第4話 祖父と私と雨と傘
そんな私に悲劇が訪れた――。
大きな傘を差している為、視界が狭くなっている事に気が付かず、又はしゃいでいたので、足元の何かにつまづいて転んでしまった。調子にのると人はやらかしてしまうのだ。
「うわっ、痛いよ~痛いよ――。
足が痛いんじゃ……!」
転んだ私は、舗装されていない砂利道の石ころで膝小僧を怪我してしまった。
膝小僧からは、少し皮が裂け血が出ている。足が痛くて立てない。歩けない。
私は、雨が降っているその場に座り込んで泣き始めた。
「うぇ~ん~痛いよ……。痛いよ……。
足が、痛いよ……」
「りんちゃん、大丈夫?」
「大変じゃー大変じゃー」
幼稚園の仲間達は、騒ぐだけで問題が解決しない。幼い子供達なので仕方が無い。どうすれば良いか、分からないのだ。暫く騒いでいると誰かが声を掛けてきた。
「どうしたんじゃ?」
声の主にみんなが振り返ると、そこには私の祖父が立っていた。振り向かなくても私には分かった。少し掠れた声だが、優しさに包まれている。祖父の声にはそんな響きを持っている。
「りん、どうしたんじゃ?」
「爺ちゃん、足が痛いんじゃー!
りんの、足が痛いんじゃー……」
「そうか、転けたんじゃな。家までもうすぐじゃから、ワシがオンブしちゃろう。
ほれ、りん、ワシの背中に、はよう来い」
祖父が現れた事で、不安から解放された。助かった。このまま、 雨に打たれて座り込んで居るのか? と云う一種の恐怖もあった。恐怖と不安を一気にうち破ってくれたのは、私の祖父だった。
私は今朝の事件をすっかり忘れていた為、祖父に甘える事とした。
祖父の大きな背中にゆっくりとオンブされて、家路に着く事となった。
祖父の小さくて大きな背中にオンブされると、一気に気持ちが緩んでくる。大きな安心感を与えてくれる。
不意に、疑問が沸いた。
「ねえ、爺ちゃん。どうして今日、お迎え来んかったん? りん、待っとったんで?」
「すまん、すまん。今朝、りんの傘をワシが壊したじゃろ。それじゃけん、りんの傘を買いに町まで行って来たんじゃ。ほれ、りん。お前の新しい傘じゃで」
そう言って祖父は、手に持っていた新しい傘を開き、背中にいる私に渡してくれた。私は、今使っていた【コウモリ傘】を祖父に渡すと、新しい傘を差した。
ああ、そうだすっかり忘れてた……。
ヤッタァ――。りんの新しい傘だ。
「わぁーい、りんの新しい傘じゃー爺ちゃん、有り難う。ヤッタ――」
新しい傘を手に入れて、祖父の背中で私は有頂天になっていた。黄色い傘で雨具とおそろいだ。よく見れば、クマの可愛いキャラクターが付いていて、前の壊れた傘よりも可愛い。
やっぱり大好きだよ、爺ちゃん。これだよ、これ! 私にぴったりの傘だよ。爺ちゃん、ありがとう。
私は祖父の背中で、新しい傘を回したり、振ったりして数分楽しんだ。
しかし、ふと祖父の頭が雨で濡れているのに気が付いた。白髪で真っ白な頭が雨でびしょ濡れだ。
大変だ、どうしよう……。爺ちゃんが、カゼをひいちゃう……。
そんな思いに駆られると、居ても立っても居られなくなる。必至に考えた。考えた途端に自然に言葉が出る。
「爺ちゃん……【コウモリ傘】と替えて……」
「ん、なんでじゃ? この傘、気に入らんのか?」
「そうじゃないんじゃ、爺ちゃんの頭が、雨で濡れとるけん……」
「ええんじゃよ。お前が濡れんかったら、それで……」
「駄目じゃよ、爺ちゃん。風邪ひいちゃうがん……」
「分かったょ、りん。お前は、優しい子じゃのう……。爺ちゃん、嬉しいよ」
祖父は気を遣っていたのだ。今朝、私の新品の傘を折った事を。
そして、幼い私にでも分かった。
自分はなんて心が小さい者なのか。と云うことを…。
数回のやり取りの後、やっとの事で祖父は傘を交換してくれた。大人用の大きな【コウモリ傘】を私が祖父の背中から差す。祖父の頭を濡らさないように、しっかりと持つ。
そして、祖父は私を背中から落とさないように、両手でしっかりとオンブしてくれている。
こうして、私達は雨の中、無事家にたどり着いた。
もし、あの時、私が祖父の頭が濡れていた事に気が付かなかったら……?
又、傘を交換しょうと言わなかったら……?
恐らく祖父は自分が雨で、びしょ濡れになろうとも、何も言わなかったと思う。
今朝、私の傘を壊した事で、さっそく傘を買いに遠くの町まで買いに行ってくれた祖父。高齢であったにもかかわらず、私をオンブして帰る祖父は、体力も無く、苦しかったに違いない。
祖父の小さくて少し曲がった大きな背中。暖かく広い背中。
その大きくて温かい背中からは、体温以外の温かさを感じた。
当時の私には分からなかった……。それは、今思えば「無償の愛」と言う暖かさなのかも知れない。
「ありがとう、爺ちゃん……」
「んっ? 何か言ったか?」
「ううん、なんでもない……」
「アリガトウ、ジイチャン……」
「うん? 何か言ったか?」
「うん、ううん……」
「そうか……」
ありがとう、爺ちゃん……。
遠い過去の事が、走馬灯の如く懐かしく蘇ってくる。
目を閉じて、在りし日の祖父を偲んだ。
ありがとう、爺ちゃん……。
過去の記憶の糸を辿り寄せた後、外をみた。
つい先ほどまで降っていた雨がいつの間にか止んでいた。
冷めてしまったコーヒーを一気に飲んだ。リビングの窓を開け、外に出て曇天の空を見上げると、雲の間から青空が見え隠れしていた。
雨はもう止み、降らないだろう……。
やがて、陽光を帯びた柔らかな一陣の風が、私の髪を優しく吹き上げると、庭の木立を優しく揺らしたのだった。
了
雨女の詩 ~祖父と私と雨と傘~。 甲斐央一 @kaiami358
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