黄金林檎の落つる頃 ~皇帝の悪だくみ~

四谷軒

破門十字軍






 一二三〇年。

 シチリア、パレルモ。

 神聖ローマ帝国皇帝、フリードリヒ二世の宮殿にて。

 ターバンをした、つまりはイスラム教徒の装いをした若者が、玉座へと向かって楚々と歩いていた。


「陛下、フリードリヒ陛下」


「何か」


 アラビア語の呼びかけに、やはりアラビア語で答えた美男子――フリードリヒ二世は、かたわらにひかえる侍女がささげ持つ銀の盆から、オレンジをひとつ、手に取ったところだった。


「ローマより、教皇庁よりの来客です。例の枢機卿すうききょうです」


「そうか」


 フリードリヒ二世はうるさそうに、簡単な返事をした。そして小刀を出して、オレンジをむき始めた。

 オレンジは九世紀にイスラムによりシチリアにもたらされた果物であり、フリードリヒはこれを好んでいた。

 そして、ひとり静かに食べるのを、至上の時間としていた。


「あの」


「何だ」


「枢機卿は」


「通せ」


 フリードリヒ二世はオレンジの皮をむくのに夢中だ。

 まるで、この静かな時間を邪魔されたくないとばかりに、目線すら上げようとしない。

 ターバンの若者は、やれやれといった表情で引き返していく。






 1 


 フリードリヒ二世は、一一九四年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ六世とシチリア女王コスタンツァの間に生まれた。

 生まれて間もなく父のハインリヒ六世が病没し、摂政となった母コスタンツァもその翌年に亡くなってしまう。天涯孤独となったフリードリヒ二世は、教皇インノケンティウス三世の後見を受けるが、それでも恵まれた生活とは言えず、居所としていたパレルモの市民から食糧を分け与えられながら暮らしていた。

 ただし、言語能力、身体能力に恵まれており、言語においてはラテン語、ギリシア語、アラビア語などの六の言語を習得、身体においては乗馬、槍、鷹狩に熱中し、文武両道の若者として成長した。

 成長したフリードリヒ二世の興味関心は、科学、そしてイスラム文化に傾く。

 その卓越した言語能力を駆使し、イスラムのアイユーブ朝国王スルタンアル・カーミルと書簡を交わして、自然科学についての考察をやり取りをするまでになった。

 そして一二〇九年、フリードリヒ二世は、成人と扱われる年齢になった。


「予は、シチリア王位に就く」


 そしてゆくゆくは皇帝位を望む、野心と才能あふれるフリードリヒ二世。教皇は彼を脅威に思い、ヴェルフ家のオットーという男を皇帝にした。

 ところがそのオットーが、ブーヴィーヌの戦いにて、フランス王フィリップ二世に敗北してしまい、帝位はフリードリヒ二世へと転がり込んだ。

 しかし。


「ただし、十字軍をせ。きて、聖地を奪還せよ」


 教皇はいかにも敬虔なキリスト教徒のふりをして、その実、フリードリヒ二世にかせを与えた。

 帝位は認めたものの、それは十字軍の執行がなければ、いつでも取り下げてやる、という枷を。


「……十字軍か。ふん、迷惑なことを」


 フリードリヒ二世はイスラムに対して理解があり、十字軍について懐疑的だった。シチリア南部に盤踞ばんきょするイスラム教徒の山賊を捕らえ、そのまま配下にしたこともある(ターバンの若者はこの山賊の出身)。

 よって、フリードリヒ二世は、その後、遠征についてのらりくらりとかわして、これまでやって来た。

 しかし、一二二七年、教皇が代替わりし、グレゴリウス九世が教皇となると、話が変わる。


「不信心者は、破門にしてやってもよいのだぞ」


 グレゴリウス九世からすると、イスラムに対して寛容な皇帝が、ローマに近い南イタリアにいることが気に食わないし、何より危険である。


「だから早く遠征に出よ。十字軍を興すのだ」


 グレゴリウス九世は、法学者としても有名で、法を重んじていた。それゆえに、先の教皇との「約束」を守らせようとしていたといわれる。



「一度は行った。約束は守った」


 とは、フリードリヒ二世の言い分である。

 一二二八年、フリードリヒ二世は四万の軍を率いてエルサレムに向かった。向かったものの、フリードリヒ二世も含めてその遠征軍は疫病にかかる者が多く、やむなく途中で引き返し、遠征は矢を一本も使わずに終わった。


