第5話

 深く息を吸ってからゆっくりとチャイムを鳴らすと、少しの間の後、明るい千夏の声が迎えてくれた。学校で話す声より明るいのは意外であった。ドアを開けた千夏は、いつもの顔であるが、服装はといえばスカートではなく裾の広がった白色のズボンをはいていた。一見するとスカートに見える不思議なズボンは、あとで調べて分かったことだが、ガウチョパンツというものらしい。それが大人っぽさ持たせて千夏には似合っていた。たぶんクラスの女子が身につければ、チグハグで不釣合な印象を受けるだろう。


 千夏が自分の部屋へと僕を案内する。部屋に入ると悪いことと思いながらも、ついまわりを見渡してしまった。最初に目についたのは、淡いブルーのカーテンだ。この色には見覚えがあり、演劇の練習で初めて部屋に入ったときも同じように最初に見たことを思い出した。たぶん自分も好きな色だったので、そこは親近感をもって覚えていたのかもしれない。あとは机にベッド、それに鏡台がある。


「彼女に興味があったんだ」


 千夏は僕を試すように笑っている。答えはイエスなのだが、目の前にいる千夏には素直になれなかった。


「イラストが上手いなと思っただけだ」

「でも、会いたいと思った」

「なんだよ。からかうのなら帰るよ」


 部屋を出ようとドアに向かうと、千夏は笑って止めた。


「ごめんね。からかうつもりは無かったのよ。実は彼女、来てるの。紹介しようと思って」


 千夏の言葉に僕の足は止まった。


「どうして僕に紹介してくれるんだ? その子は大丈夫なのか」

「うん、大丈夫。彼女も会いたいと思ってるよ。でもねー、その姿だとちょっと残念な感じ」


 頭からつま先まで僕を眺める千夏の目は、何やら期待を含めた色をしていた。自分なりに一応は気を使って普段より格好よくしてきたつもりだったが、千夏の一言でわずかに持っていた自信は一瞬にして跡形もなく消え失せた。こういうところが、千夏の人を惑わす力なのだろう。反撃できずグッと押し黙る僕の気持ちを察したのか、千夏の表情は柔らかくなり、鏡台の前に僕を座らせた。


「いい、彼女は私にとっても大切な人なのだから、紹介する私の身にもなってね。小林が残念だと私も恥をかくのだから」


 悔しいが千夏の言うことはもっともなことだ。頷くと、千夏は保護した迷い犬を落ちつかせるかのように優しく囁きかけた。


「大丈夫だよ。あの子の気を引くように、私がメイクしてあげるから。いいこと、目を閉じて動かないでよ。失敗したらやり直す時間ないんだから」

「メイクって、化粧か?」

「他に何があるのよ。小林、まさかメイクは女の子だけがすると思ってる?格好いい男子が何もしていないわけないよ」


 千夏は目を大きく開いて、驚く振りをしている。僕だってモテル男子が眉毛を整えたりしていることぐらいは知っている。このままで良いと言ってやりたいが、瞳さんには好印象を持って欲しいという思いから、ここは千夏にすがるしかなかった。


「わっ、分った。任せるよ。でも、本当に大丈夫なのか」

「私を見てよ。任せて」


 千夏が上から見つめる瞳は、頼もしいながらも、どこか怖くもあった。

 僕は千夏に促されるまま、鏡に向かい目を閉じた。失敗したらやり直す時間がないという脅し文句には従順になるしかない。そういえば、昔話でも「決して見ないでください」という約束を破りバッドエンドを迎えるパターンが多い。それならここは約束を守ろう。全ては瞳さんに会うためなのだ。


千夏の指が目を閉じた僕の顔に触れていく。肌に何か軽く塗られているのが分かった。まるで医師の打診を顔で受けているような感じだ。次は、薄くクリームが塗り広げられていく。手際が良く、不快ではない。頬を持ち上げられ、顔のマッサージをされているような心地よさだ。痛みはなく、肌が上に引っ張られて、張りが出てきたように思えた。


 次はスポンジのようなものが顔を撫でていく。目を閉じているので自分が何をされているのか分からないが、肌に伝わる化粧クリームの感触や、千夏の指が滑っていく音、なにより目を開けるのが怖いくらいに近くにいる千夏の甘い香りを感じていた。


 千夏の指が僕の唇に触れた。一瞬、電気が走り身体がピクリとした。特に千夏を意識したわけではないが、不思議な感覚だった。千夏が触れた唇はシットリと潤いを帯びて張りがでているのが分かる。思わず自分でも触れたくなるほどだ。ここまでくると、自分が一体どうなっているのか見当もつかない。自分など代わり映えしないのではという思いはあるものの、千夏のことを考えれば格好よくしてくれているのではという期待もあり、目を開けたいがそこはグッと我慢した。


 十分、いや、二十分くらい経ったのか。目を閉じているので、時間の感覚がなくなっている。長いように感じるが、実際は短いのかもしれない。頭にフワリと何かが舞い降りてきた。サッと千夏の指が頭を整えていく。忙しく動いていた千夏の手が止まった。


「偉いね。よく我慢したよ。おかげで楽にメイクできたよ。もう、目を開けてもいいよ」


小さな子をあやすように優しく耳元で千夏は囁いた。言われるまま、固く閉じていた瞼を開いていくと明るい光が一気に目の奥に入ってきた。何が見えているのか一瞬分からなかった。なぜなら、目の前に自分が見えないからだ。鏡に映っているはずの自分がいないのだ。僕は僕を探した。いない僕の代わりに、捉えたのは肩まで伸びた髪に、潤いのあるピンク色の唇の少女。瞳さんだ。瞳さんが僕の目の前にいる。彼女こそ、僕が憧れていた人なのだ。その瞳を僕は見つめている。初めて何かに触れたような純真な顔。ようやく気がついた。いま目の前にいるのは僕なのだ。


「初めまして、清水きよみずです」


 千夏が僕の隣に来て声をかけた。このとき、やっと分かった。瞳さんの遠くを見るような、憧れたものを見つめるような瞳が何を見ていたのか。


 千夏は笑いながら瞳さんの髪を撫でている。この髪は間違いなくさっきまで千夏がつけていたものだ。そう、僕の瞳に映っているのは、瞳さんではなかった。瞳さんの隣にいる少年だ。ショートカットでキリッとしながらも、優しく柔らかな笑顔で瞳さんを見ている。クラス、いや、学校中を探してもこれほど格好いい男子はいないだろう。笑顔の少年の姿を瞳に映しながら、素直にそう思った。いま、瞳さんは少年だけを一心に見ている。千夏という少年を憧れの瞳で見つめているのだ。


 あっ、これと同じ気持ちになったときを思い出した。演劇だ。王子様の衣装をまとった千夏を、きっと僕はいまのような瞳をして見つめていたのだろう。

  

                 (了)

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鏡の中の瞳さん 水野 文 @ein4611

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