【10】
「ううっ……」
口から呻き声が漏れた。息ができない。全身が痛い。身体が、言う事を聞かない。
「ふふ、大丈夫?」
耳元に纏わりついたのは、歩の声だった。あの頃の姿で、石段を転げ落ちた末に下の道路にまで放り出された俺を見下ろしている。あの頃の無邪気で無垢な、だが、辺りを包み始めた夜の闇よりも黒々とした目で。
「ああ、もう動けなさそうだね。見なよ、その足」
じっとりと夏の熱気を吸った生温いアスファルトの地面に這いつくばったまま、精一杯首を捻って足を見ようとしたが、できなかった。激痛の中に、皮膚が裂けているような感覚があるが、まさか、骨折して、骨が突き出て―――、
「うっ……ぐすっ……」
あまりの痛みに、また涙が出たが、口の中には鉄の味が広がっていた。鼻から垂れているのが、洟なのか血なのか分からなかった。
「……驚いた?」
歩が、問いかけてきた。しゃがんで、倒れている俺の顔を覗き込みながら。
「うっ……あ、あ、ゆ……むっ……」
喋ろうとして、まともに喋れなかった。息をしようとすると、肺のどこかが破裂するかのように痛んだ。
「僕は、驚いたよ。まさか、ここに来てくれるなんてさ。何かあったの?まさか、これを取りに来たっていうの?」
嗚咽音を漏らす俺を尻目に、歩は俺の手元から何かを手繰り寄せて掲げた。それは、金メダルだった。あの日、歩に奪われた、俺の金メダル。
「もしかして、おばあちゃんが供養のつもりでここにこれを納めてたこと、知ってたの?はは、そんなわけないか。知るわけがないし、取りに来たって意味無いもんね。偶々見つけたから、思い出に持っていこうとしたんでしょう?ねえ、翔。大人になって、どんな仕事をしてるの?もう結婚してるの?家族はいるの?僕、ずっとここにいたから、知らないんだ。ねえ、教えてよ」
肯定も否定もできないでいると、歩は金メダルを見つめながら続けた。
「……さっきも言ったけどさ。僕ね、ずっとここにいたんだよ。死んだら天国とか地獄とか、そういう場所に行くんだろうと思ってたけど、違ったよ。気が付いたら、ここにいた。なんでか知らないけど、出て行こうとしても出て行けないんだ。理屈は分かんないけどさ、多分、父さんの家系のせいなんじゃないかなって思ってる。ほら」
歩が、石段の方を指差した。目だけを動かしてどうにか見遣ると、石段の前に黒い人影が並んでいた。背丈がバラバラの、夜の闇よりも濃い無数の人影が。
「誰が誰なのかも分かんないし、誰も何も言わないんだ。ただいるだけ。何とか父さんだけは分かったんだけど、やっぱり何も言わないし。ホント、意味分かんないよ……。でもね、なんとなく分かるんだ。これって多分、ここで祀ってた変な神様のせいなんだよ」
子供の頃から、幾度となく耳にして、口にもしてきた言葉が脳裏に蘇る。
上の、歩。
上の、高橋家。
上の……。
上?
かみ?
……神?
「罰なのか何なのか知らないけどさ。いい迷惑だよね。死んでも、ずっとこんな場所に留まり続けなきゃいけないなんてさ。おかげで、怨みを晴らしにも行けなかったし」
黒々とした目が、また俺を射抜いた。ヒッと喉が鳴る。
「ここから、たまに見てたよ。翔のこと。ここまで来てくれればよかったけど、来てくれなかったね。まあ、しょうがないか。犯行現場だもんね。来たくなんか、なかったよね」
「ぎ……ぢ、ぢが……」
違う、と言おうとして、口から血を吐いた。腹の中で、何かがブチブチと千切れたような感覚があった。
「あーあ。理由を聞きたかったのに、これじゃ聞けないじゃん。まあ、別にいいけど。なんとなく分かるし。どうして僕を殺したのか」
不意に、歩は立ち上がると、持っていた金メダルを手放した。キン、と冷たい音がして、金メダルが俺の顔の前に落ちた。
「今、翔が幸せなのかも、もうどうでもいいや」
夜の闇の中、目と鼻の先で、金メダルが輝いていた。不自然なほどに――いや、これは、
「その方が良かったけど、生きてることは確かなんだしさ。死んでる僕と違って。……でも――」
地面に付いている頬から、振動が伝わってきた。ゴオオオ、という懐かしいようで懐かしくないような轟音が耳に届く。それが、段々とこちらへ迫ってくる。
「もうすぐ、僕と同じになるよ」
「がっ……ぁあっ……!」
逃れようと、精一杯の力を振り絞った。が、激痛が増しただけで、身体は相変わらず言う事を聞かなかった。そうしている間にも、頬から伝わる振動は強くなっていき、耳に届く轟音は大きくなっていく。金メダルも、輝きを増していく。
嘘だ、嘘だっ、なんで、まだ、ここを、この道を、こんな道を、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だっ、なんで、どうして、こんな、俺は、俺はっ―――、
「……ねえ、翔」
歩が、無表情で俺を見下ろしていた。背後に、ぞろぞろと黒い人影が群れている。
「翔も、死んだらここに囚われるのかな――」
歩の恐ろしい言葉は、迫り来る轟音に掻き消された。
あの日の金メダルが凄まじい輝きを放った瞬間、俺の上を、凄まじい速度で、大型トラックのタイヤが通過していった―――。
あの日の金メダル 椎葉伊作 @siibaisaku6902
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