「あんなものが約束を果たしたと言えるか。もうよい、皇帝は破門する」


 フリードリヒ二世自身は破門されても心にさざなみひとつすら立たない。

 だが不名誉であり、破門者と付き合いを避ける者、ばかにして攻撃する者もおり、不利益であることに相違ない。


「やむを得ん。十字軍を興す。今度こそ、きっちりと、聖地を手に入れる」


 今さらの十字軍に、教皇庁は難色を示した。

 何しろ、破門皇帝による十字軍である。

 回数としては第六回に計上され、第六回十字軍と称されるが、別称の破門十字軍と呼ばれる方が多かった。



 2


 しかし破門皇帝ということもあって、エルサレム周辺の領主や騎士たちはまるで協力しようとしない。

 そこでフリードリヒ二世は一計を案じた。


「致し方ない……では、こうしよう。予は黄金の林檎りんごを手に入れ、教皇猊下げいかに進呈しようではないか」


「黄金の林檎?」


「さよう」


 実際には派遣されてきた枢機卿(名が伝わっていないため、「枢機卿」と記す)との会話である。

 枢機卿は頭の中で黄金の林檎という言葉を探す。

 皇帝はその枢機卿の吟味を黙って見ている。

 笑いながら。


「……禁断の木の実のことですかな、陛下?」


「解釈はいかようにでも、猊下。ただ、予はアラビア語を解する。あちらイスラムの文書も読んでいる。すなわち、あちらではそれほど大層な扱いを受けていないことも」


 皇帝はさらに、木から落つる頃になっても、それは収穫されないこともあるだろう、そういう扱いだ、と付け加えた。

 枢機卿は「何か企んでいるな」と思ったが、教皇からは、「十字軍は。ただし、なるべく」と言われている。

 黄金の林檎とやらが、禁断の木の実かどうかの保証はないが、

 枢機卿はフリードリヒ二世の誘いに乗った。


「いいでしょう。教皇庁は今回の十字軍、黙認させていただく」


 それなら、エルサレム付近の領主や騎士も、積極的な妨害はすまい。

 教皇庁として、ぎりぎりの譲歩である。

 そして、譲歩には当然、対価が伴う。


「では陛下、先ほどの言葉、書面にしていただけますな」


「よかろう」


「ただしラテン語だけでなく、ギリシア語のものも、いただけますな」


「……よかろう」


 枢機卿はほくそ笑んだ。

 何しろ、皇帝は六か国語を操る奇才。

 まさに言を左右にして誤魔化す気かもしれない。

 たとえば、林檎でも用意して。

 そして何より、先ほどの返事がわずかに遅れたのが、計略のあることのあかし


「……書けたぞ」


 フリードリヒ二世が、二通の書面を差し出す。

 それぞれ、ラテン語で「pomum aurantium 」、ギリシア語で「χρυσομηλιά」と、黄金の林檎のことが記されている。

 枢機卿はもう一度ほくそ笑んだ。

 黄金の林檎だろうが、禁断の木の実だろうが、そんなものは、あるはずがない。

 それはわかっている。

 問題は、それをあるとして皇帝がどう言いくるめようとしてくるか、だ。

 それをもこの二つの言語の書面により、縛ってやる。

 下らぬ陰謀など、神の代理人教皇の前には、無意味だと教えてやる。


「…………」


 皇帝は枢機卿の内心を知ってか知らずか、微笑んでいる。



 フリードリヒ二世の十字軍、すなわち破門十字軍は、史上稀に見る成果を収めた。


「聖地を奪還しただと?」


 皇帝からの書簡に、教皇庁は揺れた。

 しかも今回の十字軍は、無血でエルサレムを取り戻したのだ。

 いったい、どんなからくりだ。

 現地の領主や騎士たちの知らせが来て、さらに教皇庁は揺れた。


「イスラムの国王スルタンと……取り引き?」


 フリードリヒ二世は、かねてからアイユーブ朝国王スルタン、アル・カーミルとの伝手つてがあった。

 すなわち、自然科学についての考察を、書面上語り合う関係だという伝手を。


「偉大なる国王スルタン、アル・カーミルよ。そなたは今……苦しんでいるな?」


 アル・カーミルは実は、王位を継いだばかりで、王位をめぐる後継者争いはまだつづいていた。

 特にダマスカスを本拠にする競争相手とは熾烈な争いを繰り広げ、先般、ようやく倒したばかりだった。

 つまりは、余力がなかった。


「その苦しみを取り去ってやろう。予がエルサレムに入れば、ダマスカスだけではない、他の都市への抑止力となる。必要となれば援軍を出しても良い」


 フリードリヒ二世は巧妙だった。この取引に、期限を設けたのだ。十年という期限を。


「十年。十年あれば、アル・カーミルよ、そなたの地盤を確かなものにできるであろう? 予としても、そこまで居座るつもりはない」


 ではなぜ、エルサレムに入るのか。

