月の扉が開いたとき

白雪花房

夢で見た世界との再会

 夢を見ている。

 地上を遥か離れた、夜の宮殿。プラチナホワイトに彩られた世界は神秘的で、常夜の景色が広がっている。

 清らかな香りがただよう都は無機質で、生活感がない。白い長衣を着た役人たちは人の身を外れた雰囲気がして、和風ファンタジーの世界に溶け込んでいる。

 おぼろげにかすんだ記憶は果たして正夢か、はたまた幻想か。分からない。ただ、夢に見た景色を再現したくて、彼女は創作活動に勤しみ、ついにプロになった。


 あや子は今日もネグリジェに似たワンピース姿で、パソコンと向き合う。

 部屋はこじんまりとしていた。仕事をして寝るだけの環境。消臭剤の匂いがまた、虚ろな雰囲気を加速させる。当然、置物や観葉植物の類は置いていない。インテリアのカタログを閲覧する気すらなかった。


 時刻はすでに遅く、人の気配はない。秋らしいひんやりとした空気が張り詰める。夜の闇に沈んだ町を繊細な星たちだけが見下ろし、幻想的な輝きが天を彩っていた。深海の底に足をつけたかのような静けさ。なにかが起きそうな気配で満ちている。

 なお、家主は外の景色を気にも留めていない。


「うーん。次の展開、どうしよう。なにも思い浮かばないよ……」

 先ほどからウンウンと唸っている。

 あや子は伸ばしっぱにした髪をかき乱し、眉を寄せながら薄い液晶とにらめっこを続けていた。

 一週間以内に異世界もののシナリオを書き上げ、提出しなければならないのに、半分も終わっていない。一刻も早く完成させなければ、顧客の信用に関わる。

「そもそも異世界なんて行ったことないし。リアリティある描写とか、できないよ」

 うんと伸びをしてから、だらりと腕を垂らす。

「あーあー、非日常の世界へ連れ出してくれる人でもいないかなー。異世界からきた王子様とか」

 冗談まじりに希望を口にしても、むなしいだけ。

 真面目に原稿と向き合い、アイデアをひねり出そうとする。

 カウントダウンが入れば集中できると思ったけれど、精神が追い詰められれば追い詰められるほど、展望が狭まっていく気がした。

「ああ、もう無理! 発狂しそう!」

 頭の中がいっぱいいっぱい。もう限界だ。画面を伏せガタッと席を立つ。

 ゆったりとした裾をさばきながら窓を開け、中庭へ足を運んだ。


 ぽっかりと空いた地に出ると、澄んだ空気が全身を包む。上からは月の光が柔らかに差し込んでいた。

 緑が豊かで周りの環境からは浮いている。まるで別世界に来たような感覚だった。

「今にも異世界への扉が現れそうじゃない」

 冗談半分に笑った瞬間、突如として閃光がほとばしる。ピカッと稲妻が走ったような感覚。中庭に明るさが降りた。

「なにあれ」

 まぶしさに目を細めながら顔を上げると、月のあたりに透明な線が引かれ、パカッと開いた。透明な空間に召喚エフェクトのようなものが広がる。その中からころんとしたシルエットが飛び出した。


