が徐々に私と夢ちゃんに姿を変えていき、想像の中の私が、とても、楽しそうに笑っていて。


「……っ!」


――ああ、それはなんて幸せな。


 気が付くと私は、席に座る直前にこちらを振り返った夢ちゃんに、何度も何度も首を縦に振っていた。それを見ると夢ちゃんは、ほんの一瞬だけ口角を緩め、席に着いた。

 夢現ゆめうつつ、どこか現実感のないまま私はまだ心臓が走っているのを感じた。胸が温かさで満ち、脳裏には夢ちゃんの笑顔。

 担任の先生が教室に来る前に、と思って私は朝公園で開けたのと同じココアの缶を開ける。ぐい、と傾けると冷たい舌ざわりと柔らかい甘みが口に広がっていくのに、どうしてだろう。いつもとどこか、味が違う気がして。


「そっか、これが」


 私はその瞬間に、夢ちゃんに跳ねるこの心が、気持ちを何と呼べばいいか気が付いたのだ。私の姫、惹きこまれる笑顔、私の名前を呼ぶ声――


 これは、噂に聞く、の味とやらだ。


 私の初恋、ココアの味。

 今感じているのはほとんどが、夢ちゃんにときめくこの心の熱で、実は味なんてほとんど分からない。感じたと思った風味は全部、私の記憶が勝手に呼んできたものだった。

 それでもきっと、私はこの日のこの味を忘れることはないだろうな、と夢ちゃんの背中を見つめながら、笑った。



※※※



――この日も朝、少し早く家を出て自転車でこの木漏れ日広場に寄り道をしてから、最寄り駅まで向かう。電車の時間は少し遅れるけれど、朝のHRには問題なく間に合うのだ。

 だが、ほんの少し前までとは異なる点が、ひとつだけあった。


「お待たせ、三日月」

「あっ、夢ちゃん」


 私は公園で夢ちゃんと待ち合わせをする。

 あの日からほとんど毎日、朝ここで会って、一緒に駅に向かって、学校へ並んで歩く。私だけの木漏れ日広場はいつしか、になっていて。

 隣に、私だけの姫が、居てくれて――


 高校生になった私の、それが日常になった。



 そう、初恋の味を知った日からは。

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私の初恋、ココアの味 音愛トオル @ayf0114

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