 どうせ十年で出ていくのに。

 アル・カーミルのその当然の疑問に、フリードリヒ二世はこう答えた。


「東地中海における交易圏の形成。そして、シチリアをはじめとする、


 簡にして要を得た回答にアル・カーミルは満足し、聖地を明け渡した。

 一二二九年のことである。



 3


「そうして聖地を得たではないか。教皇庁は何が不満なのか」


「すべてだ」


 時と場所は、 一二三〇年のシチリア、パレルモに戻る。

 教皇庁よりの来訪者――枢機卿を迎え、フリードリヒ二世はオレンジの皮をむいている。

 その平然たるさまに、枢機卿は苛々いらいらを通り越して、怒りを覚えた。

 何なんだ、この皇帝は。

 よりによって、異教徒との取り引きによってエルサレムを取り戻すとは。

 だが、それは教皇庁として認められない。

 異教徒との取り引きの時点で許されない。

 しかも、十年という期限付きとは何だ。

 聖地は、永久とこしえ神の代理人教皇の下にあるべきだ。


「……ふむ」


 怒りに震える枢機卿を前に、フリードリヒ二世はむいたオレンジを、侍女が差し出した銀の皿に置いた。

 そうしてやはり差し出された絹の手巾で手を拭き、立ち上がった。


「そこまで言うのなら、教皇猊下げいかご本人が、十字軍を率いるがよろしい。そうして聖地を永久とこしえに神のものとなさるがよい」


「ばっ」


 馬鹿なことを言う前に、フリードリヒ二世は指を突きつけた。


「ではなぜ、予の不在の間に南イタリアを攻めたのかな? 知らぬとは、言わせぬぞ」


「…………」


 そのとおりであった。

 教皇グレゴリウス九世は、フリードリヒ二世が破門十字軍を率いて遠征している間、北イタリアの諸都市に命じて、皇帝領たる南イタリアを攻めた。

 それこそがフリードリヒ二世がアル・カーミルに言った「南イタリアのため」ということである。

 そして教皇が思ったより早くシチリアに舞い戻ったフリードリヒ二世は、教皇の軍を攻め返す。


「そうか、わかったぞ! 皇帝陛下、そなたの狙いは、最初から南イタリアを教皇猊下に攻めさせ、それで……」


「そこまでわかっているのなら、話は早い」


 フリードリヒ二世は、破門の解除を要求した。

 枢機卿は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 非は教皇庁にあるのは明らかだ。

 散々、十字軍に征け十字軍に征けと煽って、実際に遠征した隙を狙って、皇帝領を狙った教皇庁――教皇に。


「……ぐ、だがまだだ! まだだ皇帝陛下! そなた! そなたは約束を果たしていない!」


「……約束?」


 フリードリヒ二世は侍女のささげ持つ銀の皿の上の、むかれたオレンジに手を伸ばした。

 枢機卿はあざけるように笑う。


「そなたは黄金の林檎を教皇猊下に進呈する約束だぞ? それをまだ果たしていない!」


 枢機卿はふところから取り出す、二つの書状を。

 ラテン語と、ギリシア語。

 二つの書状を。


「さあさあ、ここにあるとおり、黄金の林檎を用意していただこう! ラテン語で『pomum aurantium 』、ギリシア語で『χρυσομηλιά』を!」


 枢機卿はわざとらしく手を差し出した。

 皇帝は実につまらなそうにそれらを見ると、オレンジを手に取り、こう言った。


「では差し上げよう」


「えっ」


 唖然とする枢機卿の手に、オレンジが置かれた。

 ふわんと柔らかな感触があって、馥郁たる香りがする。


「ま、待て! こ、これは」


 オレンジではないか、と言おうとして枢機卿は絶句した。

 オレンジ。

 それこそ、ラテン語で――


「そう、ラテン語で『pomum aurantium 』、つまり。ついでにギリシア語で『χρυσομηλιά』、これもすなわち


「な……」


「進呈しよう。ぜひサン・ピエトロ大聖堂に持ち帰ってくれ」


 皇帝が指を鳴らすと、ターバンの若者が、かごいっぱいのオレンジを抱えて現れた。

 枢機卿は力なくくずおれた。






 ……こうして一二三〇年、教皇と皇帝の間に、サン・ジェルマノの和約が成され、フリードリヒ二世の破門は解除された。

 他にも、皇帝派の領主の破門も解除され、重要な港湾都市も皇帝のものとなった。


「やれやれ。これで静かにオレンジを食すことができる」


 フリードリヒ二世は、まるで太陽のように黄金に輝く果実を見つめ、今日もそれをむいて味わうのだった。

 ひとり、静かに。






【了】 

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