「ええ!? なんで? 本当に異世界への扉が!?」

 目を白黒とさせてギョッとしていると、小さな来訪者が降ってくる。

「うげぇ、ここどこですか?」

 こてんと着地したのはふわふわとした毛並みを持つ、月のうさぎだった。

「そちらこそどなた?」

 かがみ込み、目を合わせる。

 うさぎはそわそわとあたりを見渡しては、救いを求めるようにこちらを見た。

「月宮殿の使者です」

「月の都!? つまり、異世界ってことね!」

 感激して声を張り上げるも、相手は冷静だった。

「ええ、本当に壮麗な都ですよ。常夜の景色に白い宮殿が映え、不死の住民が永遠を謳歌する、神秘的な世界」

「やっぱり! 私の夢は真実だったのだわ。これは運命よ! ねえ、私を月の都に連れて行って。あなたこそが件の王子様なのでしょう?」

 熱を持って追い詰めにかかると、うさぎは引き気味に後ずさり。

「いえ、地上の住民を連れていく用事はありませんから」

 ばっさりと切り捨てる。

 あや子はがっくりと肩を落とした。

「じゃあ、なんで来たのよ」

「我々は月のお姫様を回収しに着ただけですよ。それはそうとここはいったい……」

「ただの無個性な町よ」

 素直に答えた。

 内心、期待を削がれてがっかりしている。用がないのなら帰ってほしかった。

 でも、もしかしたらという可能性もある。月のお姫様の正体が誰かとは決まっていない。わざわざ中庭に現れたからには、理由があるはずだ。

「ねえ、もしかして月のお姫様って?」

 あや子は真剣な目をして、顔を近づけた。

 うさぎは露骨に困った顔で目をそらす。

「は、はずれですぅ! お姫様はもっと麗しく、透明感にあふれた方なのです!」

 ガビーン。石として固まる。

 でも、悪い子ではなさそうだ。気を取り直して、姿勢を正す。

「とりあえず、お姫様なら多分、人里離れた場所にいるんじゃない? 例えば、富士のあたりとか」

「あ、ありがとうございます。貴重な情報に感謝を。これはお土産です」

 平謝りしつつ差し出す。手渡されたのはほんのりと紅に染まった淡い花だった。

「ムーンフラワーです。では」

 直後に空がひらめき、ペガサスのような生き物が馬車を引き連れて、飛来してきた。うさぎは当たり前のように戸を開けて、乗り込む。

 突然のファンタジー展開に戸惑っている間に馬車は発進。謎の生物は彼方へと飛んでいった。

 後にはなにもない空が広がるだけ。ぽっかりと浮かんだ月がなめらかに、輝いている。

「まるで空の鏡ね」

 あや子は口の中でつぶやいた。


「なにがなんだか分からないけど、とりあえずよかったね」

 晴れやかな気持ちで部屋に戻る。

 肩をぐるぐると回しながら、カップに注いであるコーヒーに口をつけた。

「さあ、徹夜よ!」

 パソコンを開き、液晶とウキウキと向き合う。

 ちょうどインスピレーションが湧いてきたところだ。早く形にしたくてたまらない。内容は、白くてかわいらしいうさぎの、姫を探す旅、とか。

「お姫様、見つかるといいね」

 ゆるく口元をほころばせ、指をキーボードに触れる。ちょうどFとJに左右の指を置いた形。直後にタイピングの音が軽やかに鳴り始めた。


 夜が明けて清々しい朝がやってくる。

 さすがにくたくた。脳も極限まで使ってしまったけれど、後悔はない。窓を開けて外の景色を取り込み、涼やかな気候を肌にまといながら、うんと伸びをする。

 短時間で一気に書き上げた原稿は展開を急ぎ、雑に収束した感は否めない。逆に言うと、細かいことは気にせず、読み進んでいける内容だ。確かな熱量を持ってつむいだストーリーは、猛烈な勢いでクライマックスへなだれ込む。

 我ながらワクワクが止まらない。まるで自分が主人公と一緒に冒険の旅を体験したかのような心地だった。


 ふと思い出すのは中庭。ガラッと窓を開けて、中に入る。緑の芝生に樹木が生えた地は、静かなまま。異世界のゲートは開かないし、うさぎも現れない。


 まるでうさぎとの邂逅すら夢だったかのように思える。

 しかし、飾り気のない部屋には透き通るような淡い花が埋けてあり、ほんのりと紅に色づいていた。



 そして、原稿を提出してから数日が経った日の夜のこと。

 淡紅色を帯びた花が透明に輝き出した。手を止め花瓶に注目する。もう二度と会うはずのないものを思い起こし、妙に感傷的な気分になった。

 ぼんやりと見入っていると突然、風が吹き込む。ぶわっと長い髪が持ち上がり、フリンジがめくれた。鋭い空気の流れから顔をそむけるように出口を向く。

 あや子はカッと目を見開いた。

 中庭にひょっこりと降り立ったのは、白いうさぎ。どこにでもいる小動物であるはずなのに、じっと見つめていると、心の芯が揺さぶられる。

 頭に思い浮かんだのは月光と共に現れ、ペガサスの引く馬車に引かれて去った使者。視界ではなく、本能が告げている。

 今、記憶の蓋が開き、停まっていた時がゆっくりと動き出すのを感じた。

 胸の奥に熱が灯る。まるで望月の日の余韻にふたたび薪がくべられたような、狂おしい感覚だった。


 まさか、また会えるなんて。不確かな感覚をたぐりよせるように歩みを寄せる。胸に手を当てながら体を向けた女に対し、紅い瞳がきらりと輝いた。

「ありがとうございます。あなた様が創作し、導いてくださったおかげで、目的を果たすことができました」

 ぺこりと頭を下げ、述べる。

 あや子はきょとんと目を丸くしながら、スリッパを手前に寄せた。

「あなた様を表彰したく、月宮殿に案内します。いかがです?」

 ふたたび、爽やかな風が吹いて、カーテンを揺らす。

 鼓動が早鐘を鳴らし、高揚が全身を伝わり、心を熱くさせた。ムーンフラワーの清らかな香りが淡くただよう中、びりりと肌に電流が走る。

 まさしくあや子にとっての、未知なる扉が開く瞬間だった